Silent History 01
風が宙を巻いている。
湿り気を通り越し、掴めそうなほど粘着質な風も不快を極めていた。
天井の剥ぎ取られた円形の大広間には、大人十人が縦に並ぶほどの大円が床に描かれている。
低い垂れ込めた褐色がかった空の下で、人間が五人、大円の周囲を等間隔で囲う。
淡く青い光が円の線上からは霧状に沸き立っていた。円の中と周に沿って解読不能な蛇のように曲がり捻れた文字か絵が無数に散らばっていた。
薄暗い神殿の一室にある光だったならば美しいと描写したかもしれない。 ただ、天井が無く壁も半分以上が朽ちて、かろうじて残る境界のとしての壁が、地面と外界とを区切っていた。
境界の向こう、地面のない壁の外がすぐ背景になるこの広間では、湧き上がる青の光と灰紫の雲のコントラストは、不気味としか表現できなかった。
何よりも異様さを際立てていたのは、円陣の中央に身を横たえる艶やかな黒竜だった。
地面の上、底の見えない広間の床にあった裂け目の上に、巨竜が半目に伏して腰を据えていた。
まるでここは私の場所だ、動くものかと言うかのように四つの脚で爪を立て、取り囲む人間たちを睨み付ける。
長い睫毛の下は、体と同じ黒の瞳が静かに光を放っている。
脆弱な人間たちが敷いた青い光が身に染みるのか、呻き声にも取れる低い唸りを繰り返していた。
それでも黒竜は、威厳や威信の輝きを失してはいなかった。
嫌な風だ、と湿った中に身をおく五人の内一人が口にする。眉をひそめてつぶやいた男が、死臭を含んだ大気と棘を含む緊張を腹に収めた。
彼の独り言のような呟きへの回答は無く、少女が静かに両腕を持ち上げた。
白く細い腕は傷が紫色に浮き上がり、
長い旅の苦痛を語っていた。
彼女の腕は同年の少女のものよりも華奢で、触れば落ちそうに細かったが、決意を秘める力強さすら感じさせた。
顔はまだ幼い。
十四、十五にも満たないだろうが疲労でこけ、体に不釣合いな大人びた感じが異様だった。
紅一点の少女だけではない。
仲間もみな同様に痩せこけ、体力は限界にまで削られていた。
少女を始めとして、共に苦難を乗り越えてたどり着いた仲間がみな、両手をこの城の主にかざす。
揃った十本の腕はどれもが同じように、創痍と泥にまみれていた。
服の裾という裾が破れ裂けた少女が、前を見据え、耳に馴染まない言葉を唱えはじめた。
言葉一つ一つが何を意味するのかは分からなかったが、呪文だと言うことだけは聞き取れた。
後の四人は彼女に従い、目を閉じた。
囲んでいた円上で風が乱舞していた。
体へは円の中心へ向けて重力がかかる。円陣の底が大きく割れる。
竜がゆっくり地面に置いていた顔を持ち上げた。
変化に驚いての所作というよりも、来るべき時がきたのだといった落ち着きがあった。
竜の黒く滑らかな尻尾が、宙を撫でるようにしなる。
人間が奏でているはずの詠唱文が、低く重なり合い地を這う不気味な風鳴りに似ていた。
彼らのこれから成そうとすることが、世界を救う。
結果は分かっていた。
しかし、どこか割り切れない風景が、違和感と共に眼前に広がっている。
数えきれぬ数の呻きが、地上の王を迎え入れるように地の底から這いあがってくる。
風の低い唸りのように、地割れの時の軋みのように湧き上がってくる。
まだ若い少女が汗の落ち髪の降りかかる目を細めながら、小さな手を握り込んだ。
彼らは決して円陣の中央から目を離そうとはしない。
堕ちていく王を見届けようとしている。
爆風の悲鳴が最高潮に達した。
陣から吹き上がる光の波が世界を壊してしまうように思われた。
風と閃光の奔流から湧き上がる叫びは、大気を引き裂く。
それほどにまで、苦しみや痛みといった負の力に満ちた叫びだった。
複雑に交じり合った轟音が合唱する。
身体の外から内から音が攻め立て、侵食していく。
まさしく混沌、空間すら歪みを見せる亜空間で、自我を保つことも困難だった。
女が肩まで腕を開いた。
額から汗が飛び散り乱れた髪は舞い上がった。
逆らう巨大な力を、なんとか押さえ込もうとする人間たちのせめぎあいが、円い陣の上で繰り広げられている。
竜王が目蓋を伏せて天を仰いだ。
艶やかな喉を大きく反らせると、背中から床の剥がれかけた円陣へと巨体が崩れていく。
弓のようにしなった姿は優美ですらあった。
それでいて、世界を統べる王の貫禄もまた、失われてはいない。
長く力強い爪は、天を掴むように空気を掻いた。
崩れた体は広がった地の裂け目に引きずられていく。
低い叫びが地表を伝ったと同時に、光の矢が天頂を目指し射掛けられた。
竜の沈んだ穴からは、闇色の体が半分も見えない。
光は重い空気の層を打破しながら、黒雲の中に突き刺さった。
闇に光が入ると、闇は消し飛んでしまう。
暗室に蝋燭を灯すとき、暗闇は炎に削られるように
紫雲に光矢が射られた瞬間、雲は浄化されるように飛散して消えた。
広間の真上には、渦を巻いた雲の中心に青い核が見えた。
空だと、すぐには気づかなかった。
その場には不似合いなほど青かった。
凄まじい咆哮で、視線は広間に引き戻された。
竜は火にいぶられているように陣の内、床の割れ目の中で喘ぎもがいていた。
空気が摩擦を起こし、火花が散る。
巨竜の体は完全に地面の割れ目に食われ、爪の先がわずかに見えるほどだった。
少女を始め、若者から白髪が混じる者まで、五人全員の強張りは解かれない。
戦いはまだ終わっていない。
視線で少女が合図を送る。
四人の首がかすかに揺れた。
女はそれを確認すると、
「ガルファード」と
凛とした声で叫び一人の男に顔を向ける。
呼ばれた男は彼女へ無言の視線を返し正面を向くと、殆ど姿が見栄ない廃墟の王を睨みつけ少女に倣い、拳に力を込める。
断末魔の咆哮が、陽炎立つ大気を裂き、崩れかかった石壁を揺さぶった。
恐ろしかった。
背中から走った冷気が腕を伝い体から体温を奪っていく。
威圧感と緊張感が喉に手を掛け徐々に絞め上げていく。
息の詰まる恐怖に、王を追い詰めた少年少女たち自身が怯え、術を放つ握られた拳は堪えきれず震えていた。
肌からは血気が失せ目は閉ざすことも許されず、見開かれえたまま円陣と身を捻る竜を凝視している。彼らもまた完全に恐怖へ飲まれていた。
早く終わってほしいと誰もが心の底では願っていたが、それを頭の中で文字化してしまうと、集中力が途切れ空気に飲まれてしまうことはわかっていた。
生命の輪郭がちりちりと焼きえぐられていく気分がした。
筋肉が硬直した体も痛かったが、なにより引き千切られる心臓が痛かった。
地面が音を立てて隆起した。
開いていた陣内の亀裂が完全に王を抱え込んだ。
世界の中心にいた王、人間の恐怖の髄が今、この世とあの世の割目に食われていく。
逆立っていた全身の毛が、ざわざわと音を立てているようだ。
汗を噴出させる余裕すらない。
緊迫は最高潮に達していた。
裂け目の闇が狭まれば狭まるほど、体全体にかかっていた重力は和らいでいく。
気はまだ抜けない。
人間と神の王の実体は、汚れた戦士たちの目には映らない。
今となっては王の出す覇気、威圧、重圧との闘いであった。
五人の人間と一人の王という戦いの構図ではない。
形の伴わない空気と、人間一人一人との闘いだった。
咆哮が陣の中、割れ目の下へと吸い込まれ、遠ざかる。体を縛り付ける大気の枷は、その鎖を緩めていったが、人間たちの精神の束縛までは簡単に解いてはくれない。
眠りに落ちる目蓋のように、割れ目の両岸は少しずつ結びを強める。
終われ、終われ、終われ。
言葉にならない電気信号だけが、五人の脳を駆け巡っていた。
体力と精神力は等価だ。
明らかに、人間の小さな器にある小さな精神は、瀕死の王に伏している。
上からだけではない、あらゆる方向から潰れかけている精神を攻めたてていた。
生か死か、その二択しか、この廃墟には存在しない。
死ぬのか。
魂の焼け切る音がした。
物見ていなかった視界が、まっ白に燃えた。
感覚という感覚がすべて失われた気がした。
神経がすべて抜き取られたのか、それとも精神とその器を区別する境目、自分と他人を認識する輪郭、固体と流動を仕切る脆弱な境界が崩れ溶けてしまったのだろうか。
私は、どこにあるのだろう。
死んでしまったのか、それとも生きているのか、もしくは心が壊れてしまったのだろうか。
時間という感覚すら失われていた。
頭の中を静かに、パルスだけが流れていた。
完全な崩壊、真っ白な世界は心地よくすらあった。
現実は痛いことだらけ、苦しいことばかりだった、ならばいっそこの純白の優しい世界に、身を浸していたい。
だれかが頬を力一杯平手打ちしたのだろうか。
起きろ、と耳もとで叫んだのかもしれない。
人間たちは同時に視界を取り戻した。
針の中に埋もれているような、痛々しい空気はない。
灰色の床と土、いつ崩れきってしまうか分からない壁と床の狭間が固定された眼球に写っている。
暗黒への入り口である裂け目は、今やただ地面に走る巨大な傷跡になっていた。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
音は完全に封じられていた。王も封じられた。
生きているものは今封じた五人の人間だけだった。
五人は彼らの他に生きている気配も音もしない空間に佇んでいた。
彼ら自身でさえ、生きているのか死んでいるのか判別し辛いほど、精気を体力と共に奪われていた。
細く、砂混じりの空気を吸った。肺は喜ぶどころか、異物を飲み込んだように拒絶していた。
まるで現実を取り戻した私たちのようだと居合わす人間たちの頭に浮かんだ。
封じた少年たちはまだ意識が霧に捕らわれながらも、脳まで侵されるような咆哮の中よく精神は崩れなかったものだと感心していた。
絶え得るだけの体力と精神力を、厳しく気の遠くなる長さの旅路で養ってきた成果があった。
現実をいまだ受け入れられず、瞬きすらできないまま一人が水平に伸ばされた腕を下ろした。
筋肉すべてがばらばらになりそうに、悲鳴を上げている。
小刻みな呼吸でゆっくりと膝を床に落とす。
爆風で壁や床から抉り落とされた土埃が、膝と床の狭間でつぶれて音を上げた。
他の四人も同じように膝を折って地面に崩れていく。
少女が床に両手を膝の前に落とした瞬間、細い苦痛の嗚咽が漏れた。硬直した背中がぎしぎし音を立てるようだったが、頭が床に垂れ下がった。
彼女の感情が流れ込んだわけではない。
彼女が皆の気持ちを代弁してくれたと言ってもいい。幼い少女が感じた痛みはその場にいた皆が共有していた。
青年少年少女全員が、泣き崩れていた。
ガルファードと呼ばれた少年もまた地面に頭を擦りつけ、声を大きくして泣いていた。
声にならない、掠れて押しつぶされた嗚咽が、青筋だった喉から押し出されて、床を這う。
裂かれる胸の痛みだけが、感じられる紛れもない現実だった。
握りつぶされる喉の苦しさは、これまでに感じたことがなく、目の奥を焦がした。
たまらない虚無感に襲われ、心が大半持ち去られた感覚がのしかかった。
どうしてこれほどまでに苦しく痛く、何よりも悲しいのか分からなかった。
彼ら、五人は勝者だ。
戦いの決着はついている。
すべてが終われば、旅の苦しみも報われ楽になれると信じていた。
ガルファードは空を仰ぐ。
小指の爪ほどしか空いていなかった空の穴は径を広げ、今は大きく雲の向こう側が拝めた。
青い。
宇宙の色が丸く切り取られていた。
いい天気だと言っていいはずなのに、やりきれなさが心に巣くっていた。
青さがむしろ、空しさを感じさせた。厚く垂れかかっていた何層もの雲が取り払われたはずだった。
それなのに、あまりに軽すぎる空の色が五人の人間の心を裂いていた。
痛みはこれからずっと付きまとうのだろうか。
何年、何十年経っても、過去を変えられないように。
目を閉じた。
ひとすじの涼やかな風が吹いた。
だが、少年たちはそのことに気づいてはいない。
風は陣のまわりを囲んで流れる。
ひとすじ、またひとすじと織物のようにそれは絡み合い舞い上がっていく。
人間を祝福しているかのようだった。
疑うことなく、彼ら五人は勝利者だ。
歴史上最大の難事件を解決した。
晴れやかな気分で帰還していいはずだった。
風の音も完全に絶え、倒壊したかつての広間は不気味な沈黙が降りていた。
戦いは幕を降ろした。
すべては終わったはずなのに、奈落への道をくぐりせり上がってきた断末魔の叫びは、消えてしまった今でも耳から離れない。
おそらくこのまま命絶えるまでその余韻を残すことになるだろう。
ずっと
ずっと
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