Silent History 02






彼が目覚めたのは、いつも定刻に目を開く天蓋つきの床の上ではなかった。



眼前に広がる、見慣れた紅い絨毯に続くのは
同じく眼に馴染んだ大きく重厚な扉だった。

どうやらうたた寝をしてしまったらしい。


半分溶けかかっている意識のかたまりが、呟いた。

「急いているのか」

寝起きの体温の余韻で熱っぽい息が出るばかりで声にならない。

「私を追いつめるのか」

広い部屋には、上座に座る男のほかに人はおらず、
呟きに対する答えなど返ってはこない。
彼自身が人払いをしてしまったからだ。

「あの子を、辛い目にあわせよと言うのか」

鬚を蓄えた精悍な顔が、うつろに天蓋へと目を流す。

「あの細い背には重過ぎる役を負わせよと?」

声は湿り、震えていた。


だれに問いかけるでもない。
だれに答えを求めようとしているのでもなかった。
だれも、彼の答えに答えられる者など存在しなかった。

視点の定まらない思いの中
木目の浮いた肘かけに厚みのある左腕を立てて、火照る額を撫で上げた。
うっすらと額に粒を描く汗が、白く枯れた手のひらを湿らせた。


まだ霞がかりぼんやりとした頭のまま、深紅の大扉を眺めていた時だった。
人の手のひら大の厚みもする扉が、重く引きずる音をたてて開かれた。
高く愛らしい声が、扉の向こうの従者が押し開けた鉄門の音に続く。

「一国の王が無防備にも独り玉座でお昼寝とは。デュラーン国民が聞いたらさぞ頼りなく思うでしょうね」

淡い紫がかった長い髪が空気を含み、豊かに揺れているのが遠くからでも分かる。

未だ夢の霧から抜け出せずにいる王を見て、細い人像が小鳥のさえずりで笑う。
窓からもれる陽光に当てられようやく分かる髪の薄紫は
島国「デュラーン」の国民の髪によく現れ、馴染みの深いものだ。

「エレーネか」

目覚めたてのデュラーン国王が、頭の霧を取り払うように、褐色の顎鬚を撫でた。
羽毛のように柔らかな髪の女は、軽く腰を落とし、上品に会釈して王に歩み寄る。

「いつもは違うのだがな」

王が穏和な目を伏せ、眉を寄せた。
国を治めることに関しては立派な一方、こうした
悪戯っ子が悪戯を見つけられた時のような、子供っぽい仕草を時折見せる。

普段の、国王としての貫禄や威圧感とは違う、私生活での国王の表情だった。
エレーネは国王の無邪気さを垣間見る度に、自分が幼い頃置き忘れた素朴さを懐古し、国王の振る舞いを愛しく思う。

「でも、珍しいこと」

エレーネが王の右側に目をやった。
王が目を通していた書類が、線画の葉模様が細工されてある台の上に散っている。

「そうだな。今まで執務中にこのようなことは無かった。まわりから人を外して気が緩んだのだな」

疲労感が王の頭の先から乗りかかり、腕を動かすのも辛い。
寝乱れた髪や、疲れで陰った目元を他人の目の前にさらすなど今までには無かった。
それでも王は失態を笑って隠そうとする。
エレーネには王の微笑が痛々しくてたまらなかった。

「もう、お隠しになるのはおやめ下さいませ」

諌めるよりも懇願に近いエレーネの声が知らず震えを帯びる。

「エレーネ?」

一方で王は今自分がどのような状況にあるのか、わかっていない。
デュラーン王はエレーネの心情の変化を汲み取ってはやれなかった。
そのような余裕など、とっくに失っていた。

生来、細やかな精神の持ち主だった。
その血は彼の二人の息子に、薄まることなく繋がっている。
その本性を振り切ってしまうほどにまで、柔和な王の神経は削り取られていた。

エレーネの洞察力は王宮内でも随一だ。
彼女の特化した能力を以ってしても、未だデュラーン王をさいなむ原因を察してはいなかった。

「いつまで平気なふりをなさるおつもりですか。そのようなお顔をなさってはわたくしだって」

エレーネは腰の前で組み合わせていた氷砂糖のような透き通る手に爪を立てた。
正面から見つめることに耐えられなくなり、礼を失するとは分かりながらも、言葉途中に王から顔を背けた。


王は宙を見上げた。
目が広い中空をさまよい、焦点は定まっていない。
玉座に埋もれながら、天井を仰いだのは、赤の椅子に身を沈めてからは初めてだった。

エレーネは口を開かない。
近年富みに皺が目立つようになった王もまた、口を引き結んだままだった。
見上げる空間には、衣擦れの音すら響かない。

「いつから気付いていたのだ」

体に残る熱に考えが蒸発してまとまらない。
ほてった頬を手のひらに沿わせた。

「いつから演技を」

知らないふり、見ないふりを続けてきたエレーネの言葉からはずいぶんと以前から王の変化に気づいていた気配がした。
漸く王にも掬い取れた。

「二ヶ月になりますわ。でも貴方はわたくしが、貴方の変化に気付くよりもっと前から苦しんでいらしたのでしょう。
表情の端には小さな影をいつも持っていらっしゃいます。いったいどうなさったと言うのです」

王はエレーネを見ない。
聡明なエレーネは、デュラーン王が夜眠れないことだけはすぐに知り得ることができた。
王は日に日にやつれていく。
とうとう今日に至り、仕事中に人を遠ざけ意識を失ってしまった。



痛い沈黙ではない。
デュラーン王はエレーネに話そうとしている。
ただ、どう話せばいいのか順序を探っている。

「夢を、見ていた」

余韻を辿るように言葉をかみしめる。
国王が傾いた半身を起こし、椅子に身を収めると両手を肘掛に預けた。

「始めは断片的なものだった。絵のようなものだ。静止した画像だ。
崩れてずれた石畳、風化した廊下、太陽の下焼けた階段。本の中ならばどこにでもありそうな情景だ」

「廃墟ですね。探せばいくらでもありますわ。デュラーンには、見当たりませんけれど」

自国の地理はエレーネの頭に入っている。
その上、デュラーンの国土は狭い。
脳内を検索せずとも答えは出る。
狭いデュラーンには放置されるような廃墟は存在しないが、廃墟の夢など誰にでも見られるものだ。

「だが、夜を重ねるうちに、変化し始める。一枚一枚絵が入れ替わっていく。やがてはそれが、徐々に動き始めた」

「絵が、映像に?」

答える代わりに、王は大きな手のひらの陰で目を伏せた。
閉ざされた視界の中に、先ほど見た光景が広がっていく。

「場所は変わらぬ。以前見た夢と同じ風景だ。崩壊した壁や床、にごった空、巻き上がる土煙。
それだけならば、まだよかった。崩れ落ちた城が、夢を重ねるうちに元の姿を取り戻していく」

粉と化した壁の一部は、もとある場所に吸い取られるように収まり埃をかぶった階段は色鮮やかになった。
古城が修復されていくといった風ではない。
壊れた瓦礫が元の位置に持ち上がっていった。

「それは時間の逆行ということなのですか」

「落ちていた城壁の欠片はきちんと元の場所に収まっていった。散っていた残骸や塵も破片と共に、欠けた割れ目に吸い込まれていった。ただ、空は」

巨大な城の上空を覆い尽くしていた空の様子は忘れようもなく、特に網膜に焼きついたように離れない。

「空だけは、夢を重ねていくごとに厚みを増してゆくのだ」

崩れた廃墟は元の芸術的装飾を施された美しい状態に、一方空気の流れは異様な澱みを増していく。
栄華と崩壊の要素が並ぶ違和感があった。

「それは、ただの夢ではないとおっしゃるのですか」

「わかるのは、あれは私の夢ではないということだ。見たのは私だ、しかし私のものではない。私の記憶でもない。何者かが見た記憶なのだ」

王は痛む額に小刻みに震える右手を添えた。
夢は他の何者かの記憶だと王は言う。


王は何かを恐れている。


「何か」はデュラーン王が見た夢に関わることだということは、エレーネは察することができたが、それ以上について、彼女が王の所作から読み取ることはできなかった。

「なぜそうお思いになるのです。何か、根拠がおありのようですが」
他人の記憶を夢に見たのだと言い切る強さはどこから来るのだろうか。

「流れる夢を見て、色彩鮮やかな風景を見てわかった。今はもう、時間は逆巻かない。時間は完全に止まったのだ。
今日はっきり確信した。
これは、千五百年前の記憶だ」







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