Chrono-Crawler











神さま、どうか、ぼくをお許しください














 ((( クロノ・クロウラ 01 )))










それは、ささやきだった

だれかの願い
だれかの祈り
だれかの悲しみ
だれかのこころ
それともそれは、自分自身の?


水の中にいるような
浮かんでいる体
溶けていく
融けていく
外と内の境界
現実と虚構の狭間
心地いい瞬間の連続

そして
そして











目を開けた。

これは、空?
それとも、黒の海?
闇にのまれる、大地?


見ている、黒の世界。
それに散らばる、弱い光の粒。
それを、見ている。



受け入れた最初の情報は藍色の空に、頼りなげな星屑が散っている風景だった。

停止する世界を感じて滞留する時間の中で、ぼくは、空を見上げていた。
そもそもぼくは何者なのか、その瞬間にはわからなかった。


何もかもが麻痺していて、ただ差し出された写真のように変化のない空を
感動も何もなく、見つめているだけだった。


ぼくはぼくの体の中にいるんだろうか。
心は肉体という器に収まっているのだろうか。
手は、耳は、口は、鼻は、そこにあるのだろうか。

そう思うほど、揺らいでいる現とも知れない情報以外には何もなかった。


どうでもよかったのかも知れない。
ただこの時間が、とても心地よかったから。
それだけで満足していたのだ。
この時間の前にいたぼくは何をしていたんだろうか、などと
振り返ることもしない。

心の中に流れ込んでくる情報を受容するだけの存在が、今のぼくだった。
過去も未来もないし、わからない。
わかろうともしない、今という時間の点にぼくはいる。

言葉などいらない。
意識を変換する必要がないから。
今、ここにいるのはぼくだけだから。


消えそうな星の下。
黒が削られて青みがかった弱々しい宇宙の下。
それでじゅうぶんだ。
それだけ分かっていたらもう、じゅうぶんじゃないか。
そうぼくは、ひとり。

ずっと、ずっと。
ひとりきりで。



孤独。
その言葉にじくりと痛んだ。

それに引き寄せられるように
胸が締められるような苦しみと、目蓋が引き攣るような悲しみが
目の奥が燃えるような切なさが感覚を呼び覚ましていく。

たった一言だったのに、きっとそれが、扉の鍵だったんだ。





どうして、ここにはだれもいないんだ。
なぜ、ひとりなんだ。

それは、なんて。
冷たくて、悲しい。

寂しいと、心が泣いている。
助けてくれと、ぼくの中で叫んでいる。
さっきはあんなに居心地のよかった場所なのに。

包まれる暗闇が。
何もかもを、ぼく自身さえをも隠してしまう闇が
居心地よかったはずなのに。

今は。

閉鎖されていた神経が動き始め、ぼくの精神を蝕んでいく。
痛覚が蘇るのが分かった。



呼吸をしていなかったことに気付いた。
息を、胸に叩き込む。
呼吸することを覚えたての人間のように、生まれたての赤ん坊のように
酸素を吸い込んだ。
頭の中を走る血管が、脈を打ち始める。
人間に必要な酸素を歓迎しているはずなのに
同時に辛かった現実も伴って体の中に行き渡っていく。

生温かい風が、肺に満ちていく。
都会特有の、鉄っぽいにおいが鼻腔を占めていく不快感がこみ上げる。
これが生の苦痛だ、と今更のように思い出した。












手の下には、ざらざらと冷たいコンクリートが、灰色にシルエットを晒す。
雲の向こう、絶えてしまいそうな光を漏らしている月が
街からあふれ出るネオンに、かき消されていた。

風が髪を掻き上げる、その激しさに
自分が今地上からずいぶんと足の浮いた場所にいることが分かった。

乱立する廃ビルのひとつ、屋上の端に座り風に体は揺られていた。
危険なこと極まりない。
自分がしている事実は分かっていても、不思議と恐怖は感じなかった。

まだ、眠っているんだ。
まどろみの中の現実が、ゆるゆると回り始める。


熱に侵された夜空はいつものように、頭を競い合ったビル群に切り取られ
歪な四角のなかで、ひっそりと息づいている。
湿り気を帯びた空気や、人の声が入り混じり解読不能の雑音。

芸術を意図して書かれた、非芸術的なペイント塗装の壁は変わらない姿だ。
そう。
ここは、いつもと変わらない。
目に馴染んだ世界だった。


でも、自分が今まで何をしていたのか
どうしてそんなところに座ろうなんて考えついたのか
まったく思い出せなかった。

真っ白な過去であっても、あえて記憶を掘り返そうとは思わなかった。
外部からの情報を受動する器官は鋭敏さを取り戻してはいたが
内に向かうベクトルは貪欲さを欠いている。


これからどうしようかと、逡巡することもしない。

水が重力に身を任せて流れるのに、考えることをしないように
それはぼくのなかでは、ぼくの世界では、自然の摂理だった。

知ろうとしないこと。
考えようとしないこと。
それがぼくの生きかたで、いつもぼくを守ってきた。
処世術?
そうかもしれない。


与えられたものを受け止め、抗うことをしない。
世界という有限の中にあって、網の目に張り巡らされるルールが絶対ならば
絡め取られ流されて生きる。


人が、重力を受け入れているように、それはぼくにとっては、当たり前だった。

コンクリートの壊れかけた外壁を蹴って
黒い世界に溶け込んでいくのに、抵抗感はなかった。

前のめりになった体はゆっくりと屋上を離れた。
空気をはらみ、木の葉のように降下を始める。
薄汚れた服がたなびく。

接触面がなくなった今、内と外を分ける隔たりはなくなり精神は宙に浮く。
耳の横を流れる風の音、下へ下へと落ちていくのは快感だった。

重力を弱く受けて
溜息を落とすように、吸い込んだ息を少しずつ吐き出すように
ゆっくりと下がっていく。



地面が体を引き寄せる。
地表に体が吸い寄せられる。
それを落下と表現する。

でも、絶望感や、悲壮感は無い。
鳥の羽が、舞い落ちるように。

そう、今、落ちているのだ。



闇に溶けながら、このまま消えてしまえばいいのに。
ずっとこのままがいい、と願っていたのに。

落ちて、落ちて、落ちて。
終わりが来なければいい。
その後にやって来るはじまりも、来なければいい。

何も終わらず、何もはじまらず。
変化ない世界にいたい。

それでもこの世には天があり、逆を向けば地がある。
落ちていく体もいつかは底にたどり着く。

はじまりと終わりの繰り返し。
区切られた連続が、繰り返される。



頬に流れる空気を感じながら、ゆっくりと目を開けた。

近づいてくる地面の片隅に、ひとの影が目に入る。
ごたついた路地裏に不似合いな整った服装。
ほこりに汚れた壁に肩を持たせかけて、雑然と積まれたコンテナの上に
ひとり座っていた。


紺色の洋服に包まれた青年が、不意にこちらを見上げる。
細い銀色に縁取られた眼鏡のレンズ越しに、目があった。


驚いたような、真っ直ぐな瞳が
落ちていくぼくの目を追う。

深い色の服と同じ。
艶やかな髪と同じ。
暗闇の色をした目だった。

きっと彼の目に映るぼくの目は、ガラス玉だ。
景色は映しても、中には何もない。
過去を見ない、未来も見ていない
透明だけど空虚なガラス玉だ。

でも彼は違う。
この世界には不釣合いなほど、澄んで光る闇の色だった。




そのまま男の顔、胸、足を横目で見ながら、水平なぼくの体が通り過ぎていく。

彼の足元の茶色く錆びついた鉄の塊が、視界を遮った。
積み上げられた鉄臭いコンテナの山の下に
猫のように爪先から柔らかく着地した。

膝へ、肩へ。
徐々に引力が掛かってくる。
本当の現実はここからだ。
ぼくは戻らなくてはならない。

でも、どこに?
ぼくの家だ、知っている。
今は、立ち上がって歩かなくてはならない。
頭に血が巡ってくるのを感じた。
感覚や記憶の流れが少しずつ戻ってきてるんだ。


崩れた石畳に付いた両手に力を入れて、膝を持ち上げる。
操り人形のようにぎこちない動きではあったけれど
足は地面を踏みしめる感覚を覚えていた。

忘れていたかった。
生きる、痛み。

ここから出て、表の通りへ。
路地を出ようと一歩踏み出したところに、背後から声がした。

驚きはしない。
呼び止めるとしたら、ここにいるもう一人の人間
落下の目撃者しかいないから。



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