Ventus  173










「まずはお疲れさまと言っておこう」
目の前でゆったりと寛いで椅子に座る壮年の男性は、次にクレイに椅子を勧めた。
一礼して腰をゆっくりと落とせば、そのままどこまでも沈み込んでいきそうな柔らかさだ。
背筋を伸ばすには背中の筋肉を使う。

蛍光灯の白さが緊張感を煽っていた。
室内の備品は彼の好みなのか、木製が目立ち重厚感が増している。
書棚にはデータの収められたディスクではなく分厚い背表紙が並ぶ。
机の上には端末の隣に書類が散らばっている。
上司は整頓されているが書類の重なる机を回り込み、クレイの向かいの椅子へと腰かけた。

穏やかそうだが底の知れぬ存在感のあるこの男が、クレイを呼び出した彼女の上司だった。
すはわち、朱連を統括する人間でもある。
クレイはキースという彼の名しか知らない。
彼の背景、立ち位置、階級などは不明だった。
そもそも朱連自体、独立部隊。
全体地図のどこに属するのかという以前に、地図そのものがまともに描けていない。
朱練の存在をいち早く認識していたカインの方が、余程全体図を理解できている。
これは好奇心あいまってもあるが、情報収集能力差が如実に現れている。
無関心が遅れを取る、その証明だ。

クレイの心中と焦りを知らずか、強張った彼女の顔をキースは観察している。
緊張を不機嫌そうだと捉えて一蹴することもなく、柔和な顔のままだ。
黙っていられてはクレイも口を開きようがない。
訊かれたことには速やかに詳細に答えよ。
学んだ作法とはそれだった。
報告書は提出してあるが、口頭報告も必要か。
しかし求められてもいないのに口火を切るのもおかしな気がした。

直立での報告がこれまでの方法だった。
座れと言われたから座ったものの居心地が悪い。

「どうだったかね。朱連での初陣は」
「力不足を痛感しました」
「もの足りなかったのでは?」
「とんでもないことです」
「けれど先輩たちは新人二人をなかなかに評価していたよ。辛口な彼らの割にはね」
礼を言うべきか、誉められたような気もするがクレイにはうまい返し方が思い浮かばず、キースから見れば渋い顔をしていたに違いない。

「初回でうまく立ち回られたら、私が育ててきた優秀な朱連の子たちがあまりに可哀想だ」
朱連はチームプレイだ。
リーダーはただの指導者や統率者ではない。
聞く耳を持ち、最善の手段を即時に判断する頭脳を有する。
言われてクレイも納得した。
朱連は確かに個々に優秀な人材が集まっている。
いずれもどこに出しても怖れることはない技量の持ち主だ。
しかし各々毛色は違えども分離、分裂することはない。
慣れ合うことはないが、任務となると連携が見事に構成される。

各員の判断能力も優れているため、頭脳の一端を担うべく隊長に意見を述べる。
隊長はそれに圧され呑まれるのではなく、噛み砕き精査し調整しながら意見を嚥下する。
誰よりも全体と詳細と状況を把握し、適切な判断を下せる頭脳と度胸があった。
それ故に、分裂は起こらないのだとキースは朱連各部隊の隊長への評価を隠さなかった。

「もっとも、第四部隊長は女神とも別称される一見穏やかな人間だからね」
一見というところにクレイが引っ掛かる。
その釣り針を下ろしたのはキースだ。
クレイの目の動きが揺れたのを、キースは見逃さない。
いたずらを仕掛けたように、中年太りぎみの丸くなった肩を少し寄せて、楽しそうな笑いを浮かべた。

「彼女は恐いよ。微笑みの下であれこれと考えているからね」
確かに、単純に優しいというだけの人間ではないことは分かる。
そうでなければ隊長に選出されることもなく、あの色の濃い隊員をまとめ上げる腕力はない。

「今回の任務で得たことは?」
それは報告書に書いた。
改めて同じような内容をクレイは口にし始める。
小さく頷きながらキースは最後までクレイの話を聞いた。

「他には?」
「分からないこと、知らないことばかりでした」
クレイはそこで言葉を止めてしまった。
再び見つめ合う長い時間が下りてきた。

「カミとは何だと思う?」
突然の言葉にクレイは脳内で文字を意味に変換できなかった。
神、とは、何だと思うか。

「神門(ゲート)の感想を」
報告、ではなくキースはあえて感想と言い切った。

「神は不在でした。何もなかった。いや、あったのは暗黒の、切れ目」
それも報告書に記載した。
キースの頭の中には入っているはずだ。
あるいはもとより知っていたか。
あの、深く暗い暗黒の影。

まるで黒い池に腕を突っ込んでいたようだったと、先輩は揃って言っていた。
引き抜いた腕は裂傷が多いため、長袖の下にはガーゼを当ててある。

「神がそこに在るか否か。それそのものに関心がない。それがディグダだ」
まず国がある。
話はそこから始まる。
国の前には何があった。
始祖の国造りは。
いつから人は遡ることを忘れたのか。
その足の下に広がる大地を、その意味を考えたことは?

「だれもディグダの種を知らない。この地が何であったのかを知らない」
関心がない。

「ここは神の地だった」
話しが突拍子もないところに流れて行くのをクレイはただ耳で追っているだけだった。
行き着く先が見えなかった。

「人の足が神の地を踏み拉いて拓けた土地だ」
一粒の種が、あっという間に大帝国になった。

「黄金の一滴のお陰で」
それこそ、セラが言っていたディグダが拾った、光。

「神の地、とは」
「このディグダクトルのなかのどこかに、この間のような神門(ゲート)が眠っている」
「それがディグダ発展の原動力だと?」
「さてね。私には分からない」
キースは腹の上で両腕を組み、背中を深く椅子に沈めた。




「君は何を見た?」
「何も。何もありませんでした。見えたのは幻、記憶の残骸です」
耳の奥で脈が頭を叩く。
気持ちが悪い。
あの昏い昏い、闇の色。
ねっとりと絡みつく空気。
触れるな、誰もわたしに、近づくな。

誰も、何も。

「カーティナー。大丈夫かね」
目を見開き、顔面蒼白のまま硬直している。
両腕を抱え込み、唇を強く引き結び尋常な様子ではない。
キースは穏やかだった表情を崩さないながらも、目の奥には強い光が灯った。
彼はクレイの目の前へ手を伸ばす。
椅子から腰を浮かせ、クレイの顔の横へ手のひらを持っていく。
クレイに触れるつもりはない。
彼の目には真剣な灯が宿ったままだ。
キースの手が止まった、その瞬間、彼の腕は後ろに吹き飛んだ。

彼は腕に引きずられるように右肩を大きく後ろに反らせた。
彼を弾き飛ばしたのは、勢いよく跳ね上げたクレイの腕だった。
至近距離に迫った手を払い退けたその腕の向こうに、クレイの眼が煌々と光っていた。

これか。
キースは寸でのところで自ら後ろに引いた腕を引き寄せつつ、クレイから一瞬たりとも目を逸らさなかった。
獣(ビースト)、そう呼ばれた姿だ。

戦場の獣。
男が何人掛かっても御せなかった、クレイ・カーティナーの片鱗だ。

そこで初めてキースは背中が泡立つのを感じた。
立ち上がろうとするクレイの肩を押さえつけ、額を擦り合わせるように目を近くに合わせた。

「闇の中で何があった。君の過去か?」
歯を軋ませるクレイの肩をなお強くキースが押し戻す。

「それもエルファトーンが溶かしたのではなかったか」
「どうして、何を知っている」
「君は私の部下だ。エルファトーンが君に深く影響を与えたのは知っている。だが、それ以上君たちの間に踏み込むつもりはない」
セラ・エルファトーンの名を出した途端、クレイは剥いた牙を引っ込めた。
セラ・エルファトーンはクレイ・カーティナーの鎮静剤か?
彼女たちの間に何があったというのか。
絆というよりも深い、言葉に言い表せない繋がりを垣間見た気がした。

「神などいない」






眉間を押さえてしばらく黙りこんだクレイが、半時間ほど経ってから顔を上げた。
血の気は戻っている。

「すまなかった」
キースが謝罪した。

「君を始め、朱連の皆には大変な任務だったと思う」
「獣(ビースト)を見ました」
「ああ。あれが生まれ出る場所を見せておきたかった」
「理由を聞いてもいいでしょうか」
「考えさせるためだ」
キースはクレイから視線を逸らし、奥の壁を眺めた。
一枚の絵画が掛かっている。
廃墟で舞う乙女の姿だ。
崩れた石段と石舞台の上で薄絹で舞う少女が描かれている。

「受動的で在るな。自ずから得よ。知るとはそういうことだ」
故に、危険を知りながら敢えてこの任務に当たらせた。
獣(ビースト)の討伐、その先にある真実を目の当たりにさせるために。

「我々は神性を蹂躙した」
そこに、神は在るか。
クレイの答えは、否だった。

「それは視認できないからかな」
可視というヒトの尺度ですべてを計ろうとするのは愚かしいことだ、とキースは静かに言った。

「見る、という行為を考えたことがあるかね」
クレイは沈黙し、キースの顎を見つめながら答えを探そうとした。

「物質が吸収せず弾いた光を、我々の目が拾い、視細胞が感受して色を認識する」
ヒトが捉え、認識し得る物質の色と形状、すなわち存在だ。

「だが世の中にはヒトが感知できない音の幅、不可視の物質が存在する。無限にね」
人が認識していないものだ。
果たしてそれは存在していないと言えるのか。

「そこに神は在るか。我々の認識を超越した存在だ。カーティナーは神門(ゲート)に触れた。我々とは次元を異にする神々との交差だ」
「あれは獣(ビースト)を生み出す封じるべきものではないのですか」
次の問いかけを口にしかけて、クレイは唇を噛んで留めた。

知りたければ、その手で得よ。

「探求心と好奇心はヒトの生きる力となる」
キースの言葉が胸に小さく染みを作る。
そうだ。
セラもそうして生きてきた。

一滴が、クレイの中で大きく広がっていく。

「励みなさい、クレイ・カーティナー」
キースは彼女の背を押して送りだした。




一人になった部屋の中で、彼は窓辺に身を寄せた。
窓を両側に押し開いて風を通す。
ふと気付いたように、右袖を肘まで捲り上げた。

咄嗟に腕を引いて回避したつもりだったが。
筋肉の上に薄らと暗い痣が乗っていた。












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