Ventus  174










漆塗りの柱が覇気のない顔を溶かしている。
黒い沼はまだ引き込もうとしている。
抜け出せはしても、まだ腹の奥には渦巻いている。
浄化し、罪の荷を軽くできたと思っていた。
許された、少なくとも自分は自分のままでいいと認めてくれた。
セラが認めてくれていた、許しを与えてくれた。
拠り所を失うと、瞬く間に泥が吹き返す。

麻が織り込まれた綿の長椅子に体を半分沈ませて、クレイ・カーティナーは物思いに耽っていた。
外は軒先から雨の雫が石畳を濡らす。
破線の小雨が深緑を濡らす様は実に情緒に溢れていた。
雨の音がいい。
葉を叩くのがいい。
雨と土が混じる匂いがいい。
下から持ち上がるような香りを胸に深く呑むのがいい。
屋根の内では屋敷の侍従、侍女たちが裾の長い異国の装束で、ゆったりと歩を進めるのがいい。
布の靴は耳に障る足音を消し、衣擦れの音だけが優しく届く。
歩き方も訓練されていて、流れるように滑らかで、踊るように軽やかな足捌きをする。
空気を乱さず、空気を裂かず。
彼らを水の中に沈めれば分かる。
白波など立てずに涼しい顔で水の中を歩むだろう。

調度品は華美過ぎず。
かといって屋内が簡素になり過ぎないよう空間に気を配られている。
家主の老(ラオ)と呼ばれる人間の一端が香った。

クレイは未だ、老(ラオ)という人物を良く知らない。
かつて戦場で血の池から陽花(ヤンファ)を拾い上げた。
連れ帰った陽花の後見人となったのが老(ラオ)だった。
陽花から老の話を聞くことは稀だった。

老という人間が、ディグダでもそれなりの地位のある人間で政府に密接なのは読み取れた。
陽花があまり語りたがらないのは、そのあたりの事情を慮ってのことだろう。
ゆえに、クレイもまた陽花が好んで口にするとき以外、老の話をすることはなかった。

クレイの教師だったクレア・バートンも老と懇意にしている。
一兵卒ですらない、学生の見習いが戦場で勝手に拾ってきた得体の知れない少女。
その処遇は、教師クレアの手から老の手へと移された。
超法規的措置にクレイは唖然とした。
送還されるだろう少女はその後、陽のあたる花との名を与えられ、養育された。
名そのままに、可憐に彼女は育った。

ディグダクトルにやってくると聞いて、クレイは陽花のことを思った。 ここは忙し過ぎる。
大通りには人が溢れ、車は賑やかな音を立てて行き交う。
陽花にはおよそ似合わないところだ。
しかし実際こちらに彼女が居を移し、初めて訪ねてみたときは衝撃だった。
都会の真ん中にありながら、周囲から雑音が消えている。
見渡す限り木々に囲まれ、別荘地にでも座っているかのようだった。
隔絶された世界があった。
風が抜ける。
クレイはその景色に目を細めた。
ちゃんと、草と土と水の匂いがする場所が、陽花のために用意されていた。
彼女は愛されている。
以前の木目が美しい木造の屋敷とは趣が違い、華麗な造りをしている屋敷ではあったが、漂う雰囲気は変わらない。
そのまま、以前の屋敷の空気を瓶にでも詰めてここで蓋を開けたようだった。

漆黒の柱が歪める己の顔を眺めながらクレイは心中で呟いた。
何とも情けない顔だ。
目を閉ざして寝返りを打つ。
長椅子に体を横にして沈めながら肘をつき、縁側の奥に広がる庭を眺めた。
雨が止む気配はない。
ここに寛いで身を預けているものの、クレイにはここがディグダクトルの具体的にどの位置にあるのか知らないでいた。
陽花に会いたければ彼女にコンタクトを取る。
迎えは半時間しないうちにやって来て、独特な雰囲気を纏った侍女たちが車へと案内する。
なぜ窓を隠すのかと聞いたことがあった。
そのときの答えは、邸宅の主は特別な方ですので、だった。
それ以上詮索する方が野暮のような気がする柔和で澄んだ微笑みに、クレイは黙って前に向き直った。
その往復はもう数え切れないほどになった。
部屋に馴染み、ここにも訪問というよりも帰宅に近くなった。
陽花はそれを喜んでいた。

「お仕事、疲れたの?」
陽花の声にクレイは机の方へ寝返りを打った。
脚を折り、机の上に香りのいい茶と甘い匂いの立つ菓子を手ずからクレイの目の前に並べた。
クレイは身を起こして脚に絡む制服の裾を整えた。
褐色の茶の湖面に目を落としながら、クレイはそっと呟いた。

「陽花は昔のことをどれくらい覚えている? どれくらい思い出した?」
陽花はその場に膝をついてクレイの青い顔を下から見上げた。
息を深く二度ついて、両手を重ねて机の端に乗せた。
侍女たちと同じ袖裾の長い異国の衣から、小さな手が覗いた。

「覚えていないの。ただ寒くて、暗くて、暗くて、暗くて、暗くて」
暗い、暗い、暗い、暗い、暗い。
音は、水の音、滴る音、見えない音、暗い音。
暗い、寒い、暗い、寒い、暗い。

口を閉ざしたまま陽花の呼吸はゆっくりと、荒くなった。
机の上に乗せた手のひらはこの一瞬の内に血の気を失せ、本人意図せずに小刻みに震えていた。

何ということを。
クレイは己の口から今しがた漏れた言葉を慌てて呑みこもうとしたがもう遅い。
言葉は取り消せない。
その言葉は剣となって陽花を斬りつけた。

「陽花」
クレイは彼女の肩を掴み、左手で石膏のように白くなった彼女の手の甲を覆った。
反応のない陽花の頬に手を当てて視線を合わせる。

「陽花」
ふっと、陽花の瞳の奥に温もりが宿る。

「陽花、大丈夫。もうお前はそこに、いない」
そうだ、墓穴を掘り返してどうする。
ごろごろと死体を目の前に転がしても何もしようがない。
弔いは終わり、埋めたのだ。

「すまない」
「マア?」
いつもの柔和な顔つきに戻った陽花を前にして、クレイは胸を撫で下ろした。
長椅子の隣を叩き、陽花に席を勧めた。
陽花は冷えた体を温めるように、クレイの腕に寄り添うと寂しげに目を伏せて机に目を落とした。

「お茶、冷めちゃった」
「頂こう」
クレイが手を伸ばし、カップに指を絡ませる。
その隣の皿を陽花が掬い上げて、クレイの膝に乗せた。

「これね、私が作ったの」
「陽花、料理までできるのか」
「うん。マアは作らないの? お部屋に帰ったら」
「学生のときと同じで、外に食べに行ったらいいから」
「制服は、慣れた? 最初は締め付けて嫌だって言ってたけど」
コルセットで縛りつけられた制服はまるで拘束具だった。
腰を縛り上げると背筋が伸びる。
腹に力が入る。
慣れない、慣れるはずがないと思っていたその装具も、今ではちゃんと服の一部になっていた。

食事の管理をされ、体調管理も完璧、体型の管理から、体の仕草すべて管理されているような気がした。
日常は訓練、座学、訓練、座学、その繰り返しが任務の間に挟っている。

「本を見て作ったのか?」
クレイは膝の上に乗った皿から砂糖菓子を一つ摘んで口に運んだ。
口に含むと、一瞬にして塊が溶ける。

「不思議な食感がする」
「みんなに教えてもらったの」
「ここの?」
「そう。いろんなお菓子とかお料理を知ってるの」
「うん。美味いな」
花の紋様に押し付けて型が浮き出している砂糖菓子に目を落とした。
味も繊細で美味ながら、形も美しい。
ディグダではあまり見ない菓子だ。
セラも、菓子を目にして嬉しそうだった光景を思い出す。
そのときは菓子自体に興味はなかったのだが。

「どこの国から来たんだろうな」
ここの人間も、家も家具も、空気でさえ、どこかの国の一片を切り取ってきたようだった。
まるで、絵物語の一頁を開いているような幻想。


空気の流れが変わった。
潮流が玄関のほうへ流れる。
クレイが顔を上げて、扉が外されて開放的な部屋の入り口に注意を向けた。
螺鈿の柱の向こう側の廊下を侍女が歩く。
仄かに漂う緊張感をクレイは察した。

主人のお帰りだ。
クレイがいるときにはほとんど遭遇することのない機会に、クレイは身構えた。

行列のように、侍従が先導を勤める。
何者だ。
行列で主を迎える屋敷も稀だが、十もの侍従たちを従わせる主も稀だ。

廊下とを遮る、円い透かし窓で白い塊が止まる。
あれがこの家のマスター。
陽花の老、だ。

クレイが腰を浮かした。
一歩前に出るのは、侍従が手を前に出し止めた。

「こんにちは。お邪魔しています」
クレイは入り口に向かって声を張った。
長い白のローブを頭から被り、指先ひとつさえ露にしない。
侍従が老の口に耳を寄せ、言葉を掬う。

「お仕事は、変わりありませんか」
「学ぶことが多く、自分が未熟だと痛感する毎日です」
「精進なさい。仕事の合間にでもまた、こちらに寄るように」
「そのつもりです」
「ここは、あなたの家でもあるのです」
陽花がクレイを見上げた。
私たちは家族なのだと言ったのは陽花だ。

「どうぞゆっくりと寛いで」
代弁者が事務的な口調を避け、温かみを持ってクレイに言葉を渡した。

「ありがとうございます」
クレイの返答に、老は入り口からそっと袖口を覗かせた。
たったそれだけの仕草だったが、クレイへの思いと労わりが伝わってくる。
これが、陽花が慕う老という人間。
姿を現わせない理由を察してほしいという秘めたる思い。
そして老は、流れるような足取りで螺鈿の柱に囲われた入口を通り過ぎる。
深く被ったローブで顔は見えない。
しかしその細い体つき、淑やかな足捌き、その歩調を目の当たりにし、
クレイは痺れた。
老を知っている。

だが老を呼び止める声が出なかった。
その姿をクレイはかつて目にしていた。
ずっと昔に。

白いカーテンが揺れる。
だがこの部屋にカーテンは掛かっていない。

認識でき重なり合う現実と幻想。

そこは日の光に透けて静かで幻想的な空間だった。
居るはずの無い白衣の医師が柔らかく白い陽光の中に座る。

交錯する現在と過去。
医師が言っていた。
客が、来ているのだと。
体中が重く、痛く、苦しい中、周りの風景と空気だけは驚くほど軽く、美しかった。
日の光の中、眩く光るのは白いローブ。
医師と向き合っていたそれは、音もなく寝台に寝かされた幼いクレイに歩み寄った。

浮き沈みする感覚と記憶。
小さな手のひらを包み込む乾いた手の感触は覚えている。
一度忘れていた記憶が、また浮き上がった。

クレイは自分の左手に右手を重ねた。

「救ってくれたのか」
幼かったクレイを。
満身創痍でぼろぼろになって裏路地に転がっていたクレイを。

「与えられた時間に私はいる」
そして陽花は、クレイが白いローブに与えられた時間によって救われた。

「必然なのか。偶然、なわけないよな」
従者の姿も消えて、クレイの最高潮に高まっていた緊張の糸も切れた。 へたり込むように椅子へ腰を落とした。

「老がマアを家族だと思っているのは本当だよ。だって、マアが来たときはいつも老、お話を聞きたがるもの」
「陽花がここで幸せなら、私はそれでいい」
「そこにマアがいてくれれば、私はもっと幸せ」
クレイの手は自然に持ち上がり、陽花の髪を優しく撫でた。
陽花はその行為に少し驚きながらも、嬉しさに目を伏せた。












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