Ventus  157










あれ以来、少女の姿を見かけることはなかった。
独特の空気を纏っていたのが印象に残っている。
十歳くらいか。
子供のはっきりした年齢はカインには分からないが、レヴィよりは年下だろう。
彼の弟、レヴィ・ゲルフは増せているように思えたが、あの子供も妙に大人びていた。
子供らしい無邪気さはそのままに、かといって鼻に付く背伸びもない。
視線の高さが重なる瞬間があった。
それほど長い時間を共にいたわけではないが、落ち着きというものを感じた。
同時に彼女とクレイとの繋がりが気になった。
セラとはどこで知り合ったのか。
子供のように純朴で、愛らしいセラ。
出会いは花園で、声をかけたのはセラの方だろう。
セラがクレイと彼女を結びつけたのか。
無機質な廊下を歩きながら、カインは想像を膨らませる。

答えを聞こうにも、鉄の扉の向こうは沈黙したままだ。
まだ彼の想いは届かない。




身動ぎしないクレイの隣で、カインは膝の上に乗せた本から目を離した。
昼間の柔らかな太陽は傾き、虫の音は夜のものたちに代わりつつある。
頬を撫でる風が冷たくなってきたのに気付いて、カインは立ち上がり窓のガラスを引いた。
クレイの頭上に置かれている時計に目をやる。
今日は彼の弟が来ると言っていた日だった。
聞いていた授業の時間は過ぎている。
もうすぐここに来るだろう。
あるいはどこかで友人に捕まっているのか。

来るな、とカインは言った。
興味本位で来ることはするな、という忠告ではない。
レヴィはクレイを慕っていた。
慕われている方は、懐かれていることに気が付きもしなかったし、レヴィに深い愛情を寄せる風でもなかった。
カインに対してもそうだ。
カインだけではなく、セラ以外のすべてに対して愛情が希薄だった。
ただそこにあるもの。
セラ、それ以外のもの。
実にシンプルで分かりやすかった。
ゆえに、レヴィとカインの一方的な情愛だった。
クレイは強かった。
強く、美しかった。
弓のように張り詰めた緊張感、冷たい中に滾る激情。
剣の美しさ、心の強さ、それらは脆さと表裏一体になっていると知った時、彼女の戦う姿に魅せられた。
ふと緩んだ顔に目が離せなくなった。
その視線の先にいるのがカインやレヴィではなく常にセラであったとしても、彼らの目は彼女を追うのを止めなかった。

その最愛のセラ。
花か綿花のように暖かで慈愛に満ちた少女。
クレイが惚れ抜いたのは、その雰囲気の中に秘められた頑なな強さだった。
クレイの一番弱い、脆い部分を補う強さをクレイは求めた。
クレイを守りたいと言い続け、守り続けようとした少女だった。
クレイとセラとの間に何があったのかは知らない。
ただずっと以前、クレイがセラと出会う前、カインが知っているクレイと今のクレイとはまったく違う。
近寄りがたくはあった、誰も何も寄せ付けないクレイ。
同時に存在感は雑踏に融け込んでしまうほどだった。
漆黒の髪と瞳は、彼女の空気や心を表しているようにも思えた。

それがセラの隣にいる彼女に再会したとき。
空気は一変していた。
研ぎ澄まされたような澄んだ空気と鮮烈さ。
熱を帯びていた。
彼女の中に美しさを見た。

カインの思いとレヴィの思いは同じ。
だからこそ、レヴィとクレイを引き会わせたくなかった。
今のクレイの姿を前にするのはあまりにも酷だ。
だからこそ今まで引き留め、面会を許さなかった。
兄の横暴だと思われていようが、これ以上誰であれ哀しむ顔を見たくはないという我儘もあったのかもしれない。
兄の顔を立てたのか、状況を理解してたのか、カインには弟の意思が分からなかったが、レヴィは今まで来たいという思いを抑えてきた。
そのレヴィが再度カインに頼み込む。
レヴィがクレイと面することで、何かクレイに変化が起こればいい。
しかしレヴィの沈んだ顔を見るのは堪らない。
複雑な気持ちが、弟の訪れを待つカインの中で吹き荒れている。
時計の隣に飾られた花を手に取り、流し台で水を替えた。
萎れた花を除き、また時計の隣に戻す。
数か月で馴染んだ動きだ。
ほんの一瞬。
ここにこうしているのも、虚空を見つめた彼女の動かない表情を見つめるのも、一瞬の話しだと思っていた。
非日常が日常に染まっていく。
いつ戻ってくるとも分からない彼女を待ち続ける。
クレイの側を離れることなど考えたことはない。
ただ彼女を失うことが今は怖い。

小さなノックの後、部屋の扉が遠慮がちな音を立てる。
カインはクレイのベッドから離れて出迎えた。
扉の前で、直立して待ち人が顔を出すのを待っている。

「兄さん」
視線を下に落としたまま、レヴィ・ゲルフは部屋に踏み入れた。
後ろ手に扉を押しつつ、兄の青白い顔を心配そうに見つめる。
兄は単純で一途な性格で、いつも屈託なく笑っていた。
意地の悪いことを見せたことも理不尽な振舞いをしたことはなく、レヴィをいつも可愛がっていた。
その彼が、今回ばかりは理由も言わずレヴィをクレイから遠ざけ続けた。
二週間、三週間、一月。
クレイのはっきりした病状も言葉を濁したまま、収容されている病院の名も教えてはくれない。
調べれば病院の名は分かった。
知り合いのマレーラやリシアンサスに頼み込めば教えてもくれただろう。
それでもレヴィは兄が教えてくれない裏で嗅ぎ回るようなことはしなかった。
言葉にはできないししない、兄には兄なりの道理があるのだろう。
そう判断するだけの分別は持っていた。
笑っていてもどこか影の掛かった、乾いた顔に心を痛めていた。
兄を気遣えばこそ、ここに足を向けなかった。
レヴィが躊躇いながらも兄が背にしているベッドに目を泳がせた。
脚の形に盛り上がったシーツ、脇には点滴の管がベッドに繋がっていた。

「来るか」
兄が体を僅かに引いてレヴィを奥へと誘った。
手の先が冷たくなるのを緩く握りしめながら前に進み出る。
力なくシーツの上に乗る白い手。
兄が道を開け、顔はクレイを見下ろした。
彼女の顔は窓へと傾いている。
放射状に広がった黒髪は紛れもなくクレイのものだった。
消毒液の臭い。
薬の臭い。
それだけで喉が引き攣った。
側に寄り、覗き込んだその目が、大きく開かれる。
乾いた唇を開いたまま、レヴィの息は止まった。




初めて会ったのは、兄に本を返しに行ったとき。
レヴィがレポートを書くために借りていた本だった。
名乗るのを忘れるくらい魅入られた。
春の花のような柔らかなセラ・エルファトーン。
その隣で強烈な印象を放ったのが、クレイ・カーティナーだった。

深緋と漆黒。
その瞳に息を呑んだ。
魂を吸われそうとはこういう瞬間を言うのだろう。
今まで見たことのない深い色をした眼がレヴィを射た。
美しいと思った。
気高く艶やかな獣のような凛とした強さが宿っている。
潔く短い髪も、切り揃えられた横髪も、ただ気が強いだけではない。
触れたら切れそうな刀がそこに立っている。
赤い唇が開き、紡ぎだされたぎこちない挨拶の言葉。
兄に本を突きだして、そのとき何を話したのか覚えていない。
両極端の二人、セラとクレイの姿を脳に焼き付けながら走ってその場を飛び出したことだけが、今でも鮮やかに頭に残っている。




水滴が、クレイの胸元を濡らした。
点が染みて色を濃くし円になる。
一つ。
そして二つ。

あれ。
レヴィは慌てて顎を引いた。
熱いものが顎に伝わり、大気で冷まされた冷たさを感じた。
むず痒さに顎に手を触れた。
手の甲に水の線が殴り書かれる。

「クレイ」
掠れた声で名を呼び、震えた指先を彼女の顔の上に翳した。
真っ直ぐにレヴィを見ていた眼は、虚空で止まっていた。
人形だ。
動かず血に塗れたままだった彼女を部屋から救い出したカインが感じた痛みと同じだった。
やつれて静脈が浮いた彼女の頬に指を触れた。
薄い皮膚。
額に掛かる黒髪を指で掬って退けた。
頬骨まで浮いている。
真っ赤な唇は、乾いていた。
生かされている体には点滴が繋がれていた。
何て小さい。
何て脆い。
縋りつきたい。
抱きしめたい。
奥歯が震えて鳴いていた。
拭われることのない涙が止めどなくベッドの端を濡らした。
彼女への愛おしさと、彼女を追い詰めたものへの憤りと、彼女の姿への憐憫と、彼女を想う哀しみとが脳で弾けた。
頭が真っ白になる。
寒さに両腕を抱えた。
嗚咽混じりに吠えた。
窓に向かい、天を仰ぎ叫び、己の腕に爪を立てた。
子供のように獣のように鳴いた。
カインが背に手を当てて椅子に促したが、足が地面に張り付いたかのように動けないレヴィはその場に蹲った。

生きてこそ、なんだ。
宥めるカインの手の熱さを丸まった背に感じて、レヴィは歯を噛みしめた。
ここに来ると言い続けたのは自分だ。
自分より、兄より、死よりも苦しいのは今ここにいるクレイだ。
彼女のすべてだったセラというただ一つの存在を失って、彼女の器は空っぽになった。
彼女の中であらゆるものが動きを止めた。
今彼女は過去も未来も見ていない。
ただ静かに死を待っている。

魂の半分を剥がされた。
カインがレヴィの肩を後ろから抱きながら囁いた。

「俺はクレイを守ることにしたんだ。それはセラの願いだから。セラはクレイが生きることを望んだ。セラの祈りを、俺は守ることに決めたんだ」
肩を包み込むカインの力強い腕にしがみ付くように両手で掴み、レヴィは息を深く胸に入れた。

「たとえ、クレイが兄さんを見なくても? クレイが、兄さんを」
「ああ。決めたんだ」
「救われないな」
「知ってる」
「兄さんは恨んでいるか」
「どうだろうな」
「ぼくは、憎いよ。悲しいよ」
「それでいい。それで」

面会時間の終わりを告げるため看護師が現れた。
泣き腫らしたレヴィの顔に目を留め、時間のことを口にするのを躊躇ったがカインが小さく頷きレヴィの背を押して扉に向かった。
寮につくまでの長い道のり、敷地内を巡るシャトルの中でも二人は口を開かなかった。
それが、人形のようなクレイをレヴィが見舞った最後となった。












go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page

















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送