Ventus  158










セラを失い、クレイが動かなくなってから、さまざまなことが瞬く間に過ぎた。
今までとはまるで違う、怒涛のように押し寄せる現実に驚く間もなく押し流されていく。
クレイに聞きたいことはたくさんあった。
毎日通って、些細なできごとから大きな変化まで話してきたが、返ってくる言葉も反応もなかった。
現実を受け入れ、処理し、体は変化に適応していく。
しかし、胃の深い底ではどろどろとした焼けつくように熱いものが渦巻いている。
現実を受け入れたくない葛藤と呼ぶべきか、拒絶、不快感、悲しみ。
何に対してなのか明確なものは置き去りにされたまま、黒い感情だけが心の底に、澱のように溜まっている。
見ないふりをしていても知っていた。
この溜まって揺らめく澱が、ある瞬間火が点くとあっという間に燃え上がりすべてを焼き尽くしてしまうことを。




カインは今日もまた同じ扉を同じ動きで開いた。
目の前の風景も同じ。
白い蛍光灯の下で横たわる白い影。

壁際に寄せられた椅子をクレイの顔の近くまで引き寄せた。
青白い顔を見下ろすのも日課になった。
伸びた前髪を掻き上げて虚ろの目を見据えた。
切り裂くような強い眼は、今やどこにもない。
赤かった唇は血の気を失っている。
変わり果てた姿でも、クレイはクレイだった。

カインはクレイの手を取った。
力なく垂れ下がる。
今日はいつもしていた一日のできごとの報告を切り上げ、黙って彼女を見つめていた。
白い顔に手を乗せる。
顔は痩せ、手の下には皮と骨しかない。
形が見え始めた頬骨をなぞり、くぼんだ眼窩に親指を這わせた。
カインの手で温めても、迸るような血気は戻らない。
彼女を引き戻せるのはセラだけだと知っている。
どうにもできないからこそ胸が締め付けられるように痛んだ。
同時に、無力であり、彼女にとって無価値な自分を噛みしめた。
湧きあがる憤りか、悔しさか。
見ないようにしていた現実が目の前で揺らめいている。

彼女の目尻を撫で上げて気付いた。
すべてを失った彼女を知った。

カインがクレイの首へ腕を差し込み、体を引き上げた。
力なく垂れる頭を片手で支え、右手は点滴で腫れあがった腕を引いた。
乱暴に扱うので点滴の管がたわんで波打つ。
引き起こした体にカインが叫ぶ。

「起きろクレイ! お前の死を、セラは望んでない!」
落ちた頭、開いた首筋になおも叫ぶ。

「セラはお前に生きることを望んだ。死んでもセラに会えない! お前はセラの願いまで潰すのか!」
細い肩を揺さ振った。
看護師や医師が飛んでこようと構わない。
あいつらには何もできなかったじゃないか。

「セラはな、小さくてもあったかくて、平和で、穏やかで、そんな世界でお前が生きることを祈ったんだよ! それをお前が消すのか? セラの記憶も、セラの温もりも、お前と消してしまうのか?」
なあ、おい、答えろよ!
クレイの白い顎に噛みつくようにカインが呼び続けた。

「俺は許さない。セラの記憶は消さない。セラのいた証を、俺は消させない!」
クレイの肩に爪を立てた。
患者衣が窪む。
泣けよクレイ。
後頭部を支えながら体を揺さ振った。
泣けよ!
あの日から、こいつは泣いていない。
慟哭の後から、セラの名を口にしていない。
カインは祈った。
彼ができる、最後の祈りだった。




「セラが、いない世界なんて」
空耳かと思った。
しかし食入るように見つめたクレイの喉が、微かにしかし確かに震えた。

「クレイ」
「セラがいなければ意味がない」
回らない舌を動かして、動かない喉を開いて吐く息に声が溶けた。

クレイの頬に当てたカインの指が温かいものに触れた。
親指が目尻へと滑った。
涙だ。

「クレイ、お前」
「セラがいない。セラがいない。セラが」
酸素を求める魚のように口を開いた。
数ヶ月の間まともに動かさなかった声帯は満足に言葉にできない。
声と言うよりも空気の擦れる音だ。
それでもカインは満足だった。
薬と消毒液の匂いの混じるクレイの体を抱き締めた。
細くなった体。
軽くなった体。
点滴に縛られたクレイの体を抱えた。
ようやく吐き出した。
クレイの時間が動き始めた。
クレイは殻に閉じこもることで、セラの形を留めようとした。
現実に触れてしまえば溶けてしまう夢。
セラとともにあるために、セラを再び失わないように、現実から隔絶したところに逃げ込んだ。
甘い甘い夢の中。

「永遠にその夢の中にいられたなら、夢を見せられるなら俺は」
カインは震える背中を撫で続けた。

「だけどクレイの死をのセラは望んでいない、絶対に。セラは夢とともにクレイを連れ去るより、ここに残しても生きることを願っている」
クレイには自分の体を支えるだけの力もない。
腕はシーツの上に垂れカインに身を預けている。

「クレイは一人でも生きられる。その中にいるんだろ、セラが。クレイが生きてる限り、セラがクレイの中に遺したものは消えない」
「セラが遺したもの」
「それはこれからクレイが掘り起こしていくんだ」
それは長い時間を要するだろう。
クレイの頭を肩に乗せながらカインはナースコールに手を伸ばした。
ゆっくりと親指に力を込める。

「生きる決心はついたか」
「さあ。でもそれをセラが望むなら」
「祈ってるさ。いつだって。今までも、これからも。クレイが幸せに生きられる世界を、セラは祈ってる」
クレイは静かに肺を膨らませ、体を弛緩させた。

廊下で近づいてくる複数の足音。
扉が開かれ覗いた顔はどれもが引き攣った。
看護師がカインの肩に手を当ててクレイから引き剥がそうとし、肩に乗ったクレイの様子を覗き込んだ。
後ろから医師が歩み寄り、カインではなく看護師の方の肩に手を当てて制止をかけた。
動きの止まった看護師とカイン。
それに寄り掛かるクレイの顔に医師が手を伸ばし、横髪を掻き分けた。
目蓋が半分落ちかかっているものの、その目は確かに医師に向いていた。

「君には後で話を聞こう。ひとまずは」
クレイを横に寝かし、点滴が外れていないかを調べてベッドを整えた。
その間、医師がクレイに静かな声で質問を投げていた。
無理に答えようとしなくてもいいから、という彼の質問に対し、クレイは唇を微かに動かして意思表示していた。



クレイは面会を拒んでいた。
クレイが話ができるまでに回復したと聞いたマレーラとリシアンサスは、すぐにでも駆けつけようとした。
しかし、まだベッドから離れられないクレイはカインを通して、もうしばらく時間がほしいと伝えた。
歩けるようになってからというクレイの願いを二人は聞き入れて、その日を待っている。
カインは変わらず毎日クレイの元に通っていた。
最近ではレヴィも顔を出すようになった。
カインはクレイと二人きりの病室で、一度ここで鉢合せた少女のことについて聞いてみた。
クレイは一瞬黙り込み、また近いうちに紹介しようと思うとだけ口にした。
数ヶ月で萎えてしまった脚を鍛えるリハビリは続けている。
元のような筋力に戻るまでは長い時間を要するだろうが、学校に戻れる日もそう遠くはない。

昨日、クレア・バートンが椅子の上に制服を置いていった。
新しい制服だが、以前と少し違う気もした。
そのあたりもまた、クレアが立ち寄った時にでも聞いてみようと思う。

戻るのが怖いか。
カインに聞かれた。
その時は黙ったまま答えず、考えてみた。
怖いのかもしれない。
しかし今は、変わるもの、変わらないもの、それらすべて今は受け止めようと思う。
戻る場所、帰るところは、セラとともに築いてきた場所だから。












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