Ventus  137










錆を吸い込んだ赤黒い土に打ち込まれたコンクリート壁から黒いボディスーツに包まれた足が踏み出した。
地面が微かに揺れる気配に驚いて昆虫が地面を這いつくばり蛇行しながら一目散に逃げて行く。
耳の側を抜ける風が長いコートの裾を撥ね上げる。
水捌けの悪い地面には昨日の昼間に降った雨水が温くなった泥とともに溜まっている。

錆ついた鉄塔の側から廃墟の谷間を見下ろした。
対面の鉄塔には烏が群がり声を重ねて喚いている。
死肉は漁り終えて新しい肉を探す算段でもしているのだろう。

「なぁんにも変わってねぇな」
忌々しげに言い放ち、爪先を掠めるように走り去った鼠を踏み潰した。

「最低の町には糞みたいな風が吹く」
黒く厚い靴底の下で二三度痙攣した後動かなくなった鼠を崖の下に蹴落とした。

「腐臭が満ちています。ちゃんと燃やさないから空気が淀むのです」
背後から同じ服に同じコートを羽織った女が姿勢正しく現れた。
陶器の人形の方がまだ人間らしい顔をしている。
白い顔の女は不気味で酷く研ぎ澄まされた目をしていた。

「手前の子供の後始末もできねぇ奴らが、死体の処理なんかするかよ」
「自虐ですか」
「笑い話だ」
二人は崖の縁から、崖に挟まれた細い道を見下ろす。
後から現れた女が端末を取り出し時刻とミッションを確認する。

「今日は実に饒舌だこと」
まだ時間はあるから好きに口を開けばいいと彼女は黙る。
顔を上げて対岸の歪んだ鉄塔を眺めていた。
煩い烏はまだ肉を求めて鳴き続けている。

この地区はディグダが駐屯している中でも最も治安の不安定な地域の一つとして指定されていた。
ディグダへの抵抗が強く、民間人の子供までもが反政府組織に潜伏しているとの報告も上がって来ている。
壁のように聳え立つ銀髪の巨体は女の形をしていた。
彼女と言い表しがたい威圧感と筋肉質の体をした女は、恐ろしく切れ味の鋭い刃のような眼で下界を見下ろす。
酷く対照的な二人だ。
片方は細く白い顔をしている。
彼女は連れ合いを挟んだ向う側に目を向けた。
表情は石像のように固まったまま、背の高い女を回り込むと地面に屈みこんで草を摘んだ。
目を伏せたまま立ち上がって周囲を見回した。
前方は崖、左右後方は掠れた緑の雑草に覆われている。

「実用的で甘美な植物」
手にした草の若葉を銀髪の女の目の前にちらつかせた。

「懐かしい景色と香りを前に、血が騒ぐのではありませんか」
忘れられない生臭い匂いだった。
人差し指と親指で摘み上げた若葉を強く手の中で擦り潰した。

「炙ってみましょうか」
今更必要のないことだ。
恐怖心、緊張感、そんなものはもう彼女たち二人の体のどこにもない。
そんな女に挑発しても意味のないことをお互い知っている。
これは面白くもない暇潰しだ。

銀髪の女が端末を取り出した。
定期連絡が入る。

その隣でもう一人の女が風に弄られる髪をそのままに、雨が上がり晴れた大空を見上げる。

「ああ、腐臭と血と錆と汚泥と臓物の臭い」
本当にここは、凶悪を鍋で煮詰めたような場所だ。




行政などないも同然、むしろディグダと慣れ合う役人などいない方がましだった。
元々は抵抗していたり、被害者だったりするくせに寝返った。
その分だけ煩わしく感じる。

絞り出される地下燃料での利益は搾取され、反抗的だと脅され奪われ、目障りだと殴り倒される。
掃き溜めのような地区には最低なディグダ兵が集まってくる。
町の不満は沈殿し積って行く。
生きる意思を保つにはディグダに対抗し続けるか、尊厳を捨てて土に膝と頭を擦り付けるかのどちらかしかなかった。

店舗の八割は閉鎖していた。
半分は木を打ち付けられた痕跡があり、もう半分は荒らされて空になっていた。
往来で見る人影といえば着崩した制服姿の男が、酒に酔ってよろめく姿。
娼婦か情婦かを腕に下げて緩んだ顔で兵士が歩く。
怯えながら小走りに石畳の剥がれた道を老女が渡る。
朽ちた街路樹の幹には刃物で抉られた疵が生々しく残る。
道の端に蹲る骨ばった男の背中その上には蝋のように生白い首筋が露わになっている。


約七十二時間前、ディグダに緊急通信が入り戦闘配備が敷かれた。
盆地に当たるこの地区で町への道、八つを閉鎖した。
四十八時間前から戦力の増援が入った。

死んだような町が血と絶叫の海に沈む。
事の発端は町の中ほどにある酒場だった。
店主はディグダ兵が荒い声を上げるたびに肩を跳ね上がらせた。
泣きそうな目で金払いの悪い破落戸のような男たちの注文を受ける。
今日も食器が割れる音で鼓膜を痛める。
彼らが集まり始める真夜中は乱闘は日常茶飯事だ。
他ででき上がってからこの酒場に群れて来るのだから余計に始末が悪い。
主人に追い出せるわけがない。
死活問題を通り越して生死に関わる問題だ。

入口の扉が開いたのを、それぞれに騒いでいた男たちは気付かなかった。
ホールに堅い靴音が響き、視界の端に珍しいものを見た一人が向かい合って酒を交わしていた相手の頭を叩いて注意を向けた。
沸き立っていた部屋の中は一瞬さざ波のような低い声に変わる。

酒臭い、脂臭い部屋の空気に顔を歪ませることもせず、細い人影はホールの中央まで歩を進めた。
ロングドレスは彼女の姿態に絡みつく。
軽やかなストールを肩に掛けたその下の肌が滑らかで美しい。
厚すぎず、上品に仕上げた化粧は彼女の物憂げで濡れた目元を引きたてていた。
立ち止まり舞台女優のように彼女が部屋の左端から右端まで見回した。
そのまま真っ直ぐゆっくりと歩く女に耳を塞ぎたくなるような卑猥な言葉が投げ掛けられる。

女はあえてそこを選んだというより、そこに流れ着いたとでもいうように一つのテーブルへと手を付いた。
艶めかしくはあっても下品に擦れてはいない。
彼女はそっと薄絹の透けたストールを腕に乗せて肩から滑り落とすと、目の前に座って彼女を仰ぎ見る男の肩へ掛けた。
彼女の薄絹、彼女の手、すべてから酔いを濃くするような甘い幻想的な香りがした。

商売女ばかりを相手にしていい加減胃がもたれてきていた男たちが群がってくる。
彼らに張り付いている女も確かにこの町の人間だった。
兵に折れる女は少なくない。
それも町で生きる処世術だった。

ねぇ、買って下さいません?
歌うように軽い声でいうものだから、男は毒気を抜かれたかのように即答ができなかった。
くぐもった声で、ああと頷き、臭い息を漏らしながら油に濡れた唇を下品に緩ませた。

女はテーブルの上から素早くナイフを取り込むと細い肩紐を両側切り落とした。
重力に引かれて繻子のドレスは床に落ちる。
ふくよかな胸が零れる。
目の前に現れた双丘に歓喜の笑いを浮かべると同時に男の顔が歪に固まった。
腹に塗り固められるように布で密着して巻きつけられたのは爆弾だ。
女はホールの中央でけたたましい高笑いを放ち、身を捩った。

逃げ出すことも避けることもできなかった。
轟音が彼女の笑いを押し潰す。
男たちの声を塗り潰す。
酒場を吹き飛ばす。
炎が窓から噴き出した。
彼女は望まぬ子とともに飛散した。


メセト・メサタ 28区。

その日、抑圧されていた抵抗勢力が噴き上がり、ディグダ軍は警戒態勢に入った。












go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page

















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送