Ventus  116










小刻みなメトロノームのように軽快で優しい靴音がホールに響いた。
最近、ようやく彼女の足音を聴き分けられることができるようになった。
それだけ頻繁に顔を合しているという証拠だし、交流が増えるというのはとても喜ばしいことだった。
彼女と話をすると、不思議と情緒が安定する。
肌に染み込むような温かい声と、滑らかな口調、慈愛に満ちた頬笑みは、寮生活で久しく会っていない母に似ていた。
机の上に置いていた本の表紙を伏せながら顔を上げた。
来週提出のレポート資料として中央図書館から借りていたものだが、読み始めればなかなか面白かった。

三時頃にというやりとりで喫茶室にいるわけだが、約束の三時にはまだ少し早い。

「おかえりセラ」
振り向いての第一声がその言葉で、彼女は少し戸惑うように目を大きくした。

「ただいま、レヴィくん」
彼女の驚きは、彼女が口にしていない事実をレヴィが言いあてたことにある。

「あなたとお兄さんとは本当に情報が筒抜けなのね」
「兄さんがおしゃべりなだけだよ」
「クレイには」
「セラが嫌なことはしないよ。僕も、兄さんも」
安心した様子でセラがレヴィの向かい側にある椅子を引いた。

「目が覚めたらお昼を過ぎていて、ちょっとびっくりしちゃったわ」
「珍しいね、セラが寝坊だなんて」
「ええ」
いつも晴天のような笑顔が今日は、努めて笑おうとする痛みが微かに滲む。

「辛かったんでしょ? 実地訓練」
「え?」
「話して、吐き出してしまうのも痛い?」
「口にして気持ちいいものでないのは確かだけど」
クレイが遠方へ出張している間、セラも短期の実地訓練が重なった。
クレイに黙っているのを心苦しく思いながらも、欠員補填で急に決まったことだからと言い訳をしていた。
クレイほど長期間ではなく、二三日ですぐ帰ってくるからと、言いそびれてその日が来てしまった。

従軍する軍医に、生徒の中から選抜された者が従う。
体調不良とのことで出た欠員二名のうち一名を埋めたのがセラだった。
決まったのはクレイが出発する二日前。
言おうと思えばいくらでも言えた。
連絡を一つ入れればいいだけだ。
できなかったのは、クレイを心配させたくなかったから。
すぐに行って帰ってくるだけだから。

「本当に守るべきものは何なのか、正しいものが何なのか見失いそうになる」
学校では正しいのはディグダで、治安を乱している地域を鎮圧しに派兵しているのだと教わっていた。




人手が欲しい手伝いを寄越せと通信が入り、セラが人員に充てられた。
軍医の後を、重い医療器具のケースを提げて付いて走った。
授業の基礎体力授業を真面目に受けていてよかったと、その時思った。
動かすことが困難な負傷兵に駆け寄った軍の側でセラが収納ケースを手早く開く。
軍医に指示された器具を、時に早くと促されながらも的確に取り出した。

医師が傷を縫合する手を、ひとつの動作も漏らすものかと食い入って見つめていた。
運ばれてくる患者が一旦収まったころ、重患者の経過を見回るために立ち上がった。
外気は冷えていたが、動きまわって額に汗が浮いている。
押さえようと持ち上げた左手も、同時に見た右手も措置の血で赤く染まっている。
搬送の車がやってくれば、今度は担架だ搬送作業だと忙しくなった。

一人体が入るかという建物の隙間の前でディグダ兵が屈みこんでいた。
怪我をして蹲っているのかと思い、立ち上がって声をかけようとして言葉を引っ込めた。
隙間に白くなった遺体を足を使いながら放り投げていた。
兵士の遺体を冒涜する扱いに驚き憤ると同時に、行動の意味が分からず呆然と目を見開いていた。
理由は兵士が左へと去って間もなく明らかになる。

立ち竦んでいるセラの右手よりディグダクトルの学生が走って来た。
従軍看護の学生だ。
彼らに見せないために、遺体を隠した。

血の臭いだけではない。
何とも言えない異臭が道路に満ちていた。
それが死臭というものなのか、セラには分からないが、焦げたような臭いも鼻につく。
ディグダが建物に火を放ったのだろうか、鎮火されることなく燃え広がろうとする建物の脇に半分身を焦がした女性が手を伸ばしている。
目の前を行き交うディグダ兵は彼女の声の出ない叫びに耳を貸さない。
彼女の傍らには五歳にもならない幼児がいた。
大きな怪我をしており、痛みと母親を助けたいがために叫んでいた。
半身を動かせず地面に這った母親は小さなわが子だけでも逃がそうと、手を押し出していた。
しかし子供はその場を離れようとしない。

ディグダ兵をかき分けながら、その子供だけでも手を引くことができればとにじり寄って行った。

火の粉が飛び交う。
周りの空気が朱になる。

あと少しのところで、肩を掴まれた。
何をしている、お前の持ち場はそこじゃないだろうと強引に引き戻したのはディグダ兵だ。

衛生兵と怒鳴る声が別の方向から響いた。
兵。
そうだ、今のセラ・エルファトーンは学生ではない。
他の人間から見れば、ディグダの兵士だ。
支給された制服を見下ろした。
腕章こそ医療従事者の証だったが、戦闘兵とほとんど変わらない。

それでも目の前に倒れそうな人がいれば、助けられるかもしれない命があれば、わたしは動く。
手を伸ばし、肩を振って抗った。

あれは、敵だ。
抑え込まれながら耳元で噛みしめるように放たれた一言が、セラの行為を断った。

歩数にすれば十数歩。
駆け寄れば抱き寄せられるその距離で、重みに耐えきれなくなった建物の梁が火の粉を纏いながら崩れ落ちた。
火の中で息ができず咳きこんでいた母親、目が痛いと泣き続けて母親から離れない子供を巻き込んで、太い横木は地面で砕けた。




場所を変えてもいいかしら。

しばらく黙っていたセラが口を開いてから、聞くべきではなかったのかもしれないと小さな後悔を覚えた。
そこで遮ってもう止めようと言ってしまえば、今後実地訓練の話はすることがなかったのだろうが、そうはしなかった。

話すべきことだからセラは重い口を開いたのだろうし、話を振って合意を得た以上、聞かなくてはならないとレヴィ・ゲルフは思ったからだ。

セラは穏やかで優しい素直な少女だが、他人にただ流されるような人間ではない。
常に内に太く確固たる意志を抱えている。
それはクレイも認め、何度となく彼女の強さに救われていた。

どこというあてはなく、彼らは喫茶室を出た。
薄い雲がいくつか青い天井を泳いでいる。

のんびりとした歩調で休日を過ごす学生が、彼らの隣を通り過ぎて行った。
人を振り切るように歩いて、声が周りに届かない閑散としたところまでやってきてから、セラが顎を持ち上げて話し始めたのが実地訓練での出来事だった。

「後で状況の報告がされたわ。民間人の避難は完了しており、混乱での怪我人は十五人、死者はゼロ。じゃあ、わたしが助けられなかったあのお母さんは、子供は?」
数にすら載せてもらえない。
隠蔽され、なかったことにされ。
未だ光景は脳裏に焼きつき、焼けた臭いが蘇る。
偽りの数字にセラはただ愕然とし、絶望に歯を噛みしめることしかできなかった。

聞くだけで痛みで体を庇いたくなるような話をしているセラの白くなった横顔に、木漏れ日が降り注ぐ。
真綿のような彼女の心に、ディグダの戦いが赤黒い血を染み込ませた。
重くなった綿から血を絞り取ったとしても、臭いも汚れも落ちることはない。

「セラ。ディグダの人はきっとほとんどが真実を知らない。でも僕は、セラが見た真実を忘れない」
クレイがいたなら、彼女をどのように包み込むだろう。

「僕はセラの痛みを同じだけ感じられないけど、話してくれて嬉しかった。それでセラが少しでも救われるなら」
レヴィは彼女の手を取った。
まだ彼女に背は少し届かず、抱きしめてあげられるほど腕は伸びきっていないから、両手でセラの手を包み込んで胸へと引き寄せた。

セラは泣きそうな笑顔でレヴィを見つめた。
その言葉は、セラがクレイに投げかけたものと同じだったからだ。

「わたしは幸せだわ。こんな素敵な友達がいて。ありがとう、ごめんね」
レヴィの肩にセラの顎を預けた。

「わたしよりもきっと、クレイの方が辛いのにね」
耳元でセラの細く切ない声がした。

「クレイは、壊れやすいの。強いけど、だから誰かが側にいなきゃいけないの」
「セラがいればいい」
その言葉への返事はなく、ただレヴィは背中に力を込めたセラの手を感じた。

「一緒に祈っていて。クレイが、無事に帰ってくるように。不安、なの」






屋根の端へと駆け寄り、左手を柱に絡ませて体を支えると床の縁から頭だけを突き出して階下を確認した。

頬に大きな雨粒が当たっては顎へと筋を作る。
顎先から落ちていく雫は、五層分の壁際を垂直に落下し見えなくなった。

下方からは噴煙が上がる。
爆破箇所を確認してすぐ、クレイは後方を振り返った。

下層で追跡中だったディグダ兵の反応が消えている。
通信機が壊れたのかあるいは。

「自爆したのか」
「もう俺たちは逃げられねぇからな」
「自暴自棄になって、お前もここへ? すぐにディグダがやって来ると言うのに」
クレイはアームブレードを体の前へ水平に構えた。
鼓動が速くなる。
横に倒したアームブレードの向こう側の男は動かない。
切り揃えられていない髭に包まれた奥にある目は思慮深い色をしている。

「お前はここから何を見た」
「何って」
刃物を体の横に提げたまま、クレイの横を無防備にすり抜けた。
そのまま建物の端へと歩みを止めない。

「残念ながら今日は雨だ。だが俺には街が見える。濁った街だ。お前たちディグダの奴らに汚された街だ」
クレイは男の方へと体を向けながらも、剣を放つことはできなかった。
男の声は静かで、絶望とともに青い炎のように怒りも灯っていた。
複雑な感情を前にして、喉も凍りついていた。

「ここは俺が生きて、死んでいく街だ」












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