Ventus  115










雨が温度を下げた空気が指先から痺れるように冷やしていく。
屋根のない屋上の半面は、薄く溜まった水が鈍い色の空を跳ね返す間もなく、雨粒が水面を叩いて潰した。

男の立ち姿は感情を抜き取った置物のように、コンクリートで味気なく塗り固められた屋上の風景に溶け込んでいた。
装飾もデザイン性もなく殺風景な最上階は、建築物の屋根の上と表現するのが的確で、転落防止柵も申し訳程度でベンチ一つ置かれていない。

止む気配のない雨が寒々しく、高度があるにしてもその場の空気は沈殿していた。

両手を体の横に垂らし、ぐるりと屋上全体を見回した後、屋根の端へと亡霊のように滑り寄った。
死にそうに青白い顔をしていたら屋上の無機質さに加え、気味の悪さに身震いがするだろうが、彼の浅黒い顔にあるのは絶望より寂寥だった。
肩の張った背中の先には男が生まれて生きた街が、重い空気の下に横たわっていた。
屋上と地上とを遮って空気の層が何層にも折り重なって見え、地面が彼方に思えた。
もう戻るつもりはないのだという覚悟が、地面を這って生きてきたころの現実感を遠ざけた。
霞んでいるのは雨のせいだ。
雨が降っているせいか、鳥の声はどこかに消えてしまった。
冷たい雨に身を打たれる鳥は寂しく可哀想なものだが、空を行き交うもののなく灰色のペンキを塗りたくったような天井は、さらに物悲しかった。
階下は僅かながらも電力が届き、相変わらず機械音か金属音が煩かった。

男は雨と換気ダクトが低く唸る、雑音に満ちた屋上の中でモーター音を聞いた。
乗り捨てたエレベーターが下に引っ張られる音だ。
彼は踵を返し、大股で大きな靴底を押しつけるように確かに、一歩一歩踏みしめてエレベーターシャフトの前で立ち止まり、薄く開いた唇の隙間から、長く長く吸い込んだ息を腹に溜め込んだ。

雲丹の棘のような角刈りの四角い頭の下、凄みと渋みが刻まれた骨の太い顔が引き締まる。
寄せられた眉毛の下の瞳は、無骨ながらも信念を抱く深みがあった。
彼が今、背を向け複雑な思いの中見下ろした景色の中に、煙が糸を上げる煙突が微かに見えた。
その根元にあるのは彼が金属加工技師として以前働いていた工場だった。

一度停止した昇降機が再び唸り始める。
物資輸送の昇降機は体を震わせながら、少しずつ箱がシャフトを昇ってくる。
じりじりと緊張感が走り、神経は二重格子の向こう側を流れる太いワイヤーに集中した。

昇降機の頭が見える。
しかし箱の中は、空だった。

鉄板を打ちつける音がして、男は音の方向を勢いよく振り返った。
震動が足裏から伝わる。

非常階段の方だ。
ならば昇降機が空なのは、そうか。
驚くと同時に納得もした。

弾丸のように飛び出してきた黒髪は小柄だった。
前傾姿勢で真っ直ぐに、飛びこんでくる威圧感に引けそうになった腰を足で抑え込む。
距離はあるから避けるのは容易だ。

体を右へ傾けて突っ込んできたディグダ兵を躱す。
だが想定外のことが起こった。
横に流すはずのディグダ兵は、足先で止まると振り返った勢いで水平に武器を回した。
遠心力で唸る刃を避けられず、右手を翳す。
堅い音と重い衝撃が腕から肩へと響いた。
男は止めた息をゆっくり吐き出し、腕の端から片目を覗かせた。






昇降機に飛び乗ったクレイはアームブレードを抱え込むように胸に押し付けた。
走り続けたからだろうか、息が浅く深呼吸しても収まらない。
アームブレードを握る手にも力が入らない。
少し目眩もする。

体に被った血は乾いて服を固くした。
生臭い鉄の臭いにはずいぶん鼻が慣れたが、乾いても異臭がまとわりつく。
雨で洗い流せるだろうか。
死んだ人間の血だ。
惨殺された人間の血だとの思いと先ほどの光景が頭の底を這っている。
後を追って、捕獲して。
抵抗すれば、勝ち目がなければ殺すしかない。
それが与えられた役目であり、身を守る術だ。
相手は人ではないと思えと教わった。
同じ人間であり、同じ心と体を持っていると思った瞬間、同情が生まれ腕が止まるからだと。

箱の中でクレイは迫ってくる地上三層の床を見上げた。
頭の先、目、口と床を抜けた。
目の前に錆びきって見るからに脆い蝶番が見える。
一か八か。

大きく息を吸い、脚を振り上げて足裏を第三層の扉へと叩きつけた。
一度大きく揺れて傾いた扉は、まだなお縋りつくように枠に張り付いている。
今度は先ほど以上に強く蹴り飛ばした。

扉は蹴り抜かれる。
クレイは勢いに体を流して第三層へ滑り落ちる。
あと一瞬遅ければ、迫り上がるエレベーターの床と第三層の天井の隙間に頭が挟まれていた。
顎を引いて第三層の床に着地した。

安心している座り込んでいる暇はない。
喉を震わせながら息を腹に叩き込み膝を伸ばした。
エレベーターは上昇し続けている。
屋上でエレベータが昇ってくるのを待ち構えている奴がいるはずだ。
実戦経験は少ないが、それくらいのことは想像できた。
一つ判断を誤ると死ぬのはクレイの方だ。

エレベーターの中から確認できた非常階段に足を掛けた。
段を飛ばしながら一気に駆け上がる。
蛇腹のように右へ昇り左へ折り返してはまた右に傾斜する階段を昇っていくと屋上の端へと到達した。
屋上の半分を覆う天井の端で最上段に足を掛けると、思惑通り男が錆びついたエレベーターの前にいた。
手には鉈を持っている。
遠目でも分かる磨き抜かれた刃は、クレイの細腕など木の幹を払うより容易に切り離せるだろう。

雨水が流れ込む床で足を取られぬよう、足元を確かめた。
さすがディグダの支給品、濡れていようが靴底はしっかりと床を捉えた。
体を前に傾けて、加速する。
エレベーターの箱が見えてきた。
男がクレイへと振り向く。
驚きはしたが仁王立ちに構えている。

クレイ得意の一撃は避けられ、体を反時計回りに捻って放った二度目は避けられることなく男の腕に入った。
刃ではなくアームブレードを寝かして背に近い所で力一杯殴りつけたが、男の腕は骨が折れた鈍い震動は伝わってこなかった。
堅い。
こんな堅い人間がいるのか。

クレイがアームブレードの下から目を外へと出した。
日に焼けた顔に埋まる男の目と合った。






「情けねえな。ディグダはガキを使いにやって来たってわけか」
距離を取った後アームブレードを傾けてクレイが追撃を始めた。
それらもことごとく受け流される。
攻撃を受けたはずなのにまるで無傷で動きは鈍っていない。
そんなはずはない。
彼は人間だ。

今度はブレードの刃を立てて、腕の肘から手の甲に掛けて薄く切りつけた。
ブレードは容易く男の腕に巻きつけた革を裂き腕が露わになる。
金属のくすんだ色が目に飛び込み、怯んだ隙を突かれた。

男の腕が飛び、クレイの肩口を掴むと持ち上げた瞬間、体の外へと放り投げた。
屋根の下から雨が打つ屋上反面へと投げ出された。
体は濁った水溜りの中を転がるが、すぐさま右足を立てて上体を安定させる。
地面についた左手の下にできた水溜りに赤い色が滲み出る。
打撲の他に痛みはないが、この赤は。

「よかったじゃねえか。ちょうどきれいになってよ」
大きな鉈の水を振り落として、地面に先を置いた。
水に溶けて流れるこの血はクレイのものではない。

「誰の血かとは聞かないのか」
髪にまで飛んだ飛沫も、水に流れて肩へと染みを広げていくいく。
頬に張り付く不快な横髪を掻き上げ、ゆっくりと立ち上がってアームブレードを目の前に構える。
一対一だ。
何度も訓練したではないか。
さまざまな体格、性別、年齢、状況。

「どうせみんなやられちまったんだろう」
「捕縛しただけだ。私たちの目的は」
「施設の破壊と反抗勢力の駆逐」
施設は制圧するだけで破壊を目的としてはいない。

「捕らえた奴らだって殺されるか、死んだも同然の生活を送ることになる」
「勝手に決め付けるな」
「そうしないと言い切れるか? お前、何を見てきた」
「どういう答えが望みだ」
「俺たちがしてるのは戦争なんだよ、お嬢ちゃん」
反抗勢力の鎮圧というきれいごとでも何でもない。
ディグダ兵を殺し、反抗勢力を殺し、互いに血みどろになって殺し合う。
内戦という嫌な言葉が脳裏を掠った。

「あくまで私たちは」
「あんたが知らないだけでディグダの内側は沸々としてやがる」

反論が思い浮かばないながらも、何か言わねばとクレイが口を開いたとき、 地面を下から突き上げるような音と衝撃が足元を揺さぶった。
コンクリート壁を鉄球ででも殴りつけたような酷く鈍く重い音だった。
一度だけではなく、二度、三度と続く。

「やりやがったか」
「何を」
「さあ、下に溜まったディグダの奴らは何人吹っ飛んだかな」












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