Ventus  97










忍び込むつもりはなかったが、扉を開けてもセラは気付かなかった。
気持ち良さそうに小さく掠れた鼻歌を歌っているのは、個室にこもっているため。
盗み聞きしたのはクレイの方だ。
セラに非はない。

扉を開く音で振り向くと思っていた。
どうしたのクレイと、椅子を回してこちらを向いてくれれば話が続く。
だが踏み込んでしまっても気づかないセラに、声を掛けるタイミングを逸してしまった。
夕食に行こうとその一言を背中に掛けられない。

机に肘をついて、何かを眺めているのは分かるが、物はセラの陰になって見えない。

セラの歌声、その歌、聞いたことがある。
ジェイ・スティンか。
クレイが思いつく歌らしい歌は彼女のものしかない。

「ディスクの歌じゃないな」
歌が途切れてから声を掛けたのだが、逆に驚かせてしまった。
いきなり自分の背後から湧いた声に驚いて、比喩でなく飛び上がり凍り付いた顔をゆっくりとこちらへ向けた。
それが熟れたようにみるみる赤くなる。
口を開くが、羞恥心と驚きで声にならない。

「いつから!」
「途中から、かな」
「声、掛けるとか。言ってくれてもいいじゃない!」
泣き叫びそうな、セラには珍しい表情の変化と感情の高揚が、クレイにはどこか新鮮だった。
どこか嬉しくもあるのは、そんな彼女は他では見られない、一種独占できたような喜びも含んでいたからだ。

「ごめん」
真摯に謝ろうとしたが、口の端が押さえようとしても持ち上がってしまう。
かえって怒らせてしまうかもしれない。
危惧しながら様子を窺った。

「恥ずかしいな、もう」
触ったらふわふわと柔らかいだろう髪の間から真っ赤な耳が覗く。

「ジェイ・スティンから?」
「え?」
「さっき歌ってた歌」
鼻歌のメロディー、歌詞はやはり古語なのだろうか。

「そう。一度聴いて耳に残った歌だから、曖昧なんだけど」
もう一度聞きたいと所望したがきっぱりと拒否された。

「歌詞の解読は?」
「学業の傍ら、そっちも少しずつ」
机に置いた掌の下に、カードの端が見えている。

「これ? この間貰った、賞品よ」
浮かせた手の下に現れたカードにはクレイも見覚えがあった。
先日カイン・ゲルフとのアームブレードの試合で勝利したときのものだ。

「情報を保存できるとか何とか言ってたな」
興味がないし、保存するような大量の情報も持ち合わせていない。
その場でカードをセラに渡した。
セラならば、解読の情報ファイルを保存する場所として活用できると思ったからだ。

「カードは倉庫に入る鍵のようなもの、だって。これには保存されないみたいなんだけど」
青くて薄いカードだ。
学生カードと同じくらいの厚さと大きさだ。

ネットワークの中に、セラだけの空間を構築した。
誰にも侵されず、誰にも破れない防壁に囲まれた場所だと、賞品の提供者は言っていた。

「カードを端末に差し込めばどこでも繋がるんだって」
「何かもうデータを流したのか」
「まだ。パスワードとか決めなきゃいけないみたいだけど」
何にしようかな、と唇に指を当てた。
セラの手からカードを摘みあげて、クレイは彼女から離れた。
皺のないベッドに腰を下ろすと、そのまま背中から寝転がった。
少し伸びたクレイの黒髪がベッドに散る。
大きな瞳で電灯に透かしてみたカードを下から眺めた。

「文字らしいものも書いてない。そんなすごいものなのか?」
「きっと。で、どうかしたの?」
クレイの頭の横へ膝をついて、カードを取り上げた。
言われて思い出した。
セラの部屋へ来た目的を忘れていた。

「食事、呼びに来たんだった」
「もうそんな時間なの?」
机の上に置いてある時計に振り返った。

「どのくらいぼうっとしてたんだ、セラは」
「クレイに言われたくない」
カードは学生カードと一緒のフォルダに入れ、胸のポケットにしまい込んだ。
セラの胸で乾いた音がする。

「ん?」
胸のあたりを叩きながら探り、服の内ポケットに手を忍び入れた。
紙片がセラの指で引き抜かれる。

「それは?」
「詩」
「セラが書いたのか」
「まさか! わたしに詩的センスはないわ」
笑いながら机の引出しに手を掛けたセラの手首を掴んで止めた。

「じゃあ解読途中のメモか」
「そう。走り書き程度だから」
言っている間にセラの手から紙片を奪い取り、取り返せない距離を取って開いた。
単語が羅列している。
左が古語、右向き矢印を挟んで、右が現代語訳らしい。

「こころ、生む、間」
「そう。繋げれば、『重なり合う二つのこころ』」
「生む、は?」
「狭間で生まれるもの」
「ふうん」
食い入るように見るクレイの横顔が、おもちゃに集中する子供のように純粋で、見ていて心が和んだ。

「何の詩かな」
「続き、読んでみる?」
「うん」
クレイの隣に並んで、一緒に紙片を覗き込む。

「迷う、導く。これは、否定文か。それで、孤独。さっぱり意味が分からない」
「パズルみたいね。単語を拾って、どの動詞が名詞と繋がるのか。形容詞はどれを形容しているのか」
「時間が掛かるな。あと、忍耐とが必要だ。続きは?」
「ええっと」
セラの指が走り書きを辿る。




重なり合う二つのこころ
狭間で生まれるもの

彷徨うあなたを導くものに
あなたが孤独に抱かれぬように

凍れる夜も、乾いた土の上でも
あなたの傍に寄り添い
あなたのために生きよう

あなたのために
あなたを包む
あなたを導く
風になろう




「あなたって、誰だ」
「考えていたのよね。調べてる間」
紙片を握ったままクレイを寮の廊下へと促した。
早めに行かなければ食堂が混んでしまう。
座席とテーブルは十分に足りるが、騒がしくなる。
人間嫌いを飛び越して無関心なクレイは、以前ほど人混みと騒音の波に揉まれても不快感を露わにしなくなったが、まだ慣れないらしい。

「きっと恋人への歌なのよ。大切な人を想う歌」
「凍れる夜も、乾いた土の上でも、か」
風が渡る。
氷の粒のように光る夜空の中を。
砂埃が舞い上がる熱い地の上を。
青い匂いが満ちる草原の丘陵を。

柔らかい陽光の下で琥珀の髪を。
他を惹きつける漆黒の瞳の側を。


「風になる、か。なれるのか。そんなものに」
「どういうこと?」
廊下には学生が左へ右へと流れていた。
見回してマレーラとリシアンサスを探したが、見当たらない。

「命が消えてしまったら。私はどうなるのかってことだ」
「せめて風にでもなれたらって、思うの?」
「実感がない世界で生きてるからな。今は」
「幸せってことなのよ。わたしは、変わらないでいたい。このままずっと、みんなとこうしていたい」
人の流れに巻き込まれないように歩く廊下や、夕食のメニューについて立ち話する学生の側を通り過ぎて。
課題の期限に項垂れる学生、励ます友人、当り前の光景。
それをつまらないと言う人もいるかもしれないが、当り前こそが大切で、感じられなくても側にあることが愛おしい。






食事はほとんど決まった時間に取るようになっていた。
夕方から夜中までと、食いはぐれないように時間の幅は大きく取られていたが、誰が決めたわけでもなく、同じような時間に同じような人間が集まる。
座席も指定されているわけではないが、何となく馴染みの席に着くようになっていた。
二人は壁寄りの席に着く。
食事を一緒に取るようになってから、格別混み合っていない限り同じような場所を確保していた。
人目を引くこの国には珍しい黒髪、セラが出会った頃のクレイが放つ排除的な刺々しい空気は、その空間だけ切り取ったように踏み込めなかった。
最初に壁に近い席を取ったのもそういう理由だったはずだが、以前のような切りつける鋭さが緩和された今では、ただの習慣になってしまっている。
ただ今は別の意味で周りの目が邪魔になっている。
清女の祭、アームブレードの試合で勝ち上がっていった学生。
クレイ・カーティナーの名が知れ渡ることはなくとも、アームブレードの授業を受けている学生は多少なりとも興味を持つ。
声をかけられたり、執拗に注目されたりはないが、ときおり感じる視線はクレイにとってあまり心地よいものではない。

「実習、始まるんですってね」
食事の乗ったプレートを先に机に乗せ、セラが椅子を引いた。

「言ってなかったか」
対面からクレイが飲み物を置き、椅子に座る。

「聞いてないわ」
「心配するかなって思って」
思っていたら、言いそびれていた。
スプーンで食事を運ぶ様を向かいの席で見ていた。
黙っていたことを悪びれる様子もない。

「心配、するわよ」
当然でしょうという言葉を含む、小さな責めだ。

戦場での実地訓練だ。
卒業後いきなりの戦地では使い物にならない、それが建前で、実際のところ人手が足りていないからだという話も聞く。

「大丈夫。学生がいきなり前線に立たされることはない。後方部隊のさらに後ろの方で運搬作業だの、雑用任務だの、それだけのことだ」
「それって誰かから聞いたの?」
「黙っててもあちらこちらで、ありがたいことに勝手に情報を運んできてくれる」
どこまでが真実でどこまでが作り話か分からない噂が、望んでなくてもいくらでも周りで囁かれる。
皆笑いながら、時に冗談めかして口にしているが、内心自分ひとりで抱え切るには重すぎるから、吐き出しているんだろう。
誰もが皆、不安なのだ。
ディグダクトルが必死になって隠そうとしている死の匂い。
だがいくら香りのよい香を振りまこうと、消せるものではない。

「後方へ、安全な場所への配置。それが本当なら、いいんだけど」
いつの間にかセラの食事のペースが落ちてきている。
止まりかけた手を見かねて、クレイの指がセラのプレートを軽く叩く。

「やっぱり見たりするのよね、人がたくさん」
言いかけて、口を閉じた。

「ごめんなさい。食事中だったわ」
「別に、気にしていない。私は、誰かの気持ちを理解しながら、想像しながら生きることをしてこなかったから」
汁を掬っては口に持っていく。
伸ばした背筋、静かで焦りのない口調。
どれもが他の学生と同じだ。
普段のクレイは、なんら変わるところはない。
しかし、彼女はセラたちとは全く異なる、血生臭い場所で生きてきた。
泥の中、ゴミの放つ腐臭、鼻につく死臭。

「心配する側の気持ちって複雑過ぎて。言い訳だろうなこれ。情けない」
「本当のことだもの。わたしが心配するかもって思ってあえて口にしなかった。でもね、黙って行って、怪我して帰ってきたら、そっちの方が辛いわ」
「だけど」
戦場と学園内の距離、セラには何もできない。

「クレイの無事を願うことはできるでしょう。クレイの不安を分かち合うことはできる。クレイの恐れが軽くなるのなら、わたしは側にいたい」
「なら無傷で帰ってこなくちゃな」
心配されるということは、どこかこそばゆい。
嬉しくもあり、すこし気恥ずかしくもある。
だが、悪くない。












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