Ventus  89










大扉を引き開けた途端、音で吹き飛ばされそうになった。
音が空気を伝う波だと改めて感じた瞬間だった。
後ろに倒れそうになりながらも、体を引き起こして息を吐いた。
しかしながら、凄い熱気と凄まじいと言って良い騒音だ。
これがすべて人の声だというのだから、驚きでもある。

すり鉢状のアリーナにはもう空席を探すのも大変なほど学生で埋まっている。



「去年もこんなのだったかしら」
傾斜に張り付くように並んだ観客席の間を走る階段を下から登ってきた。
階段で立ち止まったまま観客席の間から顔を突き出して、周りを見回した。
顔を寄せて話さないと声もかき消されてしまう。

「どうだったかな。あんまり覚えていない」
クレイが眉間に心持ち力を入れながらセラの耳元で答えた。
クレイは騒がしいところが苦手だ。
群れるというのがそもそも慣れていない。

「リシー! こっちよ」
人を避けながら押し流れさてくるリシアンサスとマレーラの二人をセラが片手で捕まえた。

「絶対去年より人が増えてるって!」
マレーラが短い髪に指を押し当てた。
静電気で髪が乱れること、跳ね上がること。

「うーん、目玉商品が露出中だからかしら」
リシアンサスがのんびりと最後の一段を踏みしめた。

「ああ、あそこらへん空いてない?」
右方向三列目に空が見える。

「やたっ、ほら行けクレイ!」
マレーラが力強く空席を指差す。
セラがクレイの背中を軽く押すと同時にクレイが飛び出した。
放たれた警察犬のように俊敏かつ超人的な動きをしつつ最短距離で空席に食いついた。

「見た今。あの子客席飛び越えたわよ斜めに」
息を呑みながらマレーラが低く呟いた。

「人間じゃないわね。獣(ビースト)をも超えた」
セラはクレイの後を追い、人を掻き分けて進む。
二人もそれに続く。

「獣(ビースト)? クレイなら四肢をバラせるわよ」
「三十秒でね」
付け加えたのはリシアンサスだ。

「で、あの人間の形をした何かは何でここにいるの? 保護者、説明しなさい」
すみません、すみません、後ろ通りますよ、ごめんなさいねと呟きながら、マレーラは通路を割って歩く。
彼女たち三人に、人で窮屈な通路を草原を駆けるように風を切って走り抜ける素早さも、まして客席を軽々と飛びぬける身軽さもない。
運動神経に多少なりとも自信のあるマレーラですら、無理だ。
それ以前に、客席に埋まっているいるどの人間ができるだろう。

「控え室だか、訓練室にいると息が詰まるからセラと一緒にいる、んだそうですよ」
「あの子出場者でしょう? 選手っていうものはもっと緊張感に満ちて体調管理だとか」
「関係なさそうね。だって私聞いたもの」
リシアンサスが緩やかに巻いた三つ編みをゆらめかせながら、二人の背中に話しかけた。

「清女の祭りに出る人って、通常授業は免除されるでしょう」
代わりに訓練施設に篭る。
アームブレードの学生大会だ。
その頂点を決める重要な大会に備えるための特例だった。

「クレイ、旅行から帰ってきて何してたと思う?」
「爆睡してたとか。まさかね」
「調理実習に出てたのよ。野菜刻んでたの」
クレイが、ヤサイ。
余りにも結びつかない言葉に、暗号解読で思考停止したマレーラの足が止まった。
流れが遮られ、見知らぬ学生に肩を持っていかれそうになった。




テーマ、生き抜くための知恵作り。
最低限包丁を操れ、最低限食べられるものを作ろう。

それが調理実習だ。
食、すなはち生きること。

真面目に出席しなければ単位はない。




「けど、この時期に? なんで?」
「先生は褒めていたわ。味付けはとんでもなくても、包丁を握らせれば目の色が変わるって」
「クレイ、手順だとかレシピとか嫌いそうだから」
ため息と共に呟くセラに、マレーラがすかさず振り返った。

「いや、そういう問題じゃないかと」
「友だちはそれは華麗な包丁捌きと綺麗な千切りだったと目を丸くして興奮した口調で話してくれたわ」
言っているうちに、本人の目の前に辿り着いた。

「遅い」
「クレイ、時間は大丈夫?」
「まだ始まってすらないじゃないか」
座席の周りは立ったままの人間がうろついている。
それでも心配そうな三人を、座席に座ったまま見上げた。

「わかった。開会式が終わったら行く」
「緊張感なさ過ぎなのよ。旅行からのブランク埋めようって言う焦りが見られないわ」
だがそれもまあクレイらしいとリシアンサスが口元を緩めた。

「ちゃんと練習はしていた」
「うん。放課後に訓練施設に通ってたよね」
セラが端に座るクレイに顔を向けた。

「けどそれって今までと変わんないんじゃないの」
それまでもよくアームブレードを手に放課後の空き時間を潰していた。
クレイには娯楽というものが他になかったからでもある。
それはマレーラも、リシアンサスだって知っている。

「ああ、うん。まあ」
歯切れが悪いのは図星だからだ。

「お手並み拝見ね。休暇で鈍った動きしてたら恐い先生に怒られるわよ」
「あいつはそんなに恐くない」
クレア・バートンのことだ。
今日も教え子がクレイの他にも出るのでどこかで神経を尖らせて楕円の競技場を睨みつけているはずだ。
恐くはないが、アームブレードを手にぶっ飛ばされるのは堪らない。
壁へ教え子を投げつけたり叩きつけたりは常のこと。
どういう力加減と技術を駆使しているのか、後々骨や肉が痛むことはない。

だが醜態を晒すような試合をして見せたら、それこそ今度は青あざじゃ済まない。

「まったく、そんなに沈んでるんなら直前までセラとお菓子を摘んでる余裕持ってるんじゃないの」
四人で集まるまでの時間、クレイはセラと図書館の旧第六分室、通称灰色館で旅行の土産話を交えながら、お茶と茶菓子と昼寝を楽しんでいた。
聞き手はもちろん、館主のヒオウ・アルストロメリアだ。
彼女は管理している薄暗く巨大な灰色館内の書物の概要はほぼすべて記憶している。
神の棲む島の話をしながらも、いくつか関連する書物をポットの横に積んでいった。

クレイが試合に出ることがなければ、セラとクレイはそのまま二日、三日居座っていそうだった。
後ろ髪を引かれながらも灰色館を後にし、マレーラとリシアンサスとの待ち合わせ場所には走らなければ間に合わなかった。

「お菓子摘んでも、警戒心ゼロで昼寝しててもいいから、勝ちなさいね」
真剣な目をしたマレーラが、一番端に座ったクレイを真っ直ぐに見据えた。
赤みを帯びた茶色の目が、日の光の下で透き通る。

「そうそう。私たちここから応援してるから」
「競技場の下まで降りて行けないけど、できるだけの大声で応援してるから」
「ああ、うん」
「だから、がんばって。アームブレード、好きなんでしょう? 真っ直ぐに見つめて走れるもの、見つかったんでしょう?」
「ああ」
強くなるためには。
守るためには。




「始まった」
管楽器が高らかに鳴る。
周囲を取り巻いていた耳を潰すほどのざわめきは収まっていく。
正面舞台に並ぶ圧倒される規模の音楽隊が、驚くほどぴったりと音を合わせ、糸が解けるように音が展開する。

音楽隊の上層で動きが見えた。
式典用の衣服に身を包んだ貴人だ。

五老と呼ばれる国政の長たちは並べられた五つの椅子の前で整列した。
頭に乗せた帽から下がるヴェールで顔は明らかにはならない。
だが彼らは庇で奥まった上層壇上にあっても存在感に溢れていた。

ややあって、帝国最高位の権力者が入場した。
昨年と同じだ。
天と呼ばれる、ディグダの帝。
名は藍凌天(らんりょうてん)。

一年前は本当に子供に思えた。
重い正装を引き摺る姿も可愛そうなほどに。
あれから時間が経ってもなお、幼さには変わりはない。
背丈の高い従者に囲まれて進む姿は、余計に小さかった。
背を伸ばしたままゆっくりとした歩調で五老たちの前に差し掛かる。

その直前、五老たちが床に肩膝を突いて背を低くした。
彼らは小柄な藍凌天を嘲笑したのではない。
帝こそ国の中枢であり上にあるべきもの。
五老はあくまでも国の政を支える支柱に過ぎない。
これもまた儀礼の一つだ。

動く機械人形のような藍凌天を従者が座まで導き、幼帝は椅子に沈む。
今、背筋を伸ばし時を待つ彼は何を思うのだろう。
重い衣に包まれて、偉丈夫たちに身を囲まれ、息の詰まるような儀礼に固められて生きている。
あまりにも遠い幼帝に同情を感じるのすら畏れ多いが、思わずにはいられない。






清女(きよらめ)が現れる。
たおやかな手足、滑らかな体の動き、幻想的な指先の動きは風の流れを読み空気の上をなぞるように細やかに動く。
薄絹を纏い、競技場に流れ込んできて舞う。

競技場が静まり返り、全員が注目した。
本当の美しさはここから始まる。
清めの儀に相応しい乙女たちは、水差しを手に散開した。

口の長い水差しから水が細く糸を引く。
舞いながら、駆けながら、彼女たちは描いていく。
競技場より高い位置にある観客席から描かれていく模様が良く見える。

淀みない曲線は、彼女たちの脚がコンパスのように軸となる。
腕を真横に突き出し、片足を高く持ち上げながら絶妙なバランスで体を捻って水を放つ。

軽やかな清女は決してその足先で水跡を乱すことはない。
気が付けば散っていた清女らは競技場から流れ去って行った。



式典の長いローブに身を包んだ従者が音すら立てぬ微風のように現れる。
宙でも浮いているのかと思うほど滑るような素早い動きだ。
手にした器にやはり昨年と同じように、場内の砂を一掴み落とす。
藍凌天の側に姿を現した。
どこをどう上ってきたのか、藍凌天の最上層まであっという間に辿り着いた。

藍凌天に手を差し出すと、幼い天は手に手を乗せてそろりと座から身をずらし、床に足先を付ける。

数歩前に歩き出し、従者が両手に掲げた器から砂を握りこんだ。
胸の前で祈るように砂を持ち上げる。
一呼吸の後、流れてきた風の中、拳を突き出すと風の流れに砂を乗せた。


散っていく砂粒が光を受けて煌く。






割れるような拍手と歓声が再び湧いた。
体が下から持ち上げられるような音の波だった。
体が痺れている。
鳥肌が立っていた。

音楽の重厚さと、夢を見ているかのような清女の舞い。
何より、今は奥に引き下がってしまった藍凌天の姿に胸が熱くなる。


「すごい」
セラが口にできるのはその一言だけだった。
胸が鳴っている。
耳まで鼓動が響いている。

始まるんだ。
祭典が、アームブレードの頂上が決まる。


「じゃあ、行ってくる」
セラの隣でクレイが腰を上げた。
他の観客が熱気で沸きながら座席の側から離れない今なら、階下の競技場と控え室に行くのも動きやすい。

「ちゃんと、見てるから。ここにいるからね」
行きかけるクレイの制服の袖を、反射的にセラは握りこんだ。

「クレイが一番だと思うもの、見せて」
「ああ。やるよ」
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます」
クレイがセラの手に指を乗せる。
指先は温かい。
大丈夫、クレイは強い。
前よりももっと。
ずっと、強い。

座席の前で立ち上がりながら、セラは階段に消えていくクレイを見送った。












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