Ventus  85










朝の匂いがする。
水気を含んだ大気を吸い込めば、肺の隅々にまで清浄な空気が行き渡る。
特にこの島は、不思議と空気が軽かった。

ディグダクトルで朝目覚めても、散歩に出ようなどと思うことはなかった。
夢から押し出されるように目を覚まし、少し重い額に片手を当てて、緞帳のような目蓋を持ち上げる。
熱い息を肺から追い出しながら冷えた床に足をつけると、素足のまま窓に寄る。
窓を押し開けて窓から朝の風に揺れる木の葉を眺めながら、頭が立ち上がるのを待つのだ。
閉鎖された個室では風は流れては来ない。
見えない流れを捕らえようと手を伸ばせば、故郷を思い出す。
朝起きて窓と部屋の扉を開け放てば、滞っていた空気が一瞬に入れ替わる。


セラ・エルファトーンの叔母の家は、そんな彼女の故郷の家に造りが少し似ていた。
さすが、母親の姉だ。


爽やかな目覚めは眠気を吹き去っていた。
窓から顔を出せば、二度寝する気分などどこかへ消し飛んだ。
寝室を出て、居間の机の上へ伏せてあったカップの下に散歩へ行くと一言書置きを挟んだ。

日は昇り始めようとしたところだった。
薄明かりが差し始めた誰もいない細い土道を歩くのは爽快だった。
見渡す限り、人影はない。
空気は肌寒いほど冷えているが、上着を羽織れば芯まで冷気は届かない。
顔に当たる空気は、気分を締めてくれる。
まだ空には弱い光を落とす星が散っていた。
間もなく彼女らも消えるだろう。

さてどこに行こうか。
あてもなく続く道を歩くもよし、だがシタの町で迷った過去がある。
しかもここはディグダとは人口密度も交通機関の発達も比較にならない。
迷ったところで頼りになる看板も道を聞ける人に遭遇するかも怪しい。
早朝の一人歩きで森などに迷い込みたくはない。

行ける場所は限られていた。






島の一点で遭遇した旅行者同士。
その偶然も作用したのか、妙に親しみの情が湧いた。
もっとも、相手の持つ空気がこちらの警戒心を根っこから溶かしてしまうような穏やかなものだったからでもある。
違う人種、違う言語、違う場所からやってきた者同士。
多少なりとも拒絶なり摩擦なりが起こるのが当然だと思っていた。
彼と出会ったのはセラの勘違いで、しかしセラは彼と出会ったことをただの通り過ぎた過去にしたくなかった。

徐々に明るさを取り戻していく丘と空の境界線を横目で眺めながら蛇行する道を進む。

木の密度が濃くなっていった。
見慣れた風景に包まれる。
朝焼けの光を透かした鮮やかな緑の木の葉で飾られた細い枝。
穏やかで、生命力に満ちているような日の光はやはり、ディグダのものとは違った。
どこか浮き足立つ感じ。
セラを活動的にすらさせる。
慣れぬ土地の早朝の散歩に向かせた足がその証拠だ。
この風景も間もなく別れを告げなければならないと思うと、名残惜しい。


セラの左で草を掻き分けるような物音がして、体が硬直した。
音はこちらに近づいてくることはない。
他に人がいたのか。
まさか、クレイが遭遇したという獣(ビースト)ではないだろう。
セラは息を潜めて、木の幹に身を寄せた。

かすかではあったが、細い重なり合った木の隙間に人影が過ぎった。
背の高い、男性のようだ。
考え事をしているのかこちらには気付かない。
切れ長の目は思い悩んだように険しかった。
大きい歩幅で草木を切り裂くように歩み去るので、それ以上は視力が及ばなかった。




「セラ?」
「何でいるの?」
呆けた顔で立ち尽くすセラと、驚いて丸い目で見上げる少年が顔を合わせる。
泉の畔、二人のほかに誰もいない。

彼の体に合わない大きいロングコートに埋まるように、膝を丸めて座り込んでいる。
朝の水気を含んで黒髪が頬に張り付いていた。

「話すと、長くなるんだけど」
少し間を置いてから、思い出したように瞬きを繰り返した。

「一言で纏めると、散歩の延長かな」
「それにしては湿っぽい顔、してる」
眉を下げて、セラは少年の隣に座り込む。
セラの顔をぼんやりと見つめたまま、彼は固まっている。

「どうかした?」
あまり眺められても反応に困る。
彼は、ラナーン。
出会いは突然で、衝撃的だった。
精神的にも、物理的にも。

泉に突き落としたのはセラで、ラナーンは疑いも罪もないただの被害者だ。

「前とちょっと違う気がする」
「特に、変わりないよ。怪我も治ってる」
「考え事をしにここに?」
鳥の声と風と葉の揺れだけが空気を震わせる朝の静けさ。
静かに波打つ水面は考え事をするにちょうどいい。

「そういうつもりで来たわけじゃないんだけど、半分は成り行きで、半分は自分の意志でここに居座ってる」
「ぜんぜん分からない」
まあいいわとでも言うように、ラナーンと同じ泉に顔を向けそれ以上セラは追及しなかった。

「さっき人を見たの」
「ああ」
寒いのか、ラナーンは膝を抱え込み亀のように首を引っ込めた。

「友人だ」
「一緒に旅行をしているっていう?」
「幼馴染」
「帰っちゃったみたい。追わなくていいの」
「朝食を取ってくるって。ここで食べるって言ったの、おれだから」
子供の様なわがままだ。
さしずめ去って行った彼は保護者か。

「けんか、してるの?」
直接聞いてはならなかっただろうか。
言い終わってから少し後悔した。
しかし、保護者はラナーンを残して行ってしまった。

「してないよ。けど、何て言ったらいいんだろう。心が、ずれてしまってる感じ」
うまく言い表せず、言葉が詰まった。

「何か遠いんだ。気持ち、分からなくて」
風に身を任せる木々はしなり、葉は重なり合い騒ぎ合う。

「目を瞑ってみて」
いきなりのことに、ラナーンがセラを振り返った。

「ほら。手を握っててあげるから」
促されて、目を閉じた。
風と木の音はまるでここが大海の直中にいる錯覚を与える。
分からなくなったら、他のものを切り捨てればいいの、とセラは言った。
セラとクレイも迷ったからディグダを離れた。

「その幼馴染って、どんな人なの」
向き合って座り手を握りながら、セラはラナーンの伏せられた睫毛を見つめていた。

幼馴染の名はアレスといった。
剣の腕も強く、精神的にも包容力と決断力がある。
冗談はよく口にするし、ラナーンをからかうこともある。
兄のような存在だった。

「アレスはおれを守ろうと。でもおれは誰も縛りたくない。おれがアレスの人生を奪う権利なんてない」

「ラナーンは、アレスをどう思っているの?」
咄嗟に目蓋が上がり、正面のセラの目を見つめた。
真っ直ぐな目は深い琥珀色をしている。
細く柔らかい髪に包まれた顔は穏やかで愛らしくあったが、母親のような慈愛と強さを秘めていた。

「目を閉じて」
両手を上から重ねられ、命じられるがままに少年は再び目を閉じた。

「自分の身は自分で守りたい。強くなりたい。今のおれは無力で、本当に何もできないんだ」
いつも守られてばかり。
周りを危ない目に合わせてばかり。
頼ってばかりだと吐露した。

「同じね」
セラはラナーンの目蓋に手を乗せた。

「わたしたち、みんな、同じだわ」
セラも、クレイも、出会ったばかりのラナーンも。

「一人じゃ何もできない。でもね、わたしたち一人で生きてるわけじゃないのよ」
隣には誰かがいる。
セラにはクレイがいる。
ラナーンにはアレスという友人がいる。

「迷惑かけていいじゃない、頼ればいいじゃない」
それが友だちというものだ。
クレイはちゃんとセラに自分の一番痛い思いを伝えてくれた。
言いたくなかった過去を明かしてくれた。
セラを自分の人生の一部にしてくれた。
頼られるということがこれほど嬉しいものだとそれまで感じたことがなかった。
涙が出るほど嬉しくて、わたしがクレイを守ろうと決意した。

「本当にキライなら誰も命を掛けて助けたりしない」
離れずに守るというのはそういうことだ。

「好きだから側にいる。単純明快、それだけのことよ」
「おれには何かを貫ける強さなんてないのに」
「始めから強いひとなんていないわ。強く見えて脆かったりする」
クレイのように。
氷壁で身を固めても、壁の内側では人を殺めた過去にいつも怯えていた。
また誰かを傷つけるのではないかと、震えていた。
近づくものを拒絶し、自分の領域に踏み入れさせない。
しかしそれは本当の強さではなかった。


「大切な誰かを守りたいって、本当に願ったときに強くなれるの」
思いに力が伴うもの。

「アレスというひとが真っ直ぐなのは、その先にあなたがいるから」
セラはラナーンの手から自分の手を剥がして彼の両頬を包んだ。

「わたしが強くなれるのも、大切なものがあるから」
セラは目を開いたラナーンを見つめながら琥珀の瞳を細めた。
樹液が長い年月を掛けて宝石になったように、その瞳も深みのある褐色をしていた。

「わたしもずっと怖かった。嫌われるのが怖くて、周りを気にばかりしていた。だから、同じ」
ラナーンの肌が朝の光の中で白く浮き上がる。
全く自覚がないまま流れる涙が外気に冷え、頬から顎に細い筋を作る。

彼は不安で堪らなかったのだろう。
遠い場所から友人とこの島にやって来た。
口には出さないが、彼はずっと守られた場所で生きてきたのが分かる。
あどけなさが残り、ひどく純粋だ。
ほぼ同年だろうが、学園の男子生徒とは異なっている。
少女のような少年のような、子供のような。
彼に血は似合わない。
そう思うのに、握りこんだ彼の手には剣で刻まれた堅い皮膚があった。

どういう状況が彼をここまで追いやったのか、セラには見えない。
彼を救えるなどと思わないが、彼が彼の道を見出せるのならば、彼の感情の捌け口となろう。

「頼ってもいい、守ってもらえばいい。それ以上にその人を信頼し、大切にできるなら」
セラはラナーンの頬を解放する。
ずいぶんと長くここに留まっていたようだ。
鳥の声はいつしか増えていた。
ラナーンは拭うこともなく静かに涙を流していた。
セラはその姿を美しいとすら思った。
清らかなものがあるとすればきっと目の前の光景のことを言うのだろう。

「大切だと思える人に、その価値を見出せるなら」
「セラは」
「わたしは剣なんて使えない。腕力も自信がないけど、大切な人を守る」
もうそろそろ行かなくては。
時間に追われるわけではないが、町をもう少し回ってみたい。

「もしまた会えるなら、ディグダクトルに寄って。案内するわ、街を」
「ありがとう」
「会えてよかった。社交辞令じゃなくて」
「おれも。話せてよかった」
最後に見せた彼の顔は、淡い陽光のように温かく笑っていた。












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