Ventus  86










丘を這い登る坂道は軽く息が上がった。
軽い空腹も覚えながら、階段とは言いがたい木の短い棒を坂道に埋め込んだ段に足を掛けて慎重に上を目指した。
何度も人が行き来し、土に埋もれた横倒しの木が外れる心配はないが、崩れた柔らかい土が木に流れ落ちて歩きにくい。

大雨でも段が埋まらなかったのは通る人間がきちんと様子を見ているからだ。
注意して歩いてみれば、所々木が新しく埋めかえられているのが分かる。

垂直に丘を登るのではなく、緩やかに丘を包み込んで段は上っている。
町からは離れ、ここは一層静かだ。
上から眺める町の景色は爽快だろう。

丘の上に上り着いて、真っ先に視界へ飛び込んできたのは四角い小屋だった。
石と木で組まれた簡素な小屋は、正面の扉が大きく開いている。
箱のような建物は倉庫のようで、奥に屋根だけ見えるのが住居だ。
垣根もなく、住人は見当たらない。

小屋の中を覗いてみようと前を通りかかると、中に納まった車の陰から人の頭が這い出してきた。
車に右を、壁に左を、上には壁から吊るされた掃除用具に囲まれた隙間から四つんばいの頭が近づいてくる。

ガレージの手前まで抜けきると、顔を持ち上げた。
何をしてきたのか、朝から顔を土塗れにしていた。

「何だ、違うのか」
汚れた服の袖口で顔を拭うと、改めてセラの足先から頭の先まで観察した。

「見かけない顔」
髪の毛を押し込むように、鮮やかな青い布を頭に巻いている。
せっかくの深い青も埃か土かを被り、くすんでいた。
高い声と小柄な体、簡素な上下の衣服に包まれた目の前の子供は、少女だ。

「わたし、この島の人間じゃないから」
「だろうね。言葉、違うし」
「叔母が近くに住んでるの、それで」
「あ」
遮るように少女が短く声を上げ、首を伸ばして視線を反らした。

「そろそろ時間か」
彼女の視線を辿って、振り返った。
丘の頂上に頭の天辺が覗く。
押し上げられるように額が見え、髭が持ち上がってきた。

「どこから」
「ディグダからよ」
「名前は」
「セラ・エルファトーン」
「変わってる」
「そうかしら」

「おはよう」
少女が進み出てセラの隣に並んだ。
顔はようやく丘に全体を現した男性に向けられている。

「順調かな?」
「まあね」
「お客とは珍しいね」
「客じゃない。通りすがり」
「出会ったのだからお客だよ」
のんびりとした口調の男は、その柔らかい物腰をそのまま映した思慮深い優しい目をしている。

「それでは、また明日」
ゆっくりとした確かな歩調で、真っ直ぐな背中は去って行った。

「お知り合いなの?」
「散歩好きの医者」
少女は両腕を横に広げて伸びをした後、腰を捻った。

「島に住むの」
「叔母に会いに来ただけよ」
「ふうん」
「わたしからも質問させて。あの小屋の中で何をしていたの?」
「仕事」
セラに背を向けて四角い小屋に帰っていく。
このまま別れるのはセラには惜しかった。
せっかく叔母以外の島民とゆっくり話ができたというのに、数分もしないでさよならは寂しすぎる。

「見せてもらってもいいかしら」
「いいよ。退屈だと思うけど」
彼女は壁に打ち付けられた釘から下がる掃除道具を地面に下ろすと、通路を作った。

「狭いから壁で擦らないようにね」
灯はなく、車との隙間は薄暗い。
体を横にして通ることはないが、大手を振ってはとても歩けない。
胸の辺りに両手を丸めて壁と車との間を抜けた。
奥は意外と広い。
彼女が窓を開けば、隅まで見えるようになった。

「名前、聞いてなかったわ」
「サアラ・エイ」
「仕事って、彫刻?」
人が両手を広げて八人は横になれそうなガレージの中、ほぼ半面に布が敷かれていた。
上には細かな砂の粒と中央には石の塊が乗っていた。
回り込んで角度を変えて見れば、彫り掛けの彫像だということが分かる。
モデルは人ではなさそうだ。
その場に屈みこんで、セラは黙って眺めていた。

「興味あるの?」
「これ、鳥?」
「そう。これが波」
サアラは指先で像の下部をなぞった。
確かに、完成にはまだ遠い荒削りな曲線は波に見える。

「岩の上に、鳥がいて」
盛り上がった石はまだ明らかに鳥の姿を映し出してはいない。
だがおおよその形状は羽を堂々と伸ばした鳥の様子が浮き出ていた。

「ここから光の筋を入れる」
そこはまったく手を付けられていない、石のざらついた素肌のままだった。

「水、土、光?」
三元素を表したのだろうか。

「水と風と火」
「風は、何?」
「水は波、風は鳥、火は光」
「それは森にいる神さまから?」
「世界の三つの神さまだ」
「それが世界を創造したの?」
セラの問いに、サアラは答えとは違う言葉を口にした。

「ディグダには神がいるか」
すぐには答えを返せなかった。

「ディグダは、いろんな国が集まってできているの。わたしの故郷も、元は他の国だった。だから、いろんな考えの人がいて、いろんな言葉の人もいて、それぞれに違う神さまを持っていたりする。ディグダクトルには、ひとつの神さまはいない。それに、もう見えなくなっている人もたくさんいるかもしれない」
本当の、神さま。
神は人を救うもの。
神は人を導くもの。
神は人を見守るもの。

ディグダはひとつの国だが、枠型にはさまざまな国だったものが詰め込まれている。
無理矢理に詰め込まれたそれらは、摩擦を起こし、暴発する。
そしてまた、もっと小さな枠型に押し込められる。
繰り返して、繰り返して、繰り返して、繰り返して。

そうして搾り出されるように、血は流れ、命は流れる。
重みは、ディグダクトルでの命の重さよりよほど軽い。

流れていくものを目にして彼らは神を信じるだろうか。
戦うものにとって、神は盾となっていないだろうか。
希望であるべきであるそれは、さまざまな思いによって含意を変えていくように思える。
それらも確かに、人にとって神だ。
個が抱く神のかたち。

「わたしは、ただ見たいだけ。興味、好奇心、でも全部、わたしのため。知りたいの」
「なら見せてやろうか。その代わり、場所は他に言うな」
返事の代わりに、サアラの目を真っ直ぐに見て、瞬きもせず深く頷いた。

サアラがガレージの明かりを消してセラを表に導いた。

「そこで待ってて。父さんを起こしてくるから」
「一人暮らしじゃないんだ」
「どうして」
「わたしより年下なのに、しっかりしてるなあって思って」
サアラがはにかんだ。
出会って半時間、セラが初めて見た笑顔だ。






丘を下り、林を通る。
複雑な地形を抜けてきた。
サアラ・エイの丘にひとりで戻れと言われても確実に迷子になる。
絶壁の真下から上を見上げた。
まさかこれを這い上がれというわけではないだろう。
背筋が少し寒くなりながら、サアラを振り返った。
崖伝いに右に折れた。

「あのお医者さん、毎日散歩するの?」
「晴れてても雨でも毎日。同じ時間、同じ道」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「もし急患が来たら」
「家の戸に板が下がってる。医者の散歩道を描いたやつだ。それを見て、急ぎの奴は医者を追いかける」
「なるほどね。作ってあげたの?」
「なんで分かるんだ」
「彩色の絵の具が置いてあったから。小屋の棚に」
置いてあったパレットには乾いた絵の具が乗っていた。

「あれは、石を彩色するものではなさそうだったし」
木棚の下段、隅のほうに置かれていた絵の具と筆は寂しげだった。

「そう、石には色をつけない。そこを登ればすぐだ」
町とは反対側に丘を下ってから十五分程だ。
道は人の通った跡が薄く、道は林に飲まれそうだった。
不規則な段差の石段は自然のものだ。
奥深い洞窟に伸びている。

「他の生き物とか、いないの? 凶暴なものだとか、住んでいたり」
「だったら棒が必要だな。中で曲がってるけど穴は浅い」
言葉通り、洞窟と言うよりは岩穴だった。
サアラの背中を追うように縦に並び、抜けた岩穴から今度は崖を登る。
こちら側の傾斜は緩やかだ。
左の壁に手を掛ける程度で、背中を丸めて這い登る必要はない。
先の岩棚は目の前だ。



登って周りを見回せば、結構な高さがあるのに驚いた。
辺りが一望できるというほど開けてはいないが、背の高い木々の頭より下から見下ろせるのは少し気持ちが良かった。

「ここは陰になってる。だから残ったんだ」
「岩に、女の人が彫られてる」
目を見開いて、セラは薄くなりかけた彫刻を凝視した。
驚くほど細かい細工だ。
風化されなかったのは、まさに環境のお陰だ。
古く見えるが、いつ頃のものだろうか。

「これは、崩れたの?」
柔和な瞳と温かそうな体の形、包み込むような丸みを帯びた姿はただの女性像とは一線を隔していた。

「女神ね、これは」
「崩されたんだ」
「どうして」
息が詰まった。

「崩したのは島の人間だ。私たちは忘れたように装うことで、私たちの命を守ってきたから」
「だから、自分たちで壊したの?」
顔の片面から肩を抉られるように削られた女神像は一層痛々しさを増した。

「神王(しんおう)って知ってる」
「いいえ。聞いたことない」
「じゃあ、黒の王は」
「もちろん。封魔の歴史に出てくるわ」
「同じなんだよ。同じものなんだ」
「同じ、って」
「それで削られた彼女はそれの側にいた神さまのひとり」
愛しそうに、これ以上ないほど悲しげに、尊いものを見上げるように、サアラは彫刻を見つめていた。
その横顔を見ていると、彼女が本当に作り上げたいのは目の前にある女神像なのではないかと思えてくる。

「生き残るために、私たちは私たちの神さまを消した」
「そうしなければならなかったから、そうよね」
何世代も、昔の話だ。
しかし痛みは引き継がれる。

「私たちは知っている。島の外が私たちを異端と呼ぶことを。私たちは流民だから」
神を消し、息を潜めた。
神を守るために。












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