Ventus  84










忘れられない。
忘れたくても、あの姿、あの空気は忘れることができない。

心底の恐怖を感じた。
体中の力が一瞬にして奪われた。
思考能力の一切が消えた。

灰色の眼をし、灰色の髪を短く刈った女はクレイと同じような空気を吸ってきた。
同類の臭い。
いや、もっと劣悪な環境で生きてきた。
生きるためには腐った水を舐めた。
生ごみをあさるか盗むかしてしか食べられなかった。
人道は死に瀕した本能の前ではあっけなく散っていく。


だが髪の長い女は、あれは本当に人間だっただろうか。
褐色の真っ直ぐな髪は、彼女の性格をそのまま表しているかのようだった。
他の干渉を一切許さない、妥協も許さない。
逆らうものも、切り捨てる。
言葉は美しく、顔は作り物のように整い石膏のように固まっていた。
肌は白いはずなのに、血の通っていないかのように冷たい姿なのに、なぜ血臭を纏っているのだろう。
どんな道を通ってきたら、人間であることすら捨てたような、絶望の淵を見下ろすような眼になるのか。


人をたくさん殺してきたのだろう。
しかしそれだけではない。
彼女たちは、どこかクレイですら知らない地獄を見た眼をしていた。






死ぬ気で走ったのは、学園の中で以来だ。
あの時は、セラとあの男がいた。

誰だったか。
名前と顔を覚えるのは、クレイは得意ではない。

金色で短く立った髪は覚えている、犬のような目をしていたことも覚えている、だが名前がすぐに思い浮かばない。

「カイン・ゲルフだったか」
口は息をするのに忙しく、声は乾ききった喉を駆け上がらない。
あの時は自分たちのしでかしたことに大笑いして終わった。
今度はあのときほど生易しいものではない。

足が重くなってきた。
道を外れて走っていたから、体中が傷だらけだ。
もはやどの方角に向っているのかも分からなくなってきた。

おぞましい目をした、ディグダ兵の二人。
何かの工作員だろうか。
どちらにしろ血臭を漂わせた、ただならぬ雰囲気の二人を目にしてしまった。
直感的に、逃げなくては殺されると感じた。
通ってきた道を逃げても意味はない。
軍で鍛えられた二人にすぐ追いつかれてしまう。
とにかく遠くへ、見つからない場所へ。
森に深入りしないようにだけは気を付けながら走れるところまで走った。



「わっ」
突然目の前に飛び出してきた影を避けようとして、横に飛び退いた。
右には華奢で背の高い木があった。
そちらは避けようもなく肩から飛び込んでしまった。
幹が揺れ、枝がしなる。
まだ青い木の葉が舞い落ちた。
鳥が驚いて飛び去る羽の音が、頭上から聞こえてくる。

硬直した体を丸めて地面に伏せた。
人間、危機を感じると背中が丸々ものだ。
クレイは恐怖に引き攣った顔を上げられなかった。

あいつらだ。
あいつらだ、あいつらだ、あいつらだ、あいつらだ。

震えを噛み締めた歯の間から細く息をする。



草を踏みしめる音が迫ってくる。
影がクレイの背中に被さる。
逃げ場はない。
逃げる力もない。
背中に手が乗せられる。
振り払うこともできず、なされるがまま。
今度はクレイの頭に手がかかる。
掴まれるように頭が引き上げられた。

「酷い顔をしている」
血の気を失った唇が、木漏れ日の下に晒される。
乾いた口が酸素を求めて薄く開いていた。

「大丈夫。もう誰も追って来ないから」
頬に触れている指先は温かい。
腰を屈めて覗き込んでくる瞳も温度を感じる。

助けてくれ。

「セラ」
吐き気を伴って、クレイの意識は地面へと沈み込んでいった。






再び目を開いたとき、顔は左を向いていた。
体に力が入らなくて、指を一本動かすのも辛い。
霞がかかる視線の先には小柄な背中があった。

「外傷は深くないし、骨も内臓も異常なし」
背中が伸びて、振り返る。

「ひとつ言っておくけれど、私はセラって名前じゃない」
「だろうな」
クレイは重い息を吐いた。
場所も時間も分からないが、それすらどうでもよく感じる。

「ずいぶん疲れているみたいだし、しばらくここにいてもいいよ」
「すまない」
ようやっと首だけを動かせるようになり、周りを観察した。
森の中だ。
頭の先は見えないが、左右と足先を見回す限り、森の外は遠いように思える。

頭髪は白い綿布でまとまっていた。
振り向いた中性的な顔立ち、発せられる声は高かったが、妙に落ち着いていた。

「きっと状況が掴みきれてないから流れを説明しておくとね」
クレイは追われていた。
酷く怯えていて、声をかけたら気を失ってしまった。
体は小さな切り傷がついているし、そのまま放置しておくわけにもいかない。
拾われて、今ここに寝かされている。

「とにかく薬を塗ろう。袖を捲って」
そう言い上に向けた人差し指には、薬草を練ったような緑色の液体が付着している。
体は寝かせたまま、クレイは袖を捲り上げた。

「あいつらは」
「彼らの用は終わったよ。私に会いに来たんだ」
ただ人に会うだけであれだけ殺気を撒き散らすものなのか。
クレイは納得がいかない。

「少々乱暴な二人だったけどね。私の所まで来たときにはすでに夜獣(ビースト)に遭遇していた」
「切り倒して森の奥に?」
「ここの夜獣(ビースト)はまだ温厚なんだ。驚いて相手を傷つけることはあっても、殺しはしない。でも彼らは切り捨てた」
右袖も捲って、との指示通りクレイは腕を少し持ち上げて袖を上げた。

「その二人が一体」
「私の話を聞きに来たらしい。私はそうだな、言うなれば守人だから」
「森を守るのか」
「それもそう。だが、その最奥にあるものを守っている」
「一人で?」
「そう。まあ、たまに友人が来たりもする。変わったやつでね」
手足の治療が終わった。
痛みはあるが、耐えられないほどではない。
流血も止まっている。

「目を閉じて。目の縁も切れている。危ないね」
鳥の声がする。
木の擦れる音。
それから、雨の音。

「雨?」
目を開けそうになるが、目蓋の上から手を乗せられ妨げられた。

「降りだしたようだけど、ここは上が屋根みたいになっているから」
「こんな場所に来る友人がいるんだな」
「ああ、本当に変わっている。子供が好きで、子供も彼の話が好きなんだ」
「もしかして、フィアタ?」
「すごいね。どうして分かったのかな」
淡々とした声が、急に跳ね上がった。
よほど驚いたのだろう。

「私がこの島で知っている名前は少ないし、ちょうど子供から聞いたんだ。フィアタは何でも知っているって」
「どうしてだろう。きみは不思議な匂いがするね。懐かしいような」
「草の間を抜けてきたからかもな」

クレイは起き上がった。
まだ立つには体がだるいので、木の幹に背中を預けた。
雨は小雨を保ったまま、まだ止みそうにない。

「秘められた森の最奥、か。獣(ビースト)なんてずっと遠いものだと思っていたのに」
何もかも、現実なのに嘘のようで。

「今まで自分の過去が不幸で、誰にも理解できるはずがないと思っていた。誰も、わかるはずがないと」
「世界で一番不幸だと?」
頷く代わりに、目を閉じた。

「でもさっき気付いた。私は、恵まれていたんだ」
気付くのが遅すぎる。

「助けられたり、友達がいたり、一人じゃない。それに血塗られた過去を背負っている気でいたけど、きっと本当の地獄をまだ見ていない」
「そんなのは見ない方がいい」
冷たいクレイの手を、温かい手が包み込んだ。

「特別にきみにだけ教えよう。懐かしい匂いを運んできてくれたお礼に」




幹を背に腰を下ろすと、視界はより大きくなった。
森の中に、そこだけ丸く切り抜いたような空間が広がっている。
学園の木々より密度は濃く緑の匂いも濃いが、クレイやセラ、マレーラとリシアンサス四人が集まる雑木林の空間に少し似ていた。
耳を澄ませば、葉が雨を弾く音が響く。
先ほどまで逆立っていた棘のような感情や緊張感が治まっていく。

「私はね、神門(ゲート)を守っているんだ」
「何だ、それは」
「彼らが見に来た物、島ではそこに神がいるって言われているからね」
「こんな獣(ビースト)が巣食っている森の中でか」
「それが私の役目だからね。生きる意味でもある」
「守ることが」
「そう。勇者ガルファードとやらは世界を救ったんだろう? サロアは神となりルクシェリースにいると聞いた」
「眠りのサロア神」
「けれど私はここを守ることだけが与えられた役目」
「ディグダの中で、私など小さな粒だ。何かできるはずもない」
「ディグダのためでなくていいじゃないか。問題は、きみがどうしたいかだ。何を守りたいかだ。自分のプライドでも、実力でも何でもいい」
「私が、どうしたいか」
「人は、生涯かかって生きる意味を探しているんだ。焦ることもない」
軍人になる。
クレイは決めた。
ただ流されているだけだ。
すべてにおいて、覚悟がない。
それはそのままアームブレードの腕に現れる。

「それでも迷うなら、自分の手で握れるもの。手の届く範囲、側にあるもの。そこから始めてみればいい」
目の前のその人は立ち上がった。
すらりと背が高く、簡素な長い衣服が地面に付くほど長く垂れる。

「さあ、手を。もう、動けるだろう。外まで案内しよう」












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