Ventus  83










「私は一体何がしたいんだ」
暗い暗いと嘆きながら過去を引き摺って、さしたる意志もないまま流されている。
そのまま枯れたように生きていくのが自分自身の人生だと思っていた。
それではだめだと気付かせてくれたのは他ならぬセラだった。

セラに導かれて扉は開き、明るい世界を見た。
だがその先は、まだ何も見出せてはいない。



シタの町から用件を済ませて戻ってから、クレイには空虚に雲を眺める毎日が続く。
セラに何度か誘われたが、気力が湧かなかった。

草の上で身を沈め、空を仰いだ体は伸びる蔦や木の根に同化して朽ちていく。
枯れた体にはそれも悪くない。
頭の中でごちゃごちゃと考え込むのは性に合わない。




すっきりしない。
ふと今は遠い彼女の先生、クレア・バートンの言葉を思い出す。
複雑だと思うから訳が分からなくなる。
すべては単純な物事が絡み合っただけだ。

「解きほぐせ、か」
両手を体の横に伸ばして、丘の斜面に寝転がっていた。
上半身をバネのように引き上げる。
勢いに乗ったまま、足だけで立ち上がった。
踏ん張りが利かず、左足が一歩前に飛び出した。

「鈍ってるな」
クレイは腕を回した。
重く感じるのは気のせいではない。

「昼寝は終わり?」
振り返れば庭先で花の手入れをしていた、セラの叔母アリアナが顔を上げていた。

「出掛けてきます」
セラはシタの方へ行ったようだと、アリアナが教えてくれた。
散歩の帰りにでも寄って帰るようにしよう。
運がよければセラに出会えるだろう。

森に近づいてはならない。
それがこの島の掟ならば守るだけだ。
規則だらけの学園生活に順応していた。
たったひとつの決め事など、守るのに苦はない。

しかし人間というものは得てして禁じられたものに手を伸ばしたがる生き物だ。
ひとつだけのルール。
ひとつだけ、だからこそいけないと分かっていても知りたがる。

「獣(ビースト)が消えた場所、か。いや、そこから飛び出してきた」
森は踏み入れてはならない場所。

土道を鳴らしながら目的なく歩いていたクレイの足が止まった。
両側を彩る小花に目を取られたのではない。
広大な畑と丘の続く道は次の町までまだ長く伸びている。
建物は雑木林の向こうだ。

左手に細い獣道が分かれている。
三本並んだ広葉樹の脇に切り込むように道が分かれていたので、歩調を落として歩かなければ見過ごしてしまいそうだ。

広葉樹に身を寄せて道に通ってきた背を向けて、獣道の行き先を眺める。
迫る山に続いているのか。
それともそれを迂回する道なのか。

左の耳が車のエンジン音を捉えた。
ディグダクトルを我が物顔に走り回っている車に比べ、幾分遠慮がちな音だ。
耳には障らない。
クレイの背中を通り過ぎる際、歩行速度と同じくらいにまで速度を落として通過した。
右の耳が、果物を潰したような音を拾った。
右肩越しに振り返ると、轍がくっきり残っている。
昨夜一瞬振った雨が窪みに残っていたようだ。
アリアナの家の周りは日当たりも水捌けもいいようで、服には染みもつかなかったので忘れていた。

泥が刻んだ車輪の跡から左手をかけている木の根まで地面を舐めるように見下ろしてた。
何気なく眺めていた地面に、似つかわしくない跡が押されているのに気付いた。
草の中に埋もれるようにあったので、目立たない。
島の人間が目にしても、ただの人間の足跡に見えるだけだ。
それはクレイの目を通せば別の意味を含む。

「ディグダの足跡」
見覚えがある。
どこで見た。

「思い出せない」
額を木の幹に擦りつけた。
荒い木肌が皮膚に当たる。

「どこでだった」
厚い靴底、しかし軽くて足に吸い付くように合う靴は、支給されたもの。
クレイたちの靴に似ている。

「そうか、クレア・バートンか」
彼女の後姿を思い出した。
円環訓練施設までの道のり、こっちから行く方が早いと舗装の道を外れた。
定期放水の終わった薄い芝の上を歩いたときだ。
泥水を踏んだ彼女の靴跡に酷似している。

「ディグダ兵、だと。何でこんな場所に」
絶句するしかなかった。
靴の爪先が向いているのは、獣道の先だ。

「神を信じていれば、これはそいつのお導きってことになるのかもな」
自分の中に神を持っていなくとも、クレイの進む道はすでに決まっていた。
靴跡は新しい。






周囲の気配に神経を集中した。
聴覚、視覚、触覚で風の揺れを感じ、嗅覚は獣の臭いを読み取ろうとセンサーを最大にしている。

木の枝を折るような音、草を踏み潰す音、草を鎌で払う音が入り混じっていた。
一人ではない、複数いる。
道の先からではなく、クレイのすぐ側で聞こえる。
獣(ビースト)ではなさそうだ。
あれはひどく俊敏だった。

クレイは構えた。
アームブレードのないただの学生ほどひ弱なものはない。

草間から人の頭が覗く。
目と目が枝の隙間で重なる。
背筋に氷を落としたような悪寒が滑り落ちた。
人の目をしていない。
直視する先にあるのはクレイの黒の瞳ではなく、もっと先を貫くような重さと強さを持つ。
鈍色の眼から目を反らせることができない。
捕縛され身動きができない。

「近づかねぇ方がいい」
動かない眼に捕らえられたまま、それとクレイを遮っていた木が崩れた。
人がいきなり足を払われたように、倒れ落ちた。
視界が明らかになっても、クレイはその場で指先一つ動かせなかった。
その眼が男のものか、女のものかすら分からず、全体を把握できないまま硬直していた。

「森には近づくな、と。獣(ビースト)がいるからか」
「何だァお前」
鈍色の眼の前を白刃が過ぎる。
刀身は長く幅広の刃だがアームブレードではない。

「島のガキじゃねェな」
薄笑いを浮かべた顔、声は女のものだった。
被さるような長身と腹に響く低く重い声は性別などどちらでもよくなる。
感じ取れるのは一つだけ。
目の前の女は屍を踏み歩いてきた。
数体などという単位ではない。

「今回のお仕事でのお約束、お忘れなきよう」
言葉は丁寧だが、だからこそ余計に冷たく恐ろしい。
灰色で短く刈った髪の大女の後ろからもう一人現れた。
細く白い顔は整いすぎている。
真っ直ぐな長い髪も、彼女の細腕も森の中では不似合いだ。
深窓の令嬢といった風貌だが切れ長の眼は、鈍色の眼に負けず冷ややかだった。
研ぎ澄まされた刀で皮膚を一枚一枚そぎ落とされている錯覚を起こす。

「分かってるよ、煩せぇな」
「速やかにその道を開けて。私たちのことは、お忘れなさい」
服装は島のものだ。
だが島の靴で鬱蒼とした森を歩き回れない。
ディグダ兵に支給された靴だからこそ可能だ。
加えて隠し切れない血と腐臭が漂ってくる。

「ディグダ兵がこんなところで何をしている」
「詮索しろたァ言ってねぇんだよ」
後方の女が一歩前に出て、殴るように腕を振り上げ一瞬にしてクレイの顎を掴んだ。
余りに速過ぎて伸びる腕を捕らえられなかった。
すでに顎に食いついた指を引き剥がそうと爪を立てるがびくともしない。

「ディグダの言葉を話される方。言っている意味はお分かりでしょうか」
細められた目が鈍く光る。
顎が、潰される。

学園に来て以来、初めて心底から恐怖を感じた。
あれはただの人殺しの眼じゃない。
クレイのいた下卑た裏町の眼でもない。
彼女ですら知らない、もっと暗く腐った場所を歩いてきた眼だ。

「お前はまるで獣(ビースト)のよう」
可愛らしいこと、と彼女が笑う。
クレイの腿は痙攣している。

「私は言うことが聞けない子供は嫌いです」
下顎に女の指が食い込む。
片腕だけで小柄とはいえ人一人を持ち上げた。
細腕なはずなのに、腕力も握力も並の男を凌ぐ。

「おい、面倒は極力避けるってのがお約束じゃなかったのかよ」
「嫌いなお人形は壊してしまうだけです。お約束は『極力』でした。嫌いなものは見たくありません。それは『絶対』です」
「言い出したら聞かねぇんだからよ」
髪まで灰色をした女が手にしていた鉈を地面に付き下ろした。
気の済むまでやるがいい、と傍観する姿勢だ。

「選ばせて差し上げましょう。前足が良いでしょうか、それとも後ろ足の方が楽しめるでしょうか」
虫の足を切り落として、動けずもがく姿を楽しむ。
歪んだ快楽に染まった眼をしている。
狂っている。
クレイが殺してきた数人の男たちが、クレイが引き摺ってきた過去の原因たるあの薄汚い男たちが、まともにすら思える。
彼らは鉈を振り回し、森に分け入って何をしたのか返り血を見れば分かる。
立ち上る吐き気を催す臭いで知れる。
クレイは放り出された。
解放した女の流れる真っ直ぐな髪は乱れない。
彼女の見下ろす眼は死を宣告している。

「獣(ビースト)をやったのか」
ディグダから遥々着て。
そんなことをする意味がどこにある。
歯が削った口の中から血が口端に流れ出た。
立ち上がれず、地面に尻をつけたまま這うことすらできない。

「あれは付属品です。もうお仕事は終わりました。後片付けに入ります」
「さっさと汚れを落とそうや。流石に臭えまま船に乗ったらやっかいだぜ」
薄い綿の服を持ち上げて、汗と血と埃の臭いに顔をしかめた。

「すぐに終わります」
太腿に括り付けた鞘から剣を抜き放つと、そのまま構えることなく大きく振りかぶり、クレイの目の前に振り下ろした。

顔色も変えず瞬きもしない。
逃げる隙など与えない。
彼女の狙いは一つ。
微動だにできないクレイの右足を膝上から切り落とすこと。
彼女はすでにクレイの声にならない悲鳴を聞いて笑っていた。
離れた右足を抱えようと丸まったクレイの背中をすでに見ていた。
今までと変わらない姿だ。
何人の足を切り落とし、腕を切り離しても、皆が同じ反応をする。
体中の血液を水溜りのように撒き散らして、やがて動かなくなる。

「な」
面を被っているような彼女の顔が動いた。
細い眉が跳ね上がる。
それでも瞬きをしなかったのは、目の前の状況の方が速く流れたからだ。

磁器の肌に浮かび上がる鮮血は、返り血ではない。
玉に浮き上がり、涙のように頬に流れる。

「おい」
鉈を地面から引き抜き一気に戦闘態勢に入った灰色の女が、逃げるクレイの前に立ちふさがる。

「面白れえ」
クレイの四肢は分かたれていない。
逃げられるが、それは相手に隙を作らせてのことだ。
正面からはすなわち負けを意味する。
相手は鉈、クレイは木の枝一本。

「痛いわ」
「目は潰されてねえんだろ。だったらさっさと消してしまおう」
クレイが一歩踏み込んだ。
振れる草の音で、灰色の女が視線をクレイに戻す。

「逃がさねぇぞ」
薄い刃が水平にクレイの首へと飛び込んでくる。
クレイはしゃがみ込んで回避した。
代わりに削られた髪の毛は仕方がない。
手にしていた唯一の武器である木の枝を、女の柄を握る指に突き出した。
指の皮が切れる。
鉈は振り上げられる。
クレイは躊躇なく、二人に背を向け全力疾走した。
振り返れば速度が落ちる。
次は必ず殺される。






「仕事は終わりました。帰ります」
「あれは放っておいていいのかよ」
鉈を持ち替え、指を口に押し当てた。
血の味がする。

「珍しく使える消耗品でした」
人形のような女は、目尻に当てた指を剥がした。
指は赤い染みがついた。

「軍が使うも使わないも関係のないことです」
彼女に血を舐め取る趣味はない。
取り出した布で指先を拭った。

「それまで消えていなければの話ですが」












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