Ventus
81
それは突然現れた。
驚いた拍子に跳び下がったら、踵を木の根に引っ掛けて倒れこんでしまった。
四足歩行のあれは、哺乳類か。
湧いて出たように姿を現した動物はクレイの気配には気付いたが、地面に倒れこんだのが幸いした。
背の高い草がクレイを視界から遠ざけた。
クレイは息を詰めて様子を窺う。
しかし、一体どこから現れた。
クレイ・カーティナーは、人影のない森の縁を歩いていた。
セラは日向ぼっこをすると言って、垣根のない家の前の芝生に埋もれた。
少し歩こうかと誘いに顔を覗き込んだら、無防備で幸せそうな顔で眠り込んでいたので、起こすのを躊躇ってしまった。
セラの叔母に一言残し、一人で歩くことにした。
遠くに行くつもりはない。
あくまで軽い散歩だ。
叔母、アリアナに借りた麻の服は涼しい。
気に入ったのなら明日にでも街に行って買ってくるといいと勧めてくれた。
好奇心旺盛だからセラは買い物に出たがるだろう。
そういえば、変わった植物があれば注意しておこう。
セラは課題提出と引き換えに休暇を取ったのだ。
クレイは彼女に連れてきてもらった立場だ。
少しは貢献しなければならない。
そうこうするうちに、家からはずいぶん離れてしまった。
ふと顔を上げると目の前に森が立ちふさがる。
鬱蒼とし、深く広がる森を目の前に何とも表現しがたい気分を噛み締めた。
圧迫感か。
触れてはならない、踏み込んではならない空気がクレイの侵入を拒んでいる。
不可思議な現象を正面から信じる気にはなれないが、あまり深入りしないほうがいいと勘は言う。
危険を冒してまで踏み入れる理由も見出せないので、森の際を歩くことにした。
ディグダクトルの学園内は、敷地それ自体が植物園を思わせるほど木々が茂る。
種類も驚くほど豊富だ。
だがここにはそれとは違う木が重なるようにして立ち並ぶ。
細い幹、絡む蔦を眺めながら微かに湿りを帯びた地面を踏みしめて歩いた。
細い枝が割れる音がして、クレイは立ち止まった。
眼球を左右に振り、動くだろう影を探す。
耳をそばだて、音の位置を探った。
草を薙ぐ音。
大地を削る足音。
しかし、これは人とは違う。
もっと速く、不規則に。
それはクレイの目の前に飛び出してきた。
灰色の、獣だ。
跳び下がったクレイはそのまま背中から落ちる。
突き出した鼻、飛び上がる四本の足。
再び足が地面を蹴り上げて足音が遠ざかるのを、クレイは体を横に倒したまま聞いていた。
上体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
大丈夫だ。
腰はしっかりしている。
あれは、どこに行く?
去った方角を見据え、走り出した。
走り去った獣を追う。
何のために。
なぜ追わなければならないのか。
理由は分からない。
答えが見つからないままに脚は走り出していた。
靴だけはディグダクトルのものを履いて出てきた。
正解だ。
これが一番速く走れる。
いた。
クレイは木の狭間を駆け抜けた。
小枝が服に引っかかるのを振り切って、掠る木の葉に顔を反らした。
まるで木の上を渡る猿のように素早かった。
木の葉に遮られながらも認識できた影は、二匹。
「違う。人間?」
影の一つは人だ。
組み合っているが、片方は人間だ。
小柄な体は獣に取り込まれるように押さえ込まれている。
圧し掛かっていた獣の体が微かに浮いた。
そこで視界が暗転する。
目の前の大木がクレイの行き先を阻んだ。
左に回りこむが、今度は群れる低木が邪魔をする。
助走をつけ、脚を高く上げ飛び越えた。
ようやく視界が開けた。
だがそこに獣はいない。
蹲るように顔を伏せた背中が見えた。
丸くなった背に張り付くようにいた子供が、青白い顔をこちらに向ける。
「ビースト、が」
緊張と怯えと狼狽で硬直した顔、微動する眼球が痛ましかった。
ビースト?
まさか。
実際に見たことなどなかった。
そうそう現れるはずもないと思っていた。
特定地域に湧く、不可解な生物。
そしてディグダ軍によって駆除される害獣。
「獣(ビースト)、あれが」
こんな場所に出没するなど想像していなかった。
いったいどこから。
逃げた方角は分かる。
少女の目が獣(ビースト)の行き先を語っていた。
追わなければ。
屈みこんでいた少女が腕を振り上げた。
横から何かがこちらに向って飛ぶ。
緩く弧を描いた頂点で、投げられた物が分かった。
片手で受け取った短剣の剣先は濡れていた。
獣(ビースト)の血か。
少女が張り付いていた女がやったのか。
小柄な女が、短剣ひとつで獣(ビースト)に対抗したと。
信じられなかった。
獣(ビースト)が現実にいたこと。
話にしか聞いたことのない生物が目の前に現れたこと。
ディグダ兵ですら手に余るそれに一人の女が抵抗したこと。
何もかもが。
とにかく、このままあれを放っては置けない。
今できることは、ただ呆然と立ち尽くすことではない。
クレイは駆け出した。
森から離れれば、集落もある。
ここから距離があるとはいえ、獣(ビースト)の俊足だ。
アリアナの家までそう遠くない。
使い慣れない短剣でどこまで凶暴と言われる獣(ビースト)に立ち向かえるか分からない。
無謀だろう。
ただ切り伏せないまでも、あれがどこに行き着くのかだけは見届けなければならない。
隆起した大地と、崖が続く。
この先に町があるのか、果てしなく平野が続くのか地理がまったくわからない。
「行き止まりか」
立ち止まると同時に額から汗が噴出し、目に流れた。
痛む目を瞬かせながら、切り立つ絶壁を見下ろした。
砂が落ち、崩れそうな縁から一歩下がる。
急斜面はとても人間は降りられない。
だが、あれはとても頑丈だ。
あの脚ならばあるいは崖を下ることもできるのかもしれない。
視界の端から端まで見回した。
崖の下には堂々たる大河が横たわる。
流れは急だ。
入れば中ほどで流れに巻かれるはずだ。
水面に浮かぶそれらしい形は見当たらない。
河は右手の森に突き刺さるように流れ込んでいた。
森、か。
崖の真下から、川を越えて広がっている。
逃げ込めるとしたら森の中しか考えられなかった。
どちらにしろ、クレイが追えるのはここまでだ。
手に力を込める。
右手に短剣を握りこんでいたのを思い出した。
「返さないと」
来た道を引き返し、二人と遭遇した場所に帰りついた。
しかし、二人の姿はない。
戻る場所を誤ったかと思ったが、周囲の木の形、地形は覚えている。
クレイは草間に転がる半透明のボトルを見つけた。
先ほどのどちらかが落としていったのだ。
手を伸ばして取ろうとし、指先を止めた。
葉へ不自然に付着した絵の具。
指で撫でると乾きかけた粘着質が指先に絡んだ。
「血、だ」
さっきの蹲っていた女か。
アリアナが手の中でボトルを回す。
クレイが拾ってきたボトルの溝に目を寄せた。
「あ、これって」
アリアナの上げた声に、隣に座っていたセラが手許を覗き込んだ。
クレイも顔を上げて正面にいるアリアナの手に視線を向けた。
「シタの宿屋のボトルだわ」
「書いてある?」
クレイが持ち帰ったボトルを最初に受け取ったのは彼女を迎えに出たセラだ。
文字が書いてあれば気付いたはずだが、小さくて見落としたのかもしれない。
「これよ。ここ」
溝の縁に爪を当てた。
クレイの目の前にも差し出してみる。
「家紋、か?」
「そんな感じね。この周りの蔦があるでしょう?」
二本の線が緩く捩れながら環になっている。
よく見れば、葉が線の両側に付いていた。
「これがシタの町の紋なの」
今度は小さな輪の中に指をずらす。
「この中に三本縦に線が入っている。宿屋を表す紋よ」
「へえ。変わってるな」
遠目から見れば、親指程度の丸い模様だ。
「返しに行ったほうがいいのかしら」
「そうね。特に破損はしていないようだし」
「だったら明日返しに行くわ」
アリアナはセラにボトルを手渡すと丸めていた地図を棚から引き抜いた。
指で突付かれた現在地と町の方角、大まかな地形を頭に流しいれた。
「大丈夫よ。道を辿れば町に着くわ。分かれ道には案内板が立ってる。途絶された島だからっていって、不親切なわけじゃないのよ」
言われてみればそうだ。
確かに穏やかな島だが、文明が隔絶されているわけではない。
不思議な島だ。
踏み入れたときから感じた。
これは違和感なんだろうか。
しかし、気味が悪いわけではない。
アリアナの言葉と、船から島へ下りたとき感じた印象を反芻しながら、その夜クレイは眠りに付いた。
シタが近づくと急に町らしくなった。
駅には紺の制服に包まれた駅員が列車を見送っていた。
港よりむしろこちらの方が賑やかだ。
島には独特の時間が流れている。
人々が競って歩いていたディグダクトルより歩調が緩いのは気のせいではない。
目が合えば微笑む。
クレイはどのような顔を返せばいいのか戸惑い、視線を外してしまう。
アリアナが用意してくれた靴は履き心地がいい。
ディグダクトルの靴は足の形状、舗装された地面を計算された靴だ。
だがこれは大地を歩くための靴。
指が風を感じる。
足先が砂を被る。
「いない?」
ボトルを布の袋から取り出して宿屋の妻に手渡した。
「昨日にね。このボトル、落としてきてしまったって謝っていたわ」
間違いない。
髪を後ろで結んでいた少女だ。
「一人、怪我をしていませんでしたか」
「ええそう。知り合いなの? 可愛らしい子だったわ」
やはり。
獣(ビースト)にやられた傷だ。
「お医者様に診せると言っていたけれど、もしかしたら船で渡ってしまったかもしれないわね」
行き先は言わなかったと宿屋の女性は言っていた。
「このあたりはよく獣(ビースト)が?」
遭遇した話を切り出した。
女性は頷くように目を細めた。
「そうね。でも島の人間は領分を弁えているわ」
それは共存の手段でもあり、誇りでもある。
「人は人の大地があり、それでないものはそれでないものの大地がある」
女性は手にしていたボトルの紋に指を沿わせた。
「互いに踏み入れてはならない領域がある。それはどこにだって存在するものよ」
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