Ventus  76










屋上の風に手を開いた。
指の間を空気が抜ける。

クレイの漆黒の髪が風に踊る。
闇の色をした大きな瞳は指の向こうに広がる世界を見通す。

伸ばして露になった手首を突然横から掴み取られ、乱暴に鉄柵から引き剥がされた。
まるで荒々しいダンスに巻き込まれたように、回りながらクレイは屋上に軽やかに着地した。

「大胆だな」
手を握られたときには神経が尖り構えていたクレイが一瞬で警戒を解く。
今は顔を崩して笑っている。
その瞳には、破顔したセラが映る。
風に煽られ、彼女の制服も髪も舞い上がる。

「危ないから」
普段隙のないクレイから一本取れたのがおかしかった。
素人の自分が、クレイの油断を突けるとは思わなかった。

「柵の上に上ってはいけません」
コンクリートで固めた無機質な学舎の屋上で、クレイやセラの肩ほどにまである柵に足を掛けていた。
張り付いて柵の上から手を伸ばすのは喜ばしくない。

「って、書いてあるでしょう?」
セラが指差す先には確かに、薄汚れて白が灰色になったプレートが柵の下に貼ってあった。

「でも」
注意していた張本人が軽く跳躍し柵に指を掛けた。
足先を鉄棒の上に引っ掛けて安定させ、恐る恐る背中を伸ばす。
クレイと同じように、腕を目の前に伸ばした。
屋上から一本突き出た手は、風を独占する。

「書かれてあると、破りたくなるものよね」
「セラ、危ない」
珍しく焦っているクレイをもう少し見たくて、しばらくから半身を乗り出していた。
彼女はセラが落ちないよう、彼女の腰を抱え込むように支えている。
腕が緊張で硬直しているクレイが可愛そうになり、セラが屋上の地面に戻った。




「結局、何事もなくこうして日々が過ぎていく」
それもまた、幸せの一つのかたち。
クレイは両脚を伸ばして両腕は地面を支えて、顔を晴天の天頂を仰いだ。

「本当にね、次の日は心臓が一日中鳴りっぱなしだった」
真夜中の試合。
警報機が鳴り、処分は覚悟した。
退学は免れない。

「一生分の脈を打ち切って、夜には心臓が破裂するんじゃないかって本気で心配したわ」
「生きててよかったな」
「たぶん、あと五時間。一日が長かったら確実に今ここにはいないわね」
「怖いことを」
そうは言うが、クレイもその夜は眠れるどころの話ではなかった。
学園を去ることは、セラとの別れを意味する。


消灯後外出。
セキュリティシステムへの侵入。
施設の無断利用。
厳重保管されている武器の持ち出し。
数え始めたらきりがない。
指折り数えて指が足りなくなるにつれ、憂鬱が募っていく。

翌日午前が地獄だった。

警報機が鳴った時点で、クレイとセラ、カインと友人二人の素性は割れたはずだ。
処分を決定するのに時間は掛からない。
想定される、細分化された事例にそれぞれポイントが振られ、ポイントを加算して最終処分の重さが決まる。
人情だの個人の思惑など絡まず、機械的に裁かれる。
一日数え切れないほどの処分が下されている。
それだけ大量の学生がいるということだ。
クレイらはその内の一粒でしかない。


午後になっても処分はクレイやセラの名前は呼ばれない。
夕方近くになって、ようやくカインの友人からメールが入った。
どうやら彼の祖父がうまく処理してくれたようだと。

疑問を感じずにはいられない部分もある。
警報機は確かに鳴った。
突発的なアクシデントに、よく即座に彼の祖父は対応できたものだ。
不思議な点は多々あれど、クレイは学園のシステムやらそれを突破するためのプログラムなどには疎い。
考えるより今ある現実を受け入れるほうが楽だ。




「アームブレード、握ってる?」
ふいに予期していないことを言われ、戸惑った。
そういえば、あの事件の後は授業以外に手にしていない。
反射的に力がこもった指先が、生温いコンクリートに薄く散った砂を握りこむ。
腕は覚えている。
アームブレードを装着した重み。
指に馴染むブレード内側に固定されたグローブの感触。

「訓練施設には足を運んでないな」
「出るんでしょう? 清女の祭り。今年こそ」
「そうだな」
まだ考えもしていなかった。
ずいぶん先のことに思えていたからだ。
あるいは、清女の祭りを目にしたのがつい先日のように思えたからかもしれない。
どちらにしろ現実からは程遠いもののように感じた。

「じゃあ、練習しなきゃ。クレア先生も待ってるわよ」
「待たないさ、彼女は。そういう柄じゃない」
必要があれば連絡を寄越すし、自分に用がなければ投げっぱなしだ。

「そうかしら」
「そうなんだ」


セラが風の中で軽やかに回りながら両手を広げた。
空は青い。
雲は薄い。
日差しは柔らかで、風は温かだ。

「世界が愛で再生するなら。世界が壊れるときも愛のために滅びるのよ」
微笑みながら、しかし目と声は至って真剣に空を向いていた。

「そうなのか」
「そうなのよ」

琥珀の瞳が目尻に寄って、クレイを見据えた。
彼女の同じ琥珀色をした髪が風に乗って柔らかく浮かび上がり白い頬を包み込む。

「何だ、突然」
「思いつきはいつだって突然なもの」
「確かに、正論だ」
クレイは可笑しくなった。

「愛の力は偉大だ、ってよく言うでしょう?」
「言ったかな」
「言ってるのよ」




二人の会話を断ち切るように、端末がメールを受け取った着信音が響いた。

「マレーラだわ」
端末を取り出して開いたメールの内容は、セラへの呼び出しだった。
次の時間、セラはマレーラと同じ授業だ。

「授業開始五分前」
一行で用件は済んだ。
もうすぐ始まる早く来い。
そういうことだ。

「持つべきは思いやり溢れる友だちよね」
軽口でなく、セラが感動に浸っていた。

「急げば間に合う。七階だったよな」
「クレイは五階よね」
滑り降りるように階段を駆け下りていく。
最後の三段は飛ばして美しく着地する。

「まただ」
二度目の着信音に先を走るクレイが振り返った。

「一分ごとに知らせるつもりか」
「もう先生が来たのかも」
だとすれば、後ろの扉から忍び込むしかない。
成功する確率は極めて低いが。
階段を降りる速度は鈍ったが、走りながら器用にセラは端末を覗く。
クレイはセラが段を踏み外さないか心配でならない。

「違う。マレーラじゃない。お母さん」
「家からか」
踊り場でセラの足が止まり、クレイもセラの手の中にある端末を見下ろした。

「今度の休暇、叔母さんの家に行けって。いきなり、どういうこと?」
受け取ったセラが、その意味を掴みかねて首を捻る。

「じゃ、なくって。三分前!」
最後は悲鳴に近かった。






「離島住まいなのよ」
棒に刺さったアイスを片手に、セラが木に背を預けている。
両脚は無造作に置かれた人形のように前へ真っ直ぐ投げ出し、芝生の上に座り込んでいた。
夕方、夕食までのこの時間は憩いの時間だ。
日は高いから、この季節しか味わえない。

開いた両脚の間にはセラの携帯端末が置かれていた。
画面はメールを開いた状態にしてある。

「一人暮らしで」
一度、セラの母へ詳細を問いかけてみたが、未だ彼女からの返信はない。
機械が苦手なのだという。

娘と離れることが決まってから、セラは母親にメールの送り方を教え込んだ。
丁寧に手順を記したメモまで渡してきた。
セラからメールを送って、返信が一日に一往復すればいいところだ。
返事が今まだこないならば、明日のメールを期待するしかない。

「お母さんの妹なの。旦那様を結婚間もなく亡くしてしまって」
ある日何を思ったか、ディグダ帝国が乗っかるグラストリアーナ大陸から遥か離れた島に移住してしまった。

「失意に駆られて世捨て人になったのか」
「全然。元気に健康的に島で一人暮らしを満喫しているのよ」
吹っ切れたと言ったら今はなき旦那様に失礼だが、夫の死を彼女はうまく消化した。
セラたちが心配で押しかけるまでもなく、叔母の方からセラの家族を家に呼びたがる。

「遠いから、わたしはほとんど行ったことがなくて」
休暇と言ってもまだずいぶん先の話だ。
どうすべきか、今思い悩むこともない。

「今年からだったよね。実地訓練が始まるのって」
「ああ。そうだ」
セラに言われて今思い出した。
立てていた膝を崩した。

「クレア・バートンが授業で言っていた気がする」
「実戦よ。本物の戦場に行くんだから」
想像しただけでも恐ろしくて泣きたくなる。
逆に言えば、大量の学生を送り込めるだけ帝国領内に戦闘地域が点在してるということだ。
本当に恐ろしいのはその事実のほうだ。

「実地といえど、私たちは後方のさらに後ろだ。こういう場所だという経験のために行くだけだ」
アームブレードを振る機会など与えるはずがない。
学生として授業で訓練を積んできたとはいえ、若い彼らは素人だ。
軍人や兵としての訓練とはまるで違う。
邪魔にこそなれ、戦力として期待できるはずがない。

血を見れば怯む。
肉を切れば感触に萎縮する。
汚物や肉片や腐敗臭に嘔吐する。
中途半端にアームブレードが嵌って悶絶する敵を目の前に、精神は崩壊する。

戦場を経験したものですら体感するのだから、怪我から遠い守られた場所で生活してきた学生には衝撃が大きすぎる。
だからこそ、後方の安全な場所に群れながらの実地訓練だ。

「まあ、それもまだ先の話だ。たぶんな」












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