Ventus  66










学舎から離れた第十五図書分室。
そこからわずか八分で講義室に駆け込んだ。
運動に力をいれてなかった体が、これほど重く感じたことはない。
息が切れて、喉が痛い。
動悸を鎮めるために、拳を胸に押し当てた。


「間に合った」
階段状に配置された大講義室。
最下層に巨大なスクリーンと、空っぽの教壇が鎮座している。
室内は大勢の囁き声が廊下に漏れ出している。
下段、中段、上段で口を開けている扉から溢れていた。

部屋の椅子のほとんどが埋まっていた。
これだけの受講生がいながら、欠席者は無いに等しい。
規律が厳しいからだ。
怠惰に染まる者は、容赦なく切り捨てられる。
成績が低迷している者も、同じく学園を去らねばならない。
入学試験で振り分けられ、更に学園内でも選り分けられていく。

その狭き門を潜りさえすれば、より道が開ける。
また、学園生活も他では得られない濃縮された授業を受けられるとあれば、ディグダ各地から飛びついてくる。

学園は比較的どの地区にも友好的だ。
ディグダの帝都、ディグダクトルの中にありながら、軍や戦の色はまだ薄い。

最上段の入り口に立ち、着席している生徒たちを眺めた。
探しているのはひとりだけ。
目立つ漆黒の髪だ。
すぐに見つかった。

クレイ・カーティナー。
彼女は中段の戸口の近くに座っている。
相変わらず背筋はいい。
だが、何を見るでもなく廊下に顔を向けていた。

クレイの近くに座ろうと、踏み出したところで無情にも鐘が鳴り響く。
時間を計ったかのように、合わせて教師が教壇と同じフロアの扉を潜って入ってきた。

セラ・エルファトーンは慌てて真横の空いていた席に身を沈めると、鞄の中から教科書を取り出した。




第十五分室の蔵書は古書が多い。
中央図書館より離れ、学舎からも遠い。
図書館というよりむしろ書庫のような分室に、空き時間中こもっていた。

ジェイ・スティンから預かった譜面の写しを取り、区切りのいいところまで単語を拾い上げた。
分厚く読みにくい辞書を手に、文字を追っていった。


ジェイが言っていた、特別な言葉という意味がよく分かった。
ディグダでも上層部にいた限られた人間だけが使っていた文字。
扱えることが特権階級の証だった。
難しくて当然だ。
分かるものだけが理解できればいい。
万人に、普遍的に扱えることを目的としていない。


翻訳は思った以上に進まなかった。
しかし、セラが興味を持ってやり始めたことだ。
集中力は途切れることは無く、ふと時計に目をやればいつの間にか授業の時間が迫っていた。
少し青くなりながら慌てて資料をかき集め、書物を元の位置に戻しながら、部屋を走り出た。




スクリーンを立てた端末の陰で、そっと教科書の間に挟んだ一片の紙を取り出した。
左に記号、右にそれらしき意味。
一体何の暗号の解読文か、他の者には分からない。

欠片。
栄える。
光。

まだ文章になりそうにない。
時間がかかる作業だ。
しかし期限があるわけではない。
ゆっくり調べていけばいい。
そうすれば、何か胸の中に抱えたもやもやしたものが晴れるかもしれない。

辞書は貸し出し不可だったが、ディグダの歴史書は借りられた。
自分のいる場所のことぐらいとは思うが、考えてみれば深く成り立ちを調べたことなどなかった。

言葉は時間の流れとともに紡がれていくものだ。
人とともに形を変えていくものだ。

形を。
その存在を。

「消えてしまった言葉。消えてしまった、存在?」
使われていた場所、使われなくなってしまったのは。

幼いディグダの皇帝。
天と呼ばれた、少年。
秘められた意味を含んだこの言葉を、この国の頂点にいる彼は使っているのだろうか。




スクリーンの陰から、顔を出した。
右目で通路側の縦一列を観察した。
クレイは俯いている。
真面目に授業を受けている。

元々クレイは不真面目ではない。
成績も中程度、ひどく悪いわけではない。
ただ、必死に勉強に励んだりしていないだけだ。
結局のところ、執着をしていないだけだとセラは思う。

そんなクレイが、アームブレードに興味を示しているのは大変な変化だ。
アームブレードの教師、クレア・バートンの招集にも皆勤で応じるあたり執着の度合いが読みとれる。
本人にはその自覚はないようだったが。



下を向いて、メモを取っているのだろう。
緩やかに曲がった、クレイの細い背中が半分だけ見えている。
しばらく観察していた。
クレイは動かない。

おかしい。
セラは眉を潜めた。
いつもと様子が違うように思える。
固まった背中。
後ろを向いていて表情が読めないのが悔しい。
肩が、かすかに震えている。

授業が始まってまだ時間は経っていない。
視線は確実に教鞭を執っている教師の方を見てはいなかった。
クレイが突然、腰を上げ右手の扉を小さく、素早く開けると隙間から体を滑らせた。
一瞬のことだったので、教師も気付いていない。
クレイの側にいた人間だけが、小さく驚いてクレイの消えた扉をしばらく凝視していた。

室内がざわめき始めた。
部屋の前方から資料が配られてきたからだった。
前から流れてくる資料の受け取りに腰を浮かす生徒たち。
その騒ぎに乗じて、セラは端末の蓋を閉じて開けたばかりの教科書を閉じると、空いた席まで歩いていった。
クレイの席は開いた教科書がそのままだった。
何も持たずに、放ったままでどこに行くつもりなのだろう。

クレイの行動が理解できないことはあるが、今回は不安が絡みつく。
慌てて出て行く様子に違和感があった。
手早くクレイの荷物を揃え、セラも教室を出た。
廊下は静かだ。
生徒全員が授業を受けていることはない。
空き時間のある生徒もいたが、授業の時間帯は学舎に立ち入れない規則になっている。
空き教室は閉鎖される。
廊下は静寂が占めている。
左右に目をやったが、足音も影も見えない。
部屋に帰ったのだろうか。

靴底が出す音に注意しながら、セラは足早に廊下を進む。
巡回している教師に出会ったら逃げ場は無い。
早めに学舎を出なければ。

「直感はね、当たるほうなの」
嫌な予感。
当たってほしくないけれど、感じている。

廊下を抜け、無事に表に出られた。
散歩する生徒、読書にふける生徒が自由に授業の空き時間を使っている。

ここまで来れればだれもセラを咎めない。
万一、授業を抜けたことが知れれば。
考えると背中が寒くなる。

今いる場所を失うリスクか、クレイの後を追うべきか。
しかし体は既にクレイを追っていた。
それがセラの本心なのだから、もう戻れない。


部屋に帰ったが、クレイの部屋は静まり返っていた。
部屋には誰もいない。

考えられる場所は他にほとんどない。

「だとしたら」






草間から顔を出した。
一人になれる場所。
誰の目にも入らない場所。
知っているのは、クレイとセラ、リシアンサスとマレーラだけ。

「やっぱり、ね」
涼季だというのに、額からは汗が細く流れた。
外気に冷やされ、冷たくなった水滴がこめかみから喉へと伝う。

「ああ、クレイ」
走り回って、ようやく見つけて安堵した。
授業のために走り、クレイを探して走った。
今日は一日、久しぶりに駆け回った。
木の幹に手をかけ、肩で息をする。

当のクレイは、小さく切り取られた歪な円形の芝生の上で丸まっている。

「ねえ、どうして突然?」
顔を隠すように腕に埋めて、横たえた体を丸めている。
手を伸ばして揺すった肩の隙間から、湿った目が覗く。
いつものような冴えた色はない。
背筋が冷える鈍い光を放つ。

クレイが小刻みに震えた手を伸ばす。
洞窟の中でようやく辿り着いた薄明かりを探るような指先だ。
セラがすくい上げるように胸元に引き込んだ、白いクレイの指は冷水に浸していたかのように冷たかった。

「手を」
しかし手はすでに握っている。
クレイは何を求めているのだろうか。

「そのまま」
そのまま。
繰り返される言葉に含まれるのは祈りかまじないか。
手を握りこまれたセラは、クレイの側に膝を落とし、丸まった背中を撫で続けた。

震えの止まらない背中の上を何度も手のひらを往復させた。
瞑想でもするかのように無心だった。
頭の中は空っぽだ。
外気は頬を締める冷たさだったが、クレイの上を行き来する手は温かい。

寒さでない振るえ。
温もりに飢える。

少し落ち着いてきた。
セラの手は握ったままだったが、ゆっくりと顔を持ち上げた。
声はかけない。
ただ見下ろすだけ。

犬か猫をあやすように、髪に手を乗せた。
かき上げた額は汗で湿っている。

「何て言ったらいいんだろう」
言葉にできなくてもどかしい。

「言葉にならないことなんてたくさんあるわ」
だから無理に言わなくていい。
わからないままでいい。

「眠ったら? クレイ、疲れているみたい」
「眠くない。眠りたくない」
「嫌な夢、見るの?」
その言葉にも首を振る。

「暴れだすんだ」
深く、クレイは目を閉ざした。

「腹の底のほうから、熱い炎のような」
湿り気を帯びた熱気が。

「私を内側から焼き尽くしていく」
外に漏れないように必死で息を止める。

「止められなくて苦しい。内側は熱いのに、体は冷えていく」




きっとこの熱は私を飲み込んで、最後は。
私は私でなくなるんだ。

クレイはくぐもった声で叫んだ。
叫び、そう呼べるほど力強いものではないが。
クレイの体は丸まり、引き攣っていた。


欲。
そんな明確なものでも意識でも快楽に繋がるものでもない。

絶望。
言葉にするならそれに近い。

ただ、破壊したいだけだ。
触れるものすべてが疎ましく、嫌悪する。
周りを傷つける。
壊してしまいそうになる。

だから逃げた。
だれもいないところ。
だれにも見つからないところ。

それでもセラには、結局見つかってしまった。
あるいは、セラにだけは見つけてほしかったのかもしれない。

最近自覚している。
クレイにとって彼女だけは、安心できる場所だ。
帰るべき場所があるとすれば、セラのいる場所だ。

故郷はもう、過去のものになってしまった。
今はもうない。
器はあっても、帰る理由たる中身は存在しない。

「この感覚、同じなんだ」
壊したくなる衝動は、酷似している。

「クレイが。クレイの昔のころに?」
「私が人を殺したときに」
思考は停止し、体から湧き上がる何か。
殺意と位置づけられるだろうか。
相手を人間と認識してはいなかった。

側にあった短刀で突いたら破けた。
壊れた。
あっけなく崩れる。
醜悪な生き物は地面でもがく。
やがて動かなくなる。
どろどろとした赤黒く鼻を突く液体に塗れながら。
これはもう、立ち上がらない。
朽ちていくだけだ。
クレイが消したのだ。
存在を、消したのだ。

その感覚を、クレイは獣(ビースト)のようだと言った。
獣(ビースト)。
グラストリアーナ大陸にも潜む、ケモノに似てケモノにあらぬもの。
冷たい目で見据え、本能であるかのように人を殺す。

そして、鬼が棲んでいるとも言った。

「おに?」
「私の中の違う生き物。存在、意識、でも確かに私の一部だ」
繋がっている。
感覚と意識と記憶の共有。
どちらもクレイだ。

「たとえクレイが違うクレイを抱えていても、いま私の手を握っているクレイが死んでしまうわけじゃない」
言い聞かせるように、噛み締めるように、慈愛に満ちた強い目でクレイを見つめる。

「じゃあ、消えないように側にいてくれ。私が」
「クレイが壊れないように?」
「ああ」
「いるわ。いつでも」
その答えを、真偽を探る視線をセラに突きつける。
セラは怯まなかった。
安堵のため息に代わり、クレイは冷たい地面の草に満足した横顔を埋めた。












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