Ventus  62










これが声。
彼女は何者だろう。

声と表現するには余りに滑らかで。
音と言い表すには繊細すぎる。
細い糸のようだ。
細やかで真っ直ぐに弛むことなく張りつめる。

高い声は天井を抜けるように上へ上へと上っていく。
音の波に乗って手のひらは天井へ向けて広がっていく。

セラの聞いたことのない言葉だった。
どこか懐かしい。
柔らかい音程。
温かい。

シンプルなドレスに包まれた細い体から、力強い音が沸きあがってくる。
痺れる体に細かい汗が滲む。
音に突き上げられた熱い感情に何故か涙が押し上げられる。
セラの中の寂しさを埋めるような慈愛に満ちた声は部屋を満たしていく。
ジェイの歌は強烈だった。
体中、肌が泡立ち治まらない。
堪らずソファの上で両腕を抱え込んだ。
クレイの記憶を揺さぶった音だ。
そして、クレイの苦しみをそのまま包み込み、この街に封じ込めた歌だ。

歌の意味は分からない。
忘れ去られた古い言葉だった。
ディグダが今のディグダとはおよそ似つかぬ姿をしていた時代。
小さい、まだ幼く弱い国。
誰も振り返らない。
その昔の言葉。

降り注ぐ人工の光を受けて、ジェイの顔は白く輝く。
指先は音の糸を辿る。
自らもが陶酔するほどに、淀みなく洗練された快感を呼び覚ます音が伸びる。
艶っぽさや粘着質で煌びやかでもない。
細胞奥底まで染み渡るような不思議な感覚に酔わされる。

水面に鳥の羽根が落ちるように、最後の音は空気の流れを乱すことなく溶けていった。





歌が終わってもしばらく放心したまま気付かなかった。

「本当なら伴奏があるの。四弦の楽器。でも奏者はもう少ししないと来ないわ」
クレイが訪れた夜、ジェイと共に舞台に立った男がいた。
古くからディグダにあった楽器を手に、毎夜現れる。
昼は路上で演奏し、夜だけここに顔を出す。
僅かな賃金と夕食が彼への報酬だ。

「あなたは、ここで歌っているの? 他では」
「ずっとここだけよ」
「ミュージックカード、ミュージックチップはないのか」
クレイが間に口を挟んだ。
これだけの歌唱力が、世に出ないほうが不思議なくらいだ。

「残さないの。私はここに来ることを楽しみにしてくれているお客さん、それだけで十分だから」

フロアで肩を寄せ合うように座る客たち。
目当ては店の酒もあるが、何よりジェイの舞台だ。
舞台に大人しい靴音が響くと一斉に顔を上げる。
歌が始めれば自然と手は止まり、音の一切は立たなくなる。
まるで魔力を秘めた歌声のようだ。
それも十代の少女だというのだから、皆の関心は高くなっていく。

「みんなディグダの言葉を忘れてしまった。私もそう。クレイも、あなた、セラも」
「その誰もが忘れてしまった言葉、どこから発掘してきたんだ」
ジェイは僅かに目を細め、どこか謎めいた魅惑的な微笑を浮かべた。
友人に教えてもらったとだけ答える。

「この街に」
このスラムに。

「古語を繋ぎ続けた人がいたのね」
今や解読することも困難な言葉が。
言葉は移ろうものだ。
言い崩され、意味を転じていく。
昔の言葉が今の言葉に変わっていく様に、良いも悪いもない。
そのかつての言葉も、また更に古より意味を転じて作り上げられてきたものだ。

「その彼も今はあなたたちと同じ場所にいるわ」
学園に。

「学生なの?」
ジェイは静かに首を振り、否定した。

「教師か」
クレイの言葉にも頷かない。

「学芸員をしているわ」
「外部からの、それもこんな」
ジェイがクレイの言葉を継ぐ。

「そう。こんな場所からよ。私も最初は信じられなかった」
古のディグダを知る重要人物として招聘された。
ジェイの話では、今も頻繁に連絡をくれるという。

「大いなるもの、気高きもの、輝けるもの。余りて内に秘めたり」
突然何だと、クレイがジェイを凝視する。
童話の一部か。
未知の国の呪いか。
ここにはない、しかしどこかにはあるという魔の術か。

「歌の意味よ。私もはっきりとはわからない」
ジェイも、その言葉を教わった学芸員の男からはおおよその意味しか聞いていない。




どれくらい話しただろう。
時計の針は軽く一周はしている。
話が途切れたのは、伴奏者の男が楽屋に現れたからだ。

「お客さん?」
「友だち」
「珍しいな」
髭に覆われた顔は一見中年に見えるが、よく見ると意外と若いことに気付く。
背中から大きな荷物を床に降ろした。

「ジェイ、調子は」
「問題なし。そっちは手慣らししておかなくて平気なの?」
「さっきしてきたところだ」
路上演奏で手は温まっている。

「私たちはもう」
自由行動にも時間の制約がある。
頭が痛くなるほど細かに決められたルールを遵守することでようやく、学園に籍を置く権利を得られる。
皆が望む場所であり、憧れる生活だ。
一日を学ぶことで過ごせる。
一度内に入ってしまい生活に馴れてしまえば、過ごす時間、与えられた環境の貴重さを忘れてしまう。

「歌を聞けてよかった。ジェイに会えて嬉しかった」
「セラ」
立ち上がった二人を呼び止め、待つように手振りする。

部屋の鏡台に裾を乱さぬゆっくりとした歩調で歩いていき、静かに腰を屈めた。
小さな引き出しを開けて奥から何かを取り出していた。
セラとクレイからはジェイの背中で隠れ、手元は見えない。
振り返ったジェイの手には小箱が乗っていた。

「セラ、これはあなたに」
「なに?」
「たった一つ、たった一度のもの」
中身は想像がつかなかった。
だからこそ、楽しみが増す。

「ありがとう。宿舎に帰ったら開けてみるわ」
ジェイは満足そうに微笑み、二人を店の入り口まで送っていった。




「暗くなってきたわ」
抜けてきた店内の椅子はすべて机から下ろされていた。
机の上は埃も塵も一つもなく、深い木の質感美しく滑らかに光を弾いている。

「また来てね。今度も二人揃って」
「クレイが連れてきてくれたら、ぜひ」
「そうね。ここまで来るのが大変だもの。セラひとりだときっと迷子よ」
「否定できないところが悲しい」
「じゃあ、また。気をつけて」



路地を歩き始めて振り返ると、まだジェイが店の入り口に立っている。
目が合ってこちらに小さく手を振っていた。
見えなくなるまで見送るつもりだろう。

「不思議な人」
「そうか」
「大人っぽいのに、でもどこか」
「変わらない、ジェイは。どこか幼さが残るだろう」
「純粋なのね、とっても。きっとずっと歌が大好きだったから」
追い求める何かがあって、昔も今もずっと追い続けている。
迷うことなく、好きでいられる。

「執着心。それも才能の一部だと思うわ」
「そうだな。ジェイはずっと歌っていたから」
「それでクレイも救われた?」
「ああ。この間までジェイの存在自体をすっかり忘れ去っていたなんて、嘘みたいだ」
今では彼女との思い出がはっきりと思い出される。


「今度は門限に間に合いそうだな」
「余裕よ」
「夕食にも何とか間に合いそうだ」
少しずつ生徒が食堂に流れ始めている時間だ。

「まだ十分時間はあるわ。ゆっくり行きましょう」
「はぐれるな、セラ」
「だいじょうぶよ、ほら」
セラがクレイの手首を握った。

「こうすれば、ね」
迷子にならない。
人の流れが多くなってきた。

「放すなよ」
「了解」
夜の街に切り替わりつつある、ディグダクトル。
大通りの中に、二人は解けていった。












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