Ventus  61










掃除されることのない階段の端には埃が泥になって積み重なる。
高い壁に挟まれた路地は風が抜けない。
腐臭の混じったような湿った空気に息が詰まる。

街へ深く潜るほど、環境は悪化していく。
セラの生きてきた街や、過ごした学園、目にしたディグダクトルの街並とはまるで違う。
マレーラやリシアンサスが近づくなとセラに諭した場所だった。
ひそかに学生や教師の間で、ディグダクトルの恥部だと囁かれる場所だ。
あるいはその存在すら目に触れることもなく学園を去っていく。

何よりも、クレイが誰にも見せたくない場所だろう。
だが彼女は、彼女が育った場所へセラを連れて行く。
セラの内心は複雑だった。
側に目をやると、喧嘩でもあったのだろうか、飛沫が茶色く固まっていた。

ディグダ全土にわたる貧富の差。
支配するものと抑圧されるもの。

「セラの目に、この場所は汚れて見えるか。一欠けらも幸せなどない世界」
昼間なのに酒の匂いがする。
通り過ぎた男の頬は黒く汚れていた。

「クレイは? 育った街よ。どう思うの」
「何も感じない。私にとってこの場所は、ただそこにあっただけだ」
執着は感じなかった。
街を出て学園に踏み入れたときですら、寂しさなど感じなかった。

「私にとっては単なる器に過ぎなかったんだ」
街を出て学園から眺めて分かったことだ。
あそこには何もない。
記憶は置いてきた。
ずっと捨てたかった記憶だった。

「記憶を引きずり出したら、いろいろなものがくっ付いてきた」
「ジェイ・スティン? 彼女との思い出」
「悪い気分はしなかった。彼女の歌に助けられたんだ」
一人で歩けば学園に戻れない。
はぐれたら帰れない。
複雑に入り組んだ建物と道は迷路そのものだった。

「あと少しだ」






その一角だけ不思議な雰囲気だった。
体温のような温もりが伝わってきそうな外観。
道に散らばっていた塵は周囲にはない。
視界に入る限り拭われたように美しい。
琥珀色のランプが戸口に下がっている。
控えめに閉店の札が掛かり、内側から薄いカーテンを引かれて中は見えない。


「開いてないわ」
セラが扉に近づいて顔を傾けた。
カーテンの隙間から覗こうとするが、中ははっきり見えない。
目を細めてみても外の光がまだ明るくて、動くものは確認できない。

その隣にクレイが立つと、突然手の甲で窓のガラスを叩いた。
三度、叩いても反応はない。

「誰もいないのかも」
セラは耳を澄ます。
足音は聞こえない。


しばらく様子を見て、もう一度叩いた。

「人の声」
セラが目を驚きに見開いた。
細くはあるが、確かに女性の声が奥からした。
空耳ではない。
焦る風ではないゆっくりとした足音がセラの目の前に塞がる扉に近づいてくる。
一歩横に動き、戸口を開けてクレイに肩を並べた。

「どなた?」
セラが口を開きかけたが、声を出さずに閉ざした。
視線をクレイに投げる。
彼女が名乗っても仕方がない。

「クレイ・カーティナー」
もう少し言いようがあるだろう。
だが素っ気無さもクレイらしい。

扉の向こうは急に静かになった。
姿の見えない女性はクレイのことを知らないのだろうか。
クレイが訪ねた人は不在だったのだろうか。
セラが思いめぐらせていると、鍵を開ける音がした。

「また来てくれたらって思ってたけど」
木の扉が開かれる。

「まさかこんなに早く会えるなんて」
幼い頃から再開まで、数年の隔たりがあった。
同じだけの時間の長さを覚悟していた。

目の前に現れた歌姫の持つ、濃い髪の色。
クレイの黒に似ている。
長い髪は頭の後ろで緩やかに纏められている。
後れ毛が額とこめかみに流れる。

「こんにちは」
彼女が微笑んだ。
扉を大きく開き、体を横にして道を空けた。
二人を中に招き入れる。
薄暗い室内、机の上には逆さまにされた椅子が乗っている。
磨かれたばかりの木の床は埃ひとつなく木目が美しい。
準備が整ったというところだ。
開店にはまだ時間がある。
人がいない室内は以前来たときよりも広く思える。
壁際のカウンターの中にも人はいない。
フロアより一段高いところに舞台がある。
小さい舞台だが今は淡い光が降っている。

「練習中、だったのですか」
扉を閉ざした彼女にセラは問いかけた。

「奥の部屋で。舞台には始まる前に一度は立ってみるの。人が多いと緊張してしまって」
こんな仕事をしているというのに、と彼女は笑う。

「自己紹介が遅くなりました、わたしセラ・エルファトーンといいます」
そのセラの顔をじっと見つめていた。
しばらく後、ようやく口を開いた。

「そう、あなたが」
細められる目が意味するところが、セラには分からない。
クレイは、その二人のやりとりを傍観している。
セラと目の前の彼女との繋がりはない。
クレイが何か話したのだろうかと、横にいるクレイに目を向ける。

「気にしないで。クレイからは何も、あなたのことは」
深い青のドレスが良く似合う。
辺りが暗くなってきたら彼女の舞台が始まるのだろう。

「初めまして。ジェイ・スティンよ。ここで歌っているの」
これは彼女の店。
彼女の歌を掘り出した店主から譲り受けた店だ。
話の中で彼女が漏らした。
今は隠居生活をする店の持ち主は、彼女の歌にその価値を見出したのだ。

「クレイの幼馴染」
「さあ。クレイがどう思ってるのか分からないけれど」
幼い頃に出会い、僅かな時間を過ごした。
それだけのこととジェイは言うが、セラにはただ言葉にできるほど軽い時間には思えない。
その僅かな時間にクレイがどれほど救われたか知れない。

「何度も扉を叩いてくれてたみたいね。ごめんなさい」
フロアの奥にある控え室、更に扉を潜ると簡単な防音壁に囲まれた部屋がある。
練習室だ。
本番前に籠もっていた。
扉の音に気付かなかったのも防音壁と彼女自身の声のせいだ。

「昔とは何か違う。でも繋がっているものが確かにある」
変わらないもの。
変わったもの。

「それは、クレイのこと? クレイにはあなたの歌が必要だった」
「最上級の評価だわ」
それ以上、セラはジェイにクレイの過去を話すつもりはない。
彼女は何も知らない。
知っているのはジェイと共に過ごした、彼女が歌っていた穏やかな時間だけだ。

「昔の私はクレイの評価だけがすべてだった。だから私は歌を歌い続けた」
「クレイは、変わったの? わたし、昔のクレイを見ていないから」
笑わない人形だった。
表情の変わらない、痛みも悲しみも怒りも苦しみも幸せも。
クレイには遠いような、その中には宿っていないような気もした。
澄んだ瞳は鋭さをも秘めている。
だからこそ、彼女が理解できなかった。
幼い体をして、その魂や思考は計り知れない。
それゆえ、みな惹かれ一方で恐ろしく疎ましく思うものもいた。
黒の眼は深い。
深くて恐い。

ジェイはそのクレイの瞳が好きだった。
冷え切った目で歌うジェイを眺めているだけだったが、それでよかった。

そしてクレイとすれ違った男たち。
彼らは対してクレイの眼を疎んじた。
ジェイは知らない。
彼らがクレイを手にかけようとしたこと。
クレイが、彼らを消したことも。

「混沌。闇だったわ」
「ひどい言われようだな」
分かるか分からないかの苦笑をするクレイがセラの反応を窺った。

控え室、勧められたソファにセラとクレイが腰を下ろすと、ジェイもその正面に座った。
長いロングドレスが脚の形に折れる。
広がった裾から尖った靴先が少し見える。

「言葉に表すのはとても難しい。言えるのは、今はそう寂しそうではないということ」
「寂しそうに見えたのか?」
昔は。

「孤独だということすら知らなかったでしょう」
寂しいという言葉すら知らなかった。

「何かと何かの差異、違和、対比、比較。感情が養われていくものがなかったから」
「側にいたのはヘレンだけだったからな」
その彼女も情緒に乏しかった。

「今は失うのが恐いもの、執着ができたのね。友だち、今いる環境だとか」
「居場所」
マレーラ、リシアンサスを始めとする周りの人々。
居心地のいい空間が今はある。

「私には見えたわ。あなたを変えたもの」
すなわち、クレイに居場所を与えた何か。

「人の繋がり。あなたがここを出て紡いできた関係性」
安堵に満ちた瞳をクレイに向ける。
ジェイもまた、クレイに絡んだ一本の糸だ。



「歌を聞きたい」
視線を床に落としながらセラが呟いた。

「聞かせてくれないかしら。夜まで待つわ」
今度は確かに、視線を上げたセラの目はジェイを真っ直ぐ見つめる。
あと一時間か二時間すれば店は開く。
ジェイの歌も始まるだろう。

「その必要はないわ」
ジェイが衣擦れの音だけを立てて立ち上がった。
木の床に乾いた音を立てて靴が鳴る。
広い控え室を横切って壁を後ろに、背を伸ばして立った。
たおやかであり、鋼のような芯がある。
濡れたような美しさも備える。
セラとは違う強さだ。
セラは包み込むような優しさと温かさがある。

ジェイは爪先を揃えると深く息を胸へ入れた。












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