Ventus  49










それが、忘れたかった理由。

だからそれに連なるすべてを無かったものにしようとした。






ぎこちない動きでクレイが立ち上がった。
ソファに留めようとジェイ・スティンが手を伸ばすが、その手もクレイの腕はすり抜けていく。

声を掛けられなかった。
ジェイでは引き止められない。

「ありがとう」
ジェイに背中を向けたまま、クレイは小さく呟いた。

「ここは、クレイが育った町。私はずっと、舞台の上にいるから」
ジェイに視線だけ流すと、細く小さな背中は扉に歩いていった。
強いようでいて儚い。
まだ小さな少女だった。


賑やかなホールに並べられた丸テーブルを縫うように抜けて表に出た。
外気は意外に冷ややかだった。
そう感じて、頬が濡れているのに気付いた。
クレイは指先を目元に這わせた。
手のひらに流れ込んだ水の筋を握りこむ。

涙の意味を考えた。
体が震えていた。
爆発しそうな感情が、胸の中で沸いている。
どこにぶつけることもできない揺れる心が、胸を締め付けた。
その感情の意味を噛み締めた。
不安。
誰かに側にいて欲しい。
でも一緒にいれば、傷つけてしまいそうで。
恐怖でもあった。

早く終わらせたかった。


薄暗い道を先に進んでいった。
角を二つ曲がれば、騒がしい通りに出た。
酔い始めた街が、喧騒の艶やかな色が散りばめられる。
狂ったような笑い声と耳を塞ぎたくなるような叫び声。
腹の突き出た男の腕にぶら下がる巻き髪の女は、甘くて安い香水の香りを残して通り過ぎた。

街灯の下で細長い腕を前へ突き出し手招きする少女。
幼さを覆い隠そうと濃く紅が引かれた顔が白い光に照らされる。
露になった腕は青白く、記憶の中の自分の腕に重なった。

目を反らして、道を急ぐ。
この街にあるあらゆる物が、クレイの過去と連なってくる。
確かな記憶ではない。
目や、足や、肌が覚えている限りの道を辿った。
人の流れが途絶え、また現れては消えた。

動悸が早まるのを聞いていた。
胸が痛むのを、息を詰めて堪えた。
眩暈を振り切りながら、暗い寂しい長い道を行き、最後の角を曲がった。




水の音がする。
囁くように、小さな音だ。
いつだって、クレイの中に流れていた音だ。

黒い水。
流れるどろどろとした夢として、クレイを蝕み続けた。


一歩一歩確実に歩み、路地が開けた。

崩れかけた石道に流れる、暗い川。
水路だった。
溝と言っていい。
浅く水が流れていた。
悪臭はしない。
掬えば透き通った水が手のひらに溜まるだろう。
それが、日の差す場所であれば。


「あの日も、今と同じだった」
暗く、闇に満ちていた。
背中に当たる、死にかけた弱々しい街灯の明かりが水面と石道との境を照らす。

あの日と同じ。

クレイは片手を静かに水に沈めた。
クレイの陰が、水面に滲む。

「置き忘れていた、小さかったクレイ。取り戻しに来たんだ」

幼い自分自身を、水の中に見た。












ヘレン・カーティナー。

育ててくれた人の名だ。

だが、生んだ人ではない。


母親という存在を感じたことはなかった。

母親というものを求めたこともなかった。

母親という人間が必要だと感じなかった。

だから。

母親という女性はまわりにはいなかった。


クレイ・カーティナーという存在を産み落とした女性は、死んだ。
育てたヘレン・カーティナーが教えてくれた。
何も感じなかった。

悲しみも、寂しさも。

母親というものを知らなかったから、当然かもしれない。
母親という存在を意識させるような友人がいなかったからだ。

いたのは、ヘレン・カーティナー。
生んだ女性から、クレイという名と共に赤子を引き取った年を重ねた女性。

祖母と孫。

傍から見たらそう見えただろう。
だが、ヘレンとの関係を考えることもなかった。
生まれたときから続けていたヘレンとの同居生活は、ヘレンと永遠に別れるまで続いた。


ヘレンはスクラップ置き場などから、手を入れられそうなものを探してきては修理していた。
機械に強く、手先が器用だ。
電化製品から骨董品まであらゆるものを修理、修復していた。
物心付いたときにはクレイはヘレンと共にスクラップ置き場や、馴染みの店を回り壊れた機械を集めに回っていた。
修理する技術は身につけていなかったが、ヘレンの仕事場について歩いては、交渉の様子を眺めていた。


へレンが体調を崩し始めたのは、涼季の半ばだった。
粒の大きな雨が屋根を叩き、軒先から水の糸を垂らす。
雨は二日目に入っても止まなかった。
ヘレンはクレイを連れ立って街を歩いた。

クレイは家にいるようにと言い残して表に出たが、クレイは黙って上着を羽織り、ヘレンの後を付いて歩いた。
二人が生活していけるだけの糧は得ていたが、仕事がなければそれも望めない。
空気に冷やされた雨は、冷たく二人に降りかかった。

翌日、クレイの方が先に目が覚めヘレンの寝台に歩いていった。
ヘレンの寝覚めはいいほうだ。
夜はクレイより遅くまで起きていて、朝はクレイより早くに目を覚ます。
ヘレンの寝姿を見るのは珍しかった。
寝台の上で、上半身を立たせたまましばらくじっとしていた。
雨で喉をやられたらしい、と寝乱れた髪越しにクレイを見た。

三日経っても、咳は治まることはなかった。


クレイを引き取ったときには、すでに目尻や口元に深く皺が刻まれていた。
中年を越した体に、冷たい雨を被るなど無茶もいいところだ。
動けないヘレンの代わりに、クレイはヘレンと回ったスクラップ置き場と馴染みのある店と家とを往復した。



そのころだった。
ジェイ・スティンと出会ったのは。



投棄された機材を求め、二箇所回った。
目新しく、めぼしいものも見当たらないまま、帰路につく。
少し違う道を通って帰ろうと思い立ったのは、三箇所目が見つかるかもしれないと期待してのことだった。

だが、聞こえてきたのは機材を投棄するクレーンや金属音ではなく、人の声だった。

透き通り、貫かれるような真っ直ぐな声を辿っていった。
まるで糸を手繰り寄せるようだった。
どこを曲がり、どの道を歩き、どこまで行ったのか覚えていない。

辿り着いた先には小さな広場があった。
錆び付いて動かないクレーンが広場の長のように、一段上のコンクリートの土台の上にそびえ立っている。
コンクリート壁に少女が座っていた。
まだ、こちらに気付いていない。

クレイは歌が終わるまで黙って見上げていた。

幼いながらも安定した声量と音程。
伸びやかで、喜びに満ちていた。

柔らかに波打つ髪は深い色をしていて、クレイの漆黒の髪に似ていた。
小さな歌姫に初めての観客ができた日だった。
互いにとって、初めて友だちといえる存在だった。




それがクレイの世界だった。
ごく小さな世界。
しかし、彼女のすべてだった。




ヘレンの体調は波を作りながら、確実にヘレンの体力を奪っていった。

一月、二月と時は流れ、気が付けば一年が過ぎていた。
次の涼季を迎え、それすら過ぎ去りやがて空気が幾分か和らぎ始めた。

体調の芳しくないヘレンを家に残し、クレイは街を巡っていた。
ヘレンは力の入らない体を起こして家を出ようとしていたが、クレイが押し留めた。
物心付いた頃から、ヘレンの側で仕事を見てきたのだ。
表の道も慣れ親しんだ場所を回るだけだ。


仕事を早めに終わらせてすぐに家へ戻るつもりだった。
へレンが修理し終えた骨董品のラジオを注文先の店に収め、軽くなった両手を振りながら、家路についた。
店では体が弱くなったヘレンの様子を店主に聞かれ、引き止められた。
聞かれたことに答えていただけだったが、ずいぶん長く店にいたらしい。
入り口の扉を抜けて中に入ったときは街灯に火は入っていなかったが、表に出たときには闇は濃さを増していた。

早く家に戻らなければ。
食材は家にまだ残っている。
ヘレンは家の中では立って動くことができた。
しかし、無理はさせられない。
ヘレンの手となり夕食を作るのが日課になっていた。


夜闇は迫る。




忘れたいほどの記憶。

忘れられなかった感覚。




路地裏には人影が消えていた。
人込みを縫って歩くより、こちらの方が歩きやすく、近いことをクレイは知っていた。

自宅へ向かい行き交い、人の流れが一段と多くなり始める夕刻のこの時間。
小さく華奢なクレイが、大通りを一人歩けば押し流されそうになる。
ヘレンでは通り抜けるのが難しい建物と建物の隙間や、ドラム缶の転がった壁の間を器用にすり抜けた。

塵の中に混じり住んだ鼠や虫の巣を散らして、壁を抜けると道が開けた。
路地にはほとんど人の気配がしなかった。
もう一本表通りに近づけば、酔いつぶれた男が壁に寄り掛かっていたり、道に両脚を投げ出して座っている若者がいたりする。
だがここは、建物の谷間。
五分も歩かないうちに、人の流れが戻る通りにぶつかる。
谷間をうねるように這う細い道を、クレイは足早に通り過ぎていく。
今まで四度は通っている道だ。
五度目ともなれば、風景も目に馴染んでくる。
乱立したアパートや店のビルが邪魔をして、真っ直ぐに進めない。
曲がる角は後三つ。


両手を大きく振って駆け出した。
足裏が砂利を磨り潰す音よりも、自分の呼吸のほうがうるさかったのを覚えている。

目の前の角を曲がったその時、急に目の前に壁が現れた。

クレイは小さく呻き声を上げ、弾き飛ばされた小さな体は、投げられたように路地の床に叩きつけられる。
転倒に巻き込まれた業務用のゴミ箱が、激しく音を立てて転がった。












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