Ventus  50










痛む腕と背中を丸めて、膝を埃と湿気に塗れた地面に立てた。
起こす身が重い。
咄嗟のことで息を止めることができなかったせいで呼吸がし辛い。

ぶつかったのは堅い石の感触ではなかった。

邪魔だか、どこを見て歩いているんだだったか。
罵声と悪口雑言が吐かれていたが、はっきりとは聞き取れなかった。
いずれにしろ、彼らの気分を著しく害したのは確かだった。
クレイは屈強な大人などではなく、ただの小さな子どもだ。
その子どもが夜闇に紛れて歩き回っているのを不審に思うのは当然だが、理由を尋ね家まで送り届けてやるような慈悲はここにはない。
むしろ、子どもが一人消えようが、誰も気に止めない街だ。


荒っぽい子どもが人形を奪い取るように、乱暴に右腕を鷲づかみされた。
クレイの細い腕と体は力に抗うこともできず、引き起こされた。

筋肉というよりも贅肉の比率が多そうな浅黒い男と、後ろには逆に痩せぎすの男が歯の抜けた口で卑しく笑っていた。
憂さ晴らしに格好の玩具を見つけたときのような、引きつった笑いだ。
鳥肌が立つほど嫌悪感をそそる。
潔癖症でなくとも、触れられた腕を引き剥がしたくなる。
クレイも掴まれていた手首を振り払って、飛び退いた。

簡単に振りほどけたのは、相手が半ば酔っ払い、クレイの細い体から出る力を見くびっていたからだろう。
唇を堅く閉ざしたまま、大きな鋭い目は大人を見据えた。

クレイの反応を見て、彼らはまた卑しく唇を歪めて笑った。
口を開くたびに、片方だけが引き攣る癖で並びの悪い歯が覗く。
通路の左右は男で封鎖されている。
背中には壁が迫る。

二人の男が話している隙に、痩せ男の方に空いた僅かな隙間へとにじり寄った。
うまく壁との間をすり抜ければ、まだ逃げ切れる可能性はある。
人通りがある通りまで、走りきれれば家に帰ることができる。
緊張で背筋が凍りついていたが、思考はまだ停止していない。

クレイは右脚に力を込めて、左手に飛び出した。
袖の短い服から出た腕が、壁に擦れた。
切れた皮膚の痛みに構っている暇はない。



次の角は見えている。
あと少し。
前かがみになった頭が、急に後ろに引き戻された。
後ろに流れた髪を掴まれた。
重い振り子のようにぶら提げたクレイの頭を前後に振り回し、勢いのまま地面に投げつけた。

骨が折れなかったのが不思議なくらいだ。
軽く意識を飛ばし、どこを擦りむいて打ち付けたのか分からないくらい、全身が痛んで動けなかった。

目を開いて差し込んできた薄明かりが、また暗転する。
雲がかぶさるように、重い闇が被さってくる。

湿った手が、細く幼い首を覆った。
徐々に締められていく喉が、くぐもった苦しげな音を立てる。
開いた唇は酸素を求めて震える。
せき止められた血液が、行き場を失い皮膚を持ち上げる。
苦しくて、涙が出た。


白く消えていく意識の中で、男の肘の向こうで揺れる物を見ていた。
希望に手を伸ばすように、首を締め上げる男の腰へと手を伸ばした。
指先が冷たい感触に触れ、手のひらに握りこんだと同時に、勢い良く引き抜いた。


それが何か深く考えはしなかった。
もたらす結末を思いもしなかった。


引き抜いたナイフは男の脇腹を掠った。
そう表現するにはあまりに深く皮膚を抉った。
男の手が緩む瞬間、両手に握りなおした短刀を腹深くに突き立てた。
刃物を握る経験も少なく、刃物の鋭さも知らない。
手を切る痛みも知ることなく、肉を切る感触も経験がない。

子どもは残酷だ。
知らないからこそ、命を奪うことを躊躇わない。


背中まで達したかもしれない。
覆いかぶさってくる男は、呻くたびに血を吐いた。
その屋根の下で、クレイは求めていた空気を得て激しく咳き込む。
短刀は堅く握り締めたままだった。

力が抜け始めた男の体の下から這い出し、見上げる。
建物と建物に区切り取られた細い空を背にして、男の引き攣った顔が目を見開いている。

生ける屍のように、血に塗れた浅黒い男の手が背後から肩に圧し掛かった。
地獄へと引きずり込もうとでもしている死人の手だ。
負の感情が漂う、割れて泥の詰まった爪がクレイの肌に食い込む。
その腕を、短刀を振って振り払った。
切れ味の良い刃は、元の主の腕を深く裂く。
男が腕を抱え込み丸まって鈍い叫びを上げる。



それまで目の前の光景を呆然と見下ろして動かなかった男が、クレイに上から殴りかかった。
拳は側頭部の狙いを外れ、頬を横切って肩口へと叩き込まれた。
直撃は避けたが、クレイは壁伝いにバランスを崩して凭れかかる。

クレイがよろけた隙に、男が彼女の小さな顔へ片手で正面から掴みかかる。
目を覆うように片手で掴んだクレイの頭を、後頭部を壁に押し付ける。
男がもう片方の手で短刀を握ったクレイの右腕を捕らえようと持ち上げた。
その動きより前に、頭部を押さえている腕へ、クレイが短刀を突き入れた。
骨に当たり貫通はしなかったが、押さえつけられた頭部は解放された。
短刀の扱い方は知らない。
ただ鋭いは刃は引けば肌が切れる。
針のような尖端は突きつければ肉を抉る。
最低限の原理さえわかっていれば人など容易に傷つけられる。
行為を制止すべき理性は飛散していたのだから。
あらゆる感覚が麻痺していた。

小柄な体にはヘレンについて回り鍛えられた脚力、瞬発力があった。
真っ直ぐに突っ込んだ体は、細長い男の太ももに突き当たった。
弾力が短刀を通して手に伝わる。
バランスを崩して倒れかけた体に、もう一度右手を振り上げた。
刃先は腰骨に当たって止まる。


脚を引きずり、壁伝いに逃げていく男をクレイは瞬きを忘れた目で眺めていた。

見開いた目は、何かを見つめているようで何も見てはいない。
冷たい目で、死を追う目で、研ぎ澄まされた目だった。
強く、美しい黒の瞳。

獣(ビースト)の眼に似ていた。




頭から被った赤い水。
背を向けている男はもう動かない。
仲間にも見捨てられたこの男は、やがて静かに冷たくなっていくのだろう。

握りこんだ短刀から滴る赤い水。
乾いて皮膚が引き攣る。
指は巻きついたまま剥がれない。

どうすればいいのか分からなかった。
ただ、この姿では表の通りには出られない。
心を抜かれた空っぽの体で、あれほど行きたかった明るい通りに背を向けて、元来た暗い街の奥へと歩いていった。

だれかのすべてを奪うなど、簡単にできることだと知った。

彼を恨んでいたわけではない。
憎んでいたわけではない。
見知った顔だったわけではない。

ただクレイの側を通り、クレイとぶつかっただけの人間だ。
そしてクレイの首に指をかけた。

生と死との境界は、あまりに脆い。

いや、簡単にもその境を飛び越えてしまうクレイ。
自分自身の心が、怖かった。


寂しい通りを壁伝いに歩き、あの角から離れるにつれ、時間が経つにつれ、自分が怖くてたまらなかった。
指が触れたビルのコンクリートには、筆で引いたような血痕が横に伸びている。
空を仰ぐと、建物の僅かな隙間から月が顔を出している。


夢と現実の狭間。

揺れ動く過去と現在。

そしてクレイは、辿り着く。

暗い夜、黒い水のほとりへと。












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