Ventus  17





室内は騒がしい。
すぐにでも部屋を出たかった。
だが狭い机と机の間は生徒で埋められ、容易に通り抜けることはできない。
扉へ流れる人の波が治まるのを待つか。
クレイは束ねた教科書の上に腕を乗せ、顔を伏せる。
大きな瞳だけが、髪の間から光るように周囲を観察していた。



セラが隣にいれば、この騒音も気に障ることはない。
授業が終われば、それまで静かだったセラが急に話をし始める。
ただ、それに集中していればいい。



濁流はなかなか治まらない。
次の授業が迫っている。



急に、クレイが首を持ち上げた。
名前を呼ばれたような気がしたからだ。
気のせいか、と思いながらあたりを見回す。


「クレイ・カーティナー」


今度は確かに、フルネームで叫ぶ声が聞こえてきた。
返事をする代わりに、立ち上がった。
ここからでは叫び返しても、相手は気づかない。

人のまばらになり始めた教室の奥で直立不動でいれば、すぐに目に付く。
クレイを呼んだ若い男性教諭が歩み寄ってきた。

「いや、結構生徒が多いんだな、この授業」
声が不安定に揺れる。
二度咳払いをして、クレイへ顔を向けた。
何度も見た顔だ。

「報告書の件ですね」
この男がクレイを呼び出す理由はそれ以外にはない。

「今すぐにというわけじゃないんだ」
昼休みでも、放課後でもいいから時間を空けて書類を取りに来るようにと伝えた。

「やり方はいつもと同じなんだけど、一応説明と、簡単な面談を」
それもいつもと同じだ。

最近どうだ。
勉強は難しいか。
ちゃんと授業についていけているか。
どういう分野に興味を持っているか。
聞かれることも、毎年ほとんど変わらない。
クレイの返答も、変わらない。

「わかりました。講師室ですね」
「ああ、昼と夕方はいるはずだ」
男性教師は動こうとしない。

「話は以上ですか」
クレイには次の授業が控えている。
嫌味のつもりで言ったわけではない。
それは教師も理解している。

「ああ、カーティナー。アームブレードに興味があるのか」
「まだ授業は始まったばかりで、今はまだ答えられません」
興味のあるなし以前の問題だ。
握ったことすらないのだから。

「なぜ、こちらの分野を選んだんだ」
戦術や、兵器の知識を養う道を選んだのか。

「私は誰かを指導する能力に長けていないからです」
答えは簡潔だった。

「わかった、ありがとう。ゆっくりと後ほど時間を取ろう」
彼は片手を上げてクレイに背を向け、扉へ向かった。




教室の扉を潜ると入れ替わりに、セラが顔を覗かせた。
首を振って、室内を見回している。
クレイに気づく前に、卓上の教科書を掴み、セラに駆け寄った。

「次の授業は」
「クレイ!」
「驚かせたか」
床を響かせる靴音も立てなかった。

「びっくりした」
セラが、オーバーアクションで胸に手を当て、丸い目を更に大きくし、クレイを見つめた。

「呼びに来たの。授業終わったのに、クレイ廊下にいないし」
「人が引くのを待っていた」
「そう、次の授業のこと」
「一緒だっただろう」
視聴覚教室。
確か、場所はそこだった。

「あと三分よ」
二人は人の流れが半分になった廊下へ出た。

「セラは、医学・薬学専攻だったか」
「ええ、でもまだはっきりと分野を決めていなくて」
なりたいもの、なれるもの、道は分岐点が多いほど惑い、時に誤る。

「私も、わからない」
自分がどうあるべきか、わからない。

「道が、見えない」
興味があるものがない。

「私には」
言いかけて、言葉を呑んだ。
教室と人込みが近づいていたからだった。




教室にはまだ教師は来ていない。
席について、腕時計を見た。
数字は一分前を示している。

「放課後は、一緒に帰れない」
「寄るところがあるの?」
「以前と同じ、報告書を提出しなければならない」

セラが口を開いたところで始業のチャイムが鳴った。
言えず終いの言葉を待って、クレイはセラを見つめていたが、セラは口を開かなかった。








生徒の数に比例して、教師の人数も上がっていく。
広大な敷地と巨大な建造物であるとはいえ、空間は有限だ。
教師各人に部屋を割り当てるのが理想ではあるが、費用と空間が阻む。
職階が下の者は教師控え室を区切って共有している。


入り口には壁に液晶パネルが埋まっている。
画面に映し出されているのは、扉の向こうの見取り図だった。
縦と横の線で描かれ、数字の下には名前が表示されていた。

クレイは迷うことなく人差し指を、二十八番の数字に押し当てた。
電子音が小さく鳴くと、数秒しない内に扉が開いた。




コンピュータのキーボードを弾く音に混じり、紙をめくる乾いた音が響く。
小声での雑談も所々から聞こえてくる。
水を打ったような静けさ、とはいかないようだ。

二十八番ブースに近づいてきたところで、甘い香りがした。


「早かったな」
灰色のパーティション越しに、教師が顔を半分突き出した。

「他に予定はなかったので」
クレイの姿を認め、椅子が滑り出てきた。

「相談室を取ってあるんだ。そこで話そう」
陶器のカップが置いてある。
淹れたてのようで、湯気と共にいい香りが上る。

「お茶だよ」
見れば判る。
せっかく入れたのに、置いていってもいいのだろうか。
覗き込んで、教師の表情を伺ったクレイに言った。

「葉っぱが欲しいか」
教師はクレイの方へ向けた椅子を反転させ引き出しの中を探る。
いらない、と言う前に探し始めてしまったので、止めることはできなかった。

甘い香りの正体は、これだった。
その事実に呆気に取られていたせいもある。

「ほら」
小分けされた小さな袋の一つを取り出し、目の前にかざした。
今日一日分の教科書が入った鞄で手が埋まったクレイのポケットに押し込む。

「行こうか」
立ち上がったときには、書類一式が入った大きめの茶封筒を抱えていた。










「面談といっても、なあ」
聞くことは毎回変わらない。

「特に変わったことはありません」
「そうだな。成績も」
教師は出力したデータを取り出した。

「格別良くも、悪くもない」
「しかし今更だがな、一体どういうルートでこの報告書が流れていくのか」
つまりは、金の出所だ。
教師も直接は出資者を掴めてはいない。
何百と授業を担当した生徒の中で、クレイのようなケースは初めてだった。

成績優秀者に対し、国が学費を免除する。
また、ある一定評価以上の者に対しては、学費を補助する。
制度を提供するのは、ディグダという公的な存在だった。

「だが、どうやらこれは私的な機関から出ているようだな」
「私にはわかりません」
学費と生活費を無利子で提供してくれている、相手の顔を見たことがなかった。
教師の方が、学費の流れを知っているのだと、思っていた。

「こっちも上司からの指示を受けて、書類の受け渡しをしているだけだからな」
話を進めてみると、どうやら彼が受け持っている奨学生はクレイだけ。
他にいるかもしれないが、はっきりとはわからない。
曖昧な返答だった。
今日こそ、後援者に繋がる何かを得られると、クレイは考えていた。

「ところで、今年から編入してきたセラ・エルファトーンだったかな」
名を出したところで、クレイの空気が色を変えた。

「彼女と仲がいいようだな」
俯き加減で垂れ下がった髪の向こうで、大きな瞳が光る。
書類に目を落としているせいか、感覚が鈍っているのか、クレイの明らかな変化に、教師は気付いていない。

「ああ、専攻は離れてしまったようだけど」
息を詰め、伸ばした背は臨戦態勢に入っている。

「先日のことです」
声の調子でようやく教師は理解した。
顔を上げる。
目尻の下がった細い目が僅かに見開かれた。




完全な拒絶。
ここは、踏み込んではいけない領域だ。
今年に入って、クレイのまとう空気が緩んだ。
それに安心しきっていた。
慣れること、自分の領域に踏み入ることをクレイは嫌っていたというのに。


友人関係について聞き出すことは、許容範囲内のはずだ。
しかし、クレイにとっては違った。
セラの存在は、クレイ個人に深く食い込んでしまっている。

「この書類を、書いてもらおう。どうする、提出は一週間後だから、持って帰っても」
「ここで書きます」
教師は茶封筒から、罫線の引かれた白紙の用紙を二枚とペンを取り出し、クレイに手渡す。



「データで送ってもいいと思うんだけどな」
わざわざ報告書として用紙を用意し、教師に指示する。
回りくどいことをせずに、電子メールで送ればいい。


教師はペンを右手に、報告書を書き始めたクレイを待っている。
できあがり次第提出しに来いと、一言言えば待たずとも済むのにそれをしない。

「意味があるんだろうか」
独り言のように呟いた。
所定の用紙に報告書を書いている件についてだ。

「文字は体を表す、かもしれません」
ペンは止めず、顔も上げない。
教師の少し驚いた表情を、クレイが見ることはなかった。

「なるほど、な」
驚いたのは、意見の内容ではない。
彼女自身の意見を聞いたことがなかったからだ。

逆さの書面を覗き込む。
払いと跳ねが明確な、癖のある字で用紙の五行が埋まっていた。

「武器を握ることに少しは興味があったのか」
「性格、適正でもって消去法にかけただけです」
何かを研究したいと思うほど、興味があるものはない。

「まあ、残り半年あるんだ。それから、道を決めればいいさ」






面談と言っても、聞くことなどほとんどない。
各個人の成績は、許可を取れば閲覧できる。
素行に対する評価も、段階分け、コメント付きで整理されている。
その中には、交友関係もデータとして保存されているはずだ。

クレイが想像できるのはそこまでだった。
そのデータを見て、なお教師がクレイの友人関係へ質問の手を伸ばしてきた理由までは推測できなかった。
教師にしてみれば、この半年間でのクレイの変化の原因を知りたかっただけだ。
クレイが他人を受け入れるなど、今までは見られない傾向だった。

セラ・エルファトーン、彼女がキーワードだった。
それだけは、収穫だ。






クレイのペンが机の上で寝かされた。
教師はクレイと面談した見解を記し、見直していた。

「もういいのか」
「書けました」
膝の上に乗っていた片手を持ち上げ、八割黒で埋まった報告書を教師へ押し出した。
受け取って、目の前で黙読する。

「よし。それじゃ、解散するかな。お疲れさん」
教師が紙を束ねて皺の寄った茶封筒へ入れる。
クレイは荷物を持つと机から立ち上がり、扉へ手をかけた。

「ありがとうございました。待っていてくれたこと、あとこれも」
上着のポケットを上から押さえる。
乾いた茶葉の音がした。

「ああ。うん。気に入ったら取りにおいで」
頷いて、教師に背を向けた。

「カーティナー!」
扉に隠れかけたクレイの背中に叫んだ。
クレイの反応は早い。
百八十度回転し、教師の方へ振り向いた。

「確かに、あと半年のことかもしれないけど、考えておけよ。自分が何をしたいのか。どうありたいのか」
難しいけれど。

目礼する程度の小さく、首を縦に振る。
扉が閉じた。
教師は白く厚い扉の向こう側。




人のいない廊下に、蛍光灯の白い光が音もなく降り注ぐ。
クレイは自分の足音を聞いていた。
それは心音のリズム。
自分の音。




「でも、私には」
廊下は続く。
部屋の前のナンバープレートの数字が、カウントするみたいに下がっていく。
冷え切っていく、心の温度のようだ。
それとも、体温。

「何もない」
搾り出すような、呟き。
誰も、これほどまで苦しそうなクレイの声を聞いたことがなかった。


「何も、ない」


また、扉が近づく。
寮に、帰らなくては。
日は、落ちてしまっているのだろうか。











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page

















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送