Ventus  18










雨だ。






手の届きそうな範囲内は、白く水の筋が見えていた。
屋根の下は、蛍光灯の白い光が溢れている。
雨の粒が、地面に消えていく様が鮮明だった。






その向こうは。


黒が迫り、草木と空間の境目も明らかではなかった。
雨が降っているのだと、気付かせてくれるのは音だけだ。










雨は嫌いではない。


苦手なのは流れる水だ。
暗闇の中の溝だ。


ぬるぬると、うねって。
ごぼごぼと、くぐもって。


気分が悪くなる。
気が、遠くなる。


抜け出せない。
逃げ出せない。


誰も助けてはくれない。
嵌りこんでしまったら、そこは一人だ。




逃げられないから
絡め取られて。


すると
呑まれるしかない。






深い、深い。
暗い、暗い。
重い、重い。
水の底に。




叫んでも、手を伸ばしても
誰も助けてはくれない。




いや
もう
ずっと昔から
ずっと前から

一人なのかもしれない。








渦に呑まれそうになって、走った。
粒が体にぶつかっては、跳ねる。


睫毛は雫を押さえきれなくなり、水滴で光る。
靴で水を蹴り、腕を大きく振り、ただ走った。
傘など、持ってはいなかった。


舗装された道を外れ、人影を避ける。
林を抜け、追われる獣のように駆ける。


理性を飛ばし、感覚だけで走り続けた。
草が服に当たるのも構わず、枝が肌を叩くのも気にならなかった。
息が切れるまで。
口の中に血の味がした。
それでも止まらなかった。


自分がわからなくなった。




私は、何だ?
自問する。

答えは無い。
いつだって。

叫んでも、声は届かない。

私は何だ?




獣(ビースト)
ただヒトを喰らう、狂いの獣。

いっそ、獣になれたらいい。

過去も、今も、未来も。
全部捨てて。



そうすれば、この思いも
すべて、すべて
消えるから。









忘れたかった。
消してしまいたかった。








何を。


一体、何を?
不安を。



不安?
何を恐れる。


怖いものは、何?
怖いものなど、何もないではないか。


では、その震えは?
怖いものなど何も、なかったではないか。


では、今は?
今は。

今は、何が怖いの?
いま、は。















草むらを抜けた。
広がった視界に、脚を止めた。



水を含んだ芝に足を取られる。
左足が滑ったが咄嗟に片手を付いて、転倒は免れる。
散った水が、頬に飛んだ。

冷たい。

静止したら、雨音の強さが鮮明に耳についた。
混じる、自分の鼓動。
耳を打つ、脈拍。
呼吸の音。

まばらに振っていた水は今や、無数の直線を描いている。

定規を当てて、無心で引いたような子どもの落書きだ。
光が当たればより明らかとなるだろう。




ゆっくりと上体を起こし、周囲を観察した。
聴覚に神経を集中させる。
視覚は見慣れた風景を捉えていた。


木の形、広場の歪な円形、獣道のような古径、それらすべてが脳に染み付いていた。
ここは足を運ぶ、学園内で数少ない場所だった。


灰色は黒になっていた。
どこからが現実で、どこからが闇なのか、判別できない。


荒れる息で、酸素を求める魚のように上を向いた。
湿りを帯びた空気が心地いい。

石壁に手を沿わして表に回った。
指先を削るように伝わってくる石の凹凸が、記憶を刺激する。

以前、同じことをしていた。
湿った壁が、手の下を這う。


知っている。


奥底に眠っているはずなのに、手が届かない。
浮き上がってはこない。

淡い光が灯っている。
火が揺らめくように、揺らいでいるのは錯覚かもしれない。

這うようにして、手を伸ばした。
壁伝いに、一歩ずつ噛み締めるように進む。
出口を探しているのかもしれない。


抜け出したいのだ。












指先が宙を掻く。
正面に回りこんでいたのだ。
すり抜けた空間の奥には、軋みを立てて開く古びた木の扉があるはずだ。

ヒオウは、いるだろうか。













再び手を広げ、扉に触れようとしたとき、クレイの手が引き寄せられた。
強い力ではない。
クレイの白い手を柔らかく受け止めた。


「クレイ」


穏やかな、透き通る声は優しい。


「濡れているじゃないの」


温かい手は、クレイの手を握り締める。


「冷たいわ」


入り口の僅かな光の下で、安寧をもたらしてくれる。


「セラ、どうしてここへ?」


心配そうな眉を上げ、微笑んだ。

「図書館へ行ったの。灰色館が見えたから、ヒオウに会いたくなって」
「ヒオウは?」
「いないみたいね」
クレイがなぜか、酷く混乱している。
唇は引き結び、目つきも鈍くはない。
灰色館の灯は落ち、そこにヒオウがいないことなどすぐにでもわかる。
少なくとも通常のクレイであれば。

どうしたのか。
何かあったのか。
そう問いただして口を開くクレイではない。
それは、セラも十分理解していた。
今できることを考えた。


「髪が湿っている。帰りましょう」
風邪をひいてはいけない。
クレイの肩を抱え込むようにして、灰色館の庇蔭から出ようとした。

前に押し出そうとするセラの力に抗って、クレイは銅像のように動こうとしない。








「クレイ、お腹空いてない?」
「別に、空いていない」
「そう」
そう答えるだろうと予測していた。

「散歩、しましょうか」
夕闇はかき消され、夜になっていた。
空気は冷え始める。
帰りたくないというクレイを、このまま風の抜ける野外に置いているわけにはいかない。

「ああ」
ようやく、クレイの力が緩んだ。










訓練施設は、校舎と寮を直線で結んだほぼ中央に位置している。

ディグダクトル建築は特殊で、直線をほとんど用いない建築方法で有名だ。
この訓練施設もまた、その内の一つで、建築法の講義でも毎回例に挙げられる。
上から見たら、巨大な円環が草の上に落ちているように見える。


訓練室は遅くまで自習をする生徒のために、夜中まで開放されている。
廊下にまで、空調が整備されている。
夕食の時間帯で、今は人の数も少ない。



クレイは、戦術演習の授業を受けている。
いずれ来ることになるだろう訓練施設を下見しても、悪いことはない。

セラは、散歩コースに組み込むことにした。
左に緩やかに曲がる廊下を一回りする頃には、クレイも頭の中が整理できるだろうと思っていた。




「セラのことを、聞きたい」
「何から、話せばいいんだろう」
話したいことはいろいろあるだけに、迷ってしまう。

「何でもいいんだ」
ただ、セラの話を聞いていたいだけだった。




「そうね。わたしの街はね」






日の光が柔らかく差す。
手のひらを広げたくらいの小さな四角い石が、道路に敷き詰められている。

人の通る道、車の通る道、その場所だけが薄く磨り減って浅い轍ができている。


セラが小さい頃は、その上で転んでは泣いていた。
灰色の石が膝を傷つけたからだ。
小さな足には、その石畳は大きすぎた。

だから、あまり好きではなかったのは、はっきりと覚えている。



セラは幼かった。
それでも傷が癒えれば痛みを忘れ、車が過ぎた後の道路を走って横切る。

昔は舗装道路だけでなく、家の前の土道でもつまずいて転んでいた。
きっと、頭が重かったのだとセラは今になって笑える。


その頃は、この世界にディグダクトルにあるような背の高い、見ていると眩暈を起こしそうな高層ビルがあるとは知らなかった。

街は小さかったけれど、人の数からすれば、十分に広かった。
胸を張った背の高いビルを建てる必要がなかった。


名は当然のように知っていても、ディグダクトルを意識したことなど、多感な思春期に迫ってもなかったように思う。
今、こうして街を離れディグダクトルにいるとなると、無意識的にはディグダクトルに気持ちがいっていたのかもしれないが。

セラは生まれて育った街が好きだった。
庭で作った野菜や果物をくれるおばさんは、セラに野菜と薬草の種類を教えてくれた。

家の前には広大な草原が広がっていた。
所々に木が群れ、小さな林を作る。
庭と草原との境界があったのかすら定かではない。

息が上がるほど走ったら、小川が流れている。
膝までしかない、小さな川だったけれど、子どもの格好の遊び場となっていた。
遮るものの少ない川原は、陽を受けて緑に萌え、水は光を白く弾いていた。

セラも、向かいの家に住んでいた友人や、学校の友人たちと夕暮れまで遊んでいた。

時間を忘れ、気が付いたら家に灯がつくまで走り回っていたこともある。
母親が心配して、酷く怒られたこともあった。

母親の心配は伝わっていた。
自分が悪いことをしたこともわかっていた。
わかっていたけれど、やっぱり母親に怒られるのは怖くて、嫌だった。

離れてみてよく理解できる。
愛しているからこその怒りだったのだと。






「懐かしいとは思う。寂しいともね。でも、わたし、ディグダクトルに来てよかったわ」
心から、そう思う。

「離れてみて、大切さっていうのはわかるの」

それに。

「それにね、クレイに会えたでしょう」

あなたは。

「クレイは、どう」


「私は」

相変わらず、頭の中は整理されない。
崩れて散ったパズルのようだ。
まるで完成図が見えない。

「何も変わっていない」
「本当に?」
「そんな、気がする」

確信が持てないのは、胸に渦巻く不安のためだ。

「でも」
震える手が、何かを恐れている。

「考えるようになった。見えるようになった」
握り締めていた手を開けたら。
不安を解放できたなら。


「怖いんだ」

振り払えるだろうか。
この不安を。








「私には、母がいない。父も、いなかった」

セラは、クレイの手に指を伸ばした。

「育ててくれた人はいた。ヘレン・カーティナー。私は、彼女の仕事を手伝っていたんだ」
育ててくれた女性。

「彼女が、母というのだろうか。よくわからない。母親の温もりがあるというのなら、私はヘレンにそれを感じたことは、ない」

虐待されたことはなかった。
また、優しくされたこともない。

「彼女に手を引かれて歩いたことはあっても、腕に抱かれたことはなかった」
ヘレンも、クレイの扱い方がわからなかったのだ。

「人の温もりを知らない。ヘレンの手は、冷たかったから」






誰かに自分のことを話すのは初めてだった。
クレイは左手が温かいのに気付いた。

クレイはいつの間にか、セラの手を強く握り締めていた。
無意識であっても、縋り付きたかったのだ。
クレイの中の頑なに閉じた扉が、開いていく。

「その、ヘレンという人は。クレイを育ててくれた、人は?」
「ヘレンは、今はいない」

ヘレンは、母親の代わりにはなれなかった。
それでも情を注いでくれたと、クレイは感じていた。

「死んでしまった」
クレイは一人になった。

「それが学園に来た、きっかけの一つでもある」
学園に入って、同世代の人間に囲まれていても、一人であることに変わりはなかった。

「私は。私には」

体一つで学園に転がり込んだ。
クレイの周囲だけ異質な空気が満ちていた。


「何もないんだ」


何も。


脱力し、緩むクレイの左手を、引き止めるように強くセラが握り返した。








「そんなこと言わないで」

セラの中がざわついていた。
火のついた木炭のように、淡く静かに炎を上げる。

「何もないなんて、言わないでよ」











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