Ventus
16
軟性の高い樹脂の板。
両端を両手の人差し指と親指で挟んで、半分に折り畳むように曲げる。
弾力のある板は両手が作る曲げようとする力と、元の形状に戻ろうとするバランスの狭間で、滑らかな曲面を描く。
実に不安定な形状だ。
それなのにディグダの建築物には弧の姿がよく見られる。
人は安定を望む一方、その不定形に惹かれている。
ディグダの種と表現されることもある、ディグダクトル。さらに中枢の政府施設や学園にもこの形状は少なくない。
安寧と変革と。
厚みのある硬い靴底が、学舎二階へと続く白階段を、足早に抜けていく。
廊下を駆ける生徒をかわしていく身のこなしは、誰も気にはかけていないが、拍手に値する。
背中が見えないほど大きな荷物を肩から提げての動きだ。
軽いベージュのロングコートからは、形のいい締まった脚が覗く。
腕を振って、ずれ落ちた荷物の紐を肩へかけ直した。
背負った縦に長い箱の中で、金属が触れる重い音がした。
階段を上り終えると、気が遠くなりそうなほど長い廊下が伸びている。
視界に点在する生徒の影さえなければ、美術技法論の初回で例に挙げられるような、完璧な消点が見えるだろう。
群れる蟻のように大勢人数を抱え込んだとはいえ、一つの箱に詰め込む必要があるのだろうかと、考えずにいられない。
階段であれ、エレベーターであれ、弧を描いて登るエスカレーターであれ、この横に長い長方形の建物を出入りする教師は、一度は考えるはずだ。
この建物は、広すぎると。
朝の挨拶が左右から飛ぶ。
高い声に、おはようと小さく返した。
片手を上げて返事を返したのは、機嫌がいい証拠だ。
最も、それに気づいている生徒はいないが。
今朝は寝覚めがよかった。
毎朝、叩き壊してやろうかと攻撃的な衝動に駆られる目覚まし時計が叫ぶ前に目が覚めた。
昨夜ほどよく酒を体に入れて、早めに眠ったのが効果的だったのだろう。
旧知の友人、というよりは師と表現するに近い。
食事をしようと誘われ、珍しく酒を交わした。
夜半まで飲み続けるような間柄ではない。
うまい酒をうまい食事とともに堪能し、日が変わる前には既に宿舎でシャワーを済ませていた。
朝、目が覚めてからのタイムスケジュールはいつも同じだ。
ただ今朝に限っては、早く目が覚めた分、予定外の時間を取ることができた。
せっかくの時間だ。
ニュースをチェックしてもまだ時間に余裕がある。
部屋のコンピュータから、訓練室の空室状況を確認した。
さすが早朝。
所々、使用中で赤く示されているところはあるものの、ほとんど空室だった。
それでも自分と同じように早朝から体を動かそうと励む若人が、赤く表示された点の数だけいる。
真面目だなあ、と頬が緩んだ。
裾の長い上着を羽織ると、寝台の下から長い箱を引き出した。
散らばっていた生徒が、吸い込まれるように廊下の両脇を固める教室へ収まった。
口を開いた扉から賑やかな笑い声が漏れるものの、音量は随分と絞られているし、歩きやすくなった。
左腕を持ち上げた。
手首に嵌った時計は始業の鐘まで残り四三秒を指している。
目の前を通り過ぎる同僚が、教室内へ流れていく。
残り二十秒で、廊下に突き出た目標地点の部屋番号プレートが、鮮明に見えた。
十秒まで迫ると、少し歩調を上げた。
五秒前。
最後に腕を顔まで持ってきて、時間を確認した。
心の中で、静かにカウントする。
きっちり零秒で、教室と廊下との境界を跨いだ。
同時に、鐘が鳴る。
意味の薄い達成感が、浮いては沈んでいった。
この一連の心の動きも、今朝の目覚めの機嫌よさの延長だと、解釈した。
室内の半数の人間が、沈黙している。
後半数は、隣同士で耳打ちしている。
彼らの興味を引いたのは教師ではなく、背負っている巨大な荷物である。
テキストの詰まった箱でないことは確かだった。
決して体から離そうとしなかった箱を、教壇の下へ横たえた。
生徒の六割の目が、内容物が不明な箱に釘付けになる。
横は腕一本分程。
縦は長く、背の半分くらいはありそうだ。
厚みは手のひらを広げた程度しかない。
教科書を半ば叩きつけるように、卓上に乗せた。
これは効果があった。
教室内は静まり返り、座っていたほとんどの生徒が教師に集中した。
「クレア・バートンだ」
教壇に直立不動で生徒を見据えた。
教師は、女性だった。
焦点の合った目が再び逸れないうちに、彼女は声を高くして名乗った。
背丈から想像できる、低めの声。
しかし、その張りとよく通る透明感は、生徒の予想を裏切った。
歌劇の舞台を踏んだ経験があるのではないか。
そう思ってしまうほどに、真っ直ぐに声は飛んできた。
引き締まった体は、服の布地を通してでも判る。
「授業計画書ですでに頭に入っていると思うが、この授業の名称は『基礎戦術演習』だ」
計画書を見たからこそ、生徒はここにいる。
しかし、その内何割の生徒が、その授業計画の説明文に目を通し、内容を理解しようとしただろう。
今、彼らが心を奪われているのは、始まろうとしている授業内容ではなく、教師の存在感だった。
「授業の内容では『近接武器の説明と取り扱い方法』とあった。初回である今日は、その
武具の種類について説明していくつもりだ」
入学し、忙しくも平和な学園生活を送り数ヶ月。
ここに来てはっきりと「武具」という単語を耳にした。
それはディグダが抱えている、紛れもない現実を如実に表す。
そして再認識させられる。
「実際武具の説明に入る前に、説明するべきことがある」
顎を微かに上げた。
教室内全員の目を見るかのように、見据える。
短く切られた彼女の赤い髪が揺れる。
「これより先、専門課程に入り、各生徒が別々の道を歩むことになる」
戦闘に使用される道具に触れる人間、逆に戦闘とは遠い専門性を高めていく人間。
すでに生徒たちは異なった道を歩き始めている。
「忘れないで欲しいのは、戦争が決して過去のものではないということ。武具が遺物や単なる知識として消えていっているわけではないということ」
現に戦闘は激化し、ディグダクトルは兵を戦地へ運んでいる。
治安のためと公表された派兵。
しかしその戦火に焼かれた、ディグダがみなす「敵」の数は公にされずにいる。
平和であることを願い、平和であるべきと、ディグダクトルや学園は穏やかな時間が与えられてきた。
その裏側。
その下に息づく、もうひとつのディグダがあることもまた、現実だ。
見えないからといって、それを忘れてはならない、と彼女は戒める。
手にする武器、振るう力。
それは平和を生むと同時に、悲劇も産み落とす。
「では、本題に入ろう」
見えないディグダの現実に目を向け、行く末を憂う。
クレア・バートンも、そんな一人だった。
クレアが教卓の陰に沈む。
屈みこんで、銀色の箱についていた留め金を外す。
大きく口を開いた蓋で隠れ、正面に座る生徒たちには中にある物が見えない。
彼女は箱一杯に収まっていた、舟形の板を取り出した。
教卓の上に立てて見せるには大きすぎる。
尖った先を教壇に着地させ、立ち上がった自分の前へ縦に突き出した。
「これが、アームブレードだ。見たことはあるだろう」
テレビや雑誌で何度も見かけた形状だ。
しかし、実際の武器は二次元で見るより大きさと重厚さを感じた。
これが、ディグダの剣だ。
「ディグダ兵の軍用近接武器として採用されている」
巨大な葉のようだ。
生徒が頭で描く、その表現は的確だ。
細長い葉の形をした刃を持っている。
その刃の三分の一ほどには、繊細な装飾を施され、肘から下を覆うように装着する。
「他国の剣のように、アームブレードには柄がない」
腕の外側に剣の刃自体を、くっ付けた状態になる。
「腕に刃を固定する、その細工がこれだ」
教師が、剣先を基点にアームブレードを百八十度回転させた。
刃は腕を包み込むように、湾曲している。
腕に装着する部位に、横へ棒を渡してある。
単純な構造だった。
だからこそ、ディグダが長きに渡って使用してきた。
「どうだ、着けてみるか」
クレア・バートンは室内を見回し、窓際に座っている一人に、立ち上がるよう指で指示した。
男子生徒は教壇へ招かれ、教師の手からアームブレードを受け取る。
教師は軽々と手渡したが、腕の長さの三倍は長い。
腕に掛かる重量を予想して、生徒は差し出した両腕に力を込めた。
「えっ?」
アームブレードは今、彼の腕の中で抱え込まれている。
教師は武器に手を触れてはいない。
しばらく食い入るようにアームブレードに目を落とした後、ようやくクレアを見上げた。
「軽い、ですね」
刃物である。
両腕へ横向きに乗せられて、腕が沈み込むほど重いかと思っていた。
「装着してみるといい」
初めて触れる武器に、恐る恐る腕を通す。
指先は、腕を固定する輪を潜り、更に刃先に近い棒に触れた。
「握って」
彼は言われるがまま、棒を握り締める。
「感想は」
腕をゆっくりと水平にしたり、真下に下ろしたり、腕を捻ってみたりとアームブレードの感触を試している。
「やっぱり、軽い。こんなに大きいのに」
彼を含め、室内にいる生徒の大半が、提げれば腕が抜けそうなほど重いものだと思っていた。
「でも、ああ。何か合ってない。刃が長いのかな」
腕に通している輪に隙間が出来ている。
握りこんでいる棒も、少し遠い気がした。
「当然だ。刃の長さはもちろん、輪の大きさ、棒の位置。すべて個人の体形に合わせて、アームブレードが作られる」
「じゃ、俺たちのも?」
「刃は量産されているものを使用するから、四段階の中で最も自分の体形に合ったものを使用する」
特別仕様ではない。
受講している生徒の総人数を考えてみれば、当然だった。
「だったら、この模様も?」
緊張が解けてきた少年が左手で、腕の上にある細工を撫でる。
「軍内の階級が上になると、細工もより複雑になっていく」
クレア・バートンのアームブレードは、端から中心にかけて葉模様が広がっていた。
「ということは、私たちのはつるんとした銀の板ってことですか?」
三列目中央に座っていた少女が、挙手と同時に立ち上がった。
「そうなるな」
クレアから即答され、残念そうに眉を下げた。
「誇るべきものがあるからこそ、装飾に意味がでてくる」
クレアは目を閉じた。
最も、何を誇るべきかは難しい問題だが。
長い瞬きの末、彼女は大きな瞳を開いた。
生徒が顔を寄せて見ているアームブレードに右手をかけた。
「注目すべきところは、重量だ」
生徒は腕からアームブレードを抜き取ると、席に戻っていった。
「そして、硬度」
彼女は手に戻った武器を、教卓の上に乗せた。
「腕に密着させることで、その軽さは活きてくる」
機動力が高まる。
「以上で、主な性能は理解してもらえたと思う。その他、細かな疑問点は質問形式で答えていこう。なお」
教師の声が一際張りを増した。
ざわつき始めた空気を縛るためだ。
「説明が終わったら、各自手元にある端末でアームブレードのサイズを指定できる。忘れずに入力すること。ブレードは二週間後の授業から使用できる」
クレア・バートンがアームブレードの他、二種の武器の性能を説明し終えたところで、計算通り、鐘が鳴った。
アームブレードを箱へ収め、金具に鍵をかけると肩へ担ぎ上げた。
扉を通ろうとしたところで、同僚の教師と対面した。
二人は通れる大きな扉だったが、クレアの荷物が扉のスペースを占領していた。
譲るべきはこちらなので、脚を片方引いたところで、相手が扉の陰へ退いた。
意外な反応の速さに、クレアの動きが静止した。
半秒で復帰すると、目礼して廊下へ出た。
誰だっただろう。
その電気信号のように、一瞬の思考も切り替えた。
数え切れないほどの教師を学園は抱えている。
思い出そうとしても、名前の断片も浮かんでこないことはわかっていた。
クレアを見送って、教師が騒がしさを取り戻した教室内に駆け込んだ。
「クレイ・カーティナー!」
クレア・バートンは後方で、名前を知らない彼が叫んでいるのを聞いていた。
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