- - - - - - - - -  Gluttony  - - - - - - - - -




鼓動が、聞こえる。

血液が波打つのを、感じる。

こめかみを、流れる音を聞く。



そう、緊張しているんだ。

肩が、強張って痛い。

背中が引きつっているのが分かる。

汗が、額から流れて目の縁に落ちる。

生憎と、手はふさがったままだ。

今は、拭い取ることも
腕を動かすことも、自由じゃない。




もっとも

気にしている余裕など、ない。

時間も、精神も。






音を立てるな。
息をひそめろ。

夜の闇に紛れ
物の影と同調し
気配を殺せ。

自分を、消せ。




学んだことを、反芻する。
繰り返すしていくうち、精神の安定が訪れることを知っている。


暗闇で目を見開く。
細く浮き上がったシルエットを手がかりに
建物の構造、家具の配置などを認識する。

必要なのは頭の中に叩き込んだ地形と、それら点を繋ぐ想像力だ。

闇のせいだろう。
脳の回転数が、心地良いほど上がっているのが分かる。

口で細く息を吸う。

準備はできた。

いや、すでにできている。

聴覚を尖らせ
視覚のセンサを最大に張る。






誰かが言っていた。



直感とは高速の計算、無意識の推察である、と。



確かにな。

その直感もまた淘汰に打ち勝つ
因子でもある。









左右に目を走らせ、何度か瞬きをした。

まだか。

合図を待つ。

暗闇で少しでも情報を得ようと、目を開く。

動きを制限しているのは、緊張ばかりではない。
この月がいけない。

誰かが計ったかのように、煌々と輝く。

地表のすべての有機物を、あぶり出すかのように。

影が落ちるほどの明るさは、こちらの動きを読まれかねない。

チャンスは拾うのでなく、作るものだ。

これは、リーダーの言葉だった。

従うこちら側の役目は、人為的好機を活かすことにある。
それ以上でも、それ以下でもない。

与えられた仕事を、忠実に遂行する。
ただ、それだけのことだ。









壁が、生温かい。
隣り合っている壁に、背を寄せて、上がった呼吸を押さえつける。

静かだ。

鳥も、人も、虫も、風も、何もない。

みんな、何かを感じているんだ。
危険だという、本能のささやきかもしれない。



来る。


そう、予感した。














「G-1、所定位置到着」

「G-2、入り口押さえました」

流れてくるノイズ交じりの、交信。

ビルに埋もれて潰されそうな、廃墟。
敷地は、広い。
蔦の這った庭と、崩れ落ちたレンガの館。

逃げ込んだつもりだろうが、すでに包囲している。
四方を固め、上方にもすでに人員が配備されている。

常に敗北の確立をゼロに近づけた装備だ。
なのに、今は何戦目だろうか。
概数でも答えられる人間は、この百超の中で何人いるだろう。

「G-3、エリアAからKへ配置完了」

「G-4は」

「G-4、エリアL到着。目標を、肉眼で確認」

合図は、一度。
たった一言で済む。
それだけで、集まった百数十の意識が一本になる。

通信が途切れた。

次に繋がるときが、始まりのとき。

采が振られる。
目は、どう出るか。








「突入」






エリアL。

合図と同時に榴弾が炸裂する。
爆音にガラスが飛散する、鋭い音が混じった。

舞い上がった埃と煙で、闇は白くにごる。

「侵入路、確保!」

蝶番一つで木枠に垂れ下がる扉を蹴り捨てて、叫んだ。

エリアLから、エリアMへ。
破壊された扉と窓から、濁流のように黒服重装備の小隊が一挙に流れ込む。
十数の銃口が、たった一つの目標に集中する。


沈黙と月光。


目標は、ギリシャ彫刻のように動かない。


月が指す窓枠に腰を下ろし、真っ直ぐに、こちらを見据えている。


焼き尽くすような眩い光の中、唾を飲み込むことすら躊躇うほどの、威圧感に占められた。

凍結された空気の中、誰一人として動けずにいた。
たった一つの存在のためだけに。

呼吸の流れすら聞こえてはこない。
汗が流れることすら、許されない。
完全な沈黙とは、これ以上には存在し得ない。
人としての個や存在自体が完全に、呑まれていた。

次に動くものがあるとすれば、死への移行、その過程かもしれない。

エリアMに踏み入れた人間、全員が感じ、理解していただろう。





動いたのは

動けるのは

その権利を有するのは

ただひとりだけ。







白皙の微笑。







優美というよりむしろ、襲ってきた感覚は、恐怖だった。







「撃て!」






わずかながら開放された空気を、リーダーの声が切り裂いた。

訓練され、選び抜かれたエリート。
それらを指揮する物は、それなりの器を有する。
馬鹿じゃないという意味だ。



水平に降る、砲煙弾雨。

目に、染みる。

耳鳴りがする。

硝煙に部屋が満たされる。


何分続いた?

集中豪雨を浴びた目標は?

その姿を、確認した人間はいるか?

逃げた気配はない。
なのに、どうして不安が過ぎるんだろう。



「目標、確認できません!」

半ば悲鳴のような叫びが、入り乱れる銃声を貫いた。

かき消された声を拾いきった指揮官は、さすがという賛美を贈りたい。


「止め!」


直ちに飛ばされた号令は、明確。

轟音は、再び静止へと転じる。

オンとオフのスイッチのように。

ゼロとイチのように、整列される無秩序。

まだ煙の立ち上る銃口を窓辺に向けたまま、呆然と立ち尽くす細身の男。
彼が叫びを上げた通り、銃の示す先には、奴はいない。

あるのは無数に転がる空薬莢と砕け散った窓ガラスと木片だけだった。

「G-3は何をやっている!」

ヒステリックな声が、耳鳴りの残る耳に痛い。

「G-2、確認しました!」

朽ちた庭の木々の陰へ配置されていた伏兵が騒ぎ出す。
窓ごと大きく抉られた丸穴から、細い銃身を上方へ掲げているのが見下ろせた。

「目標位置エリアM、直上です!」

「なんだと!」

退路はすべて封じたはずだ。
万一、上階から降下を試みようとも、そこにはG-2が獲物を待ち構えている。

G-3は、各エリアを守備し、ネズミ一匹たりとも表へは出さない。

「この、真上」

絶句するのも、頷ける。

だが、指揮官は無能じゃない。

目を見開き、一瞬言葉が喉に支えたが
命令はエリアM全員の耳に届いた。



「打ち落とせ」



絶句し呆けるのは、後だ。

エリアM、全員の銃口が天井を向く。

蜂の巣になった天井の破片が、崩れ落ちてくる。
破片の一つ一つを目で追うが、その中に求めるものはない。

「逃走した!」

「目標、エリアJへ移動」

「G-3、しくじるなよ」

「G-4は被害者を確保しろ」

「全員、作戦02へ移行」

市街地戦だと。

最悪な方向へ向かっている。
何のために、非公開組織が存在するのか分からない。

相変わらず、月は動くものを照らし出している。

だが、奴が表へ出たとなると

光が不利なのは、両者とも。


条件は、同じ。



さぁ、どっちにつく、月の女神様。








「被害者、確保しました。惨い。首が」

「私見はいい。状況だけを報告しろ」

「被害者は、死亡」

遅かったか。

「回収しろ。G-4のコード、アルファからシータまで作戦02へ。以降は別命あるまで待機」

「さて行くかな」

銃を肩に掛け、侵入した窓を跨いだ。









繁華街に灯った華やかな夜の光は、徐々に落ち着きを見せている。
あと三時間もしないうちに、日は昇るだろう。

喉に傷を受けた死人が出ては、犯人を追い詰める。
いつも、後手にしか動けない弱さが、こちらにはある。
被害者を辿っていき、ようやっと犯人に行き着いても
うまくかわされることが、ほとんどだ。

せめて先回りして、被害人数の抑制に繋がれば。
願ってはいるが、実現できていないのは
犯人たちの存在自体が、不確定だからだ。

結果、被害だけが広がっていき、何も見つけられない。
その繰り返しだ。
半分ほど、今だって諦めているかもしれないな。
追いかけて、姿を見つけても、捕まえられない。

本当に、奴はいるのかと、疑いたくなる。
撃つ感触、捕縛した感触がない以上、幻であったと言われて、信じてしまいそうになる。





「おい、逃走予測地点は、あっちだぜ」

隣に並んで走っていたコードネーム・ゼータが、睨みつけてきた。
声を落として怒鳴る、なんて器用な真似をするもんだ。

こいつの本名は知らない。
やつだって、こちらの本名など知らないだろう。

「こっちだってささやいてるんだ」

「何がだよ」

「月の女神様」

ゼータが、マスクの下で吹き出した。

笑いやがったな。

「賭けるか?」

「何を」

「お前の言う、月の女神様が俺たちを導いてくれたら、ボトル一本振舞ってやるよ」

「OK」

「ま、お前が空振りするのは見えてるがな」

「勝たせてもらうさ」

月を仰ぐ。

雲はかかっていない。

女神様は、ご機嫌で笑っている。

「勝つのはこっちだ」










走った。

脇に挟んだ銃が、ガシャガシャと耳障りな音を立てる。

「どっちだ?」

ゼータが首を左右に振る。

複雑に入り組んだ石造りの建造物しかここにはない。
道なのか、ビルの狭間なのか、明確に分けられていない。

分ける必要もないのかもな。
通れれば、そこが道。
雨がしのげれば、そこが建物。

ここはそういう場所だ。
すべてにおいて、境界は曖昧だ。

「こっちだって、女神様は言いたそうだ」

あごで指し示したのは、薄っすら光指す場所。


流石に息が苦しくなってきた。
あぁ、たぶん八分は走り通しだろう。

「戻るか?」

マスクの下で喘いでいるのに気が付いて、ゼータが声をかけてきた。
お前は帰るつもりなど、ないだろう。

笑いを含んだ口調から、心配百パーセントで呼び止めたわけじゃない。

肩で息をしているのは、ゼータも同じだ。

賭けを止めてか。
冗談。
言い出したのは、そっちだ。

「行く」

行き止まりに行き着くまで。
走ってみせるさ。
それに、まだ月だって見放してないんだからな。

気持ちいいだろう?
走って、光に打たれて。









「まじかよ」

先に息を飲み込んだ音がしたのはゼータだ。

白い、発光体。

違う、光の加減か。
それとも、本当に光っているのか。

どっちだっていい。

「言っただろう? 女神様がついてるんだって」

いや、本当の女神はどっちだろう。
あの輝く、人間を模した生き物は。

「ボトルはくれてやる。だがあいつは、俺が頂く」

ゼータは、ゆっくりとサブマシンガンを持ち上げた。

銃口が、目標に向く。
ぶれない。
静止した銃身が、ゼータの腕の確かさを示す。
恐怖を感じたのは、どちらに対してだろう。

恐れを知らないゼータに対してか、それとも彼の狙う目標に対してか。
膠着状態が続く。
目標は、こちらを見据えている。

あの部屋で、こちらを見つめていた、冷え切った瞳で。


「来ると思っていた。来たら話をしようと、思っていた」

初めて聞く声だ。
糸のように。
張りつめた弦のように、淀むことはない。

壁際に放置された木箱の上に、座っていた。

ほこりが立ち上る石畳に、真っ白な足を下ろした。
立ち上がって、こっちに近づいてくる。



殺意はない。
動くたびに空気が引き裂かれるような、緊張は感じていたが
死を予感してはいなかった。

「話をしたいと」

響く声は、細くまるでそれは
歌のようだった。

心地いいとすら、感じた。
銃を構えることすら忘れてしまうほど。

耳を破ろうかという、轟音が鳴り響いた。
ゼータのマシンガンが叫びを上げている。
ただ一点を狙っていた。


連射される弾は、一つたりとも命中しない。
光を弾いて、目標が飛翔する。
動きに合わせてゼータの銃口も角度を上げていった。

天頂に達しようとしたとき、紅く弾けた。




真上の白い飛行体ではない。




真横に踏みしめ立っていた、ゼータの肉体だった。












何を見ていたのだろう。
感じていたのは、恐怖だったのだろうか。
今度は、自分が殺されるという。
でも、逃げなかった。

賭けの戦利品、貰い損ねてしまった。
ゼータの軽口を、聞くことはない。

腕に乗っかっていた銃は、転倒の衝撃でゼータの手から離れ
くすんだコンクリート壁にぶつかった。



「話がしたいと、言ったのに」

長い髪、金髪か。
いや、銀だ。
月のように、真っ白な。

肌も、今が冬だったら雪を連想しただろう。

白いのに、右腕の肘から下は真っ赤に染まっている。
ゼータは、ただの動かない肉の塊になっていた。

「今まで、口を開こうともしなかったのに」

鼻まで覆う、黒のマスクが邪魔で、左手で剥ぎ取った。

「今になって、なぜ」

「興味」

「お前の餌にか」

「ペットという存在は、あなたたちの世界には存在している」

糧となり得る鳥でも、人間は愛玩できる。

「殺さないのか」

「死にたいの」

垂れ下がった指先からは、鮮血が玉になっては、落ちる。

「殺さないの」

同じ質問を、殺そうとしている相手にされるとは。
実に奇妙だ。
そう、それはこちら側の感情も同じ。

本当に殺そうとしているのか。
今は、会話を楽しみたいと思っている。
それは、あちら側も同じ意見のようだ。

「銃に手を伸ばしただけで、こいつと同じになるだろう」

ゼータは、仰向けのまま動かない。
もう、動くこともない。

「追う理由は何」

「生きるため」

「死ぬかもしれないのに」

「生きるだけの実力があると信じている」

微笑する。
何が、楽しい。

「まさか人と話ができるとは思ってもみなかったから」

「待っていたくせに」

ここへ、組織の人間が来ることを予想していた。

「一時間前の話」

人と会話しようと考えたのは、思いつきか。
ならば、こうして生きているのも、興味の一部。
思いつきの一部か。

月の光が緩んだ。
うす雲が、ようやく現れたんだ。

「また、会いましょう」

直立していた背を、わずかに屈めたかと思うと
白の服をひるがえして、跳躍した。

灰色のビルの屋上へ着地すると、さらに跳躍する。

ほんの三秒間で光の中に、消えてしまった。







「Vampire」







呟いた一言は、建物と建物の間をすり抜ける
生暖かい風に溶けてしまった。















目が覚めた。
何時だろうか
何時間眠っていたのだろうか
いまどこにいるのか
瞬時に判断ができなくなる。

目は覚めている。
だが、視覚はまだ動き出していない。
焦点が合わないまま、息を吐き出す。
熱い。

瞬きを何度か繰り返しているうちに、背中がやわらかいベッドの上にあるのを感じた。
眺めているのは、灰色の壁。
いつだって、灰色だな。
白いのは、月光だけだ。
あの夜に見た、包まれた光だけだ。

記憶が、混濁している。

脳が空回りしているのか。
場面が、同時に複数流れ出す。
まるで、頭の中に何台もモニタが並んでいるかのようだ。


眠りと目覚めの狭間だ。
死ぬ瞬間も、こういうどろどろとした感覚なんだろうか。
自我も何も、溶けてしまって
流れいく過去を、止められない。


まだ、生きている。
まだ、脳は使える。

あれから、どうなった。

記憶を探る。
流れ去る過去を、呼び止める。

そう、通信が入った。

撤収するぞ、という指令。
応じた、状況報告。
十五分でそちらに向かうと宣言した通り
ぴったり十五分後に十八人が駆けつけた。
他の連中は、逃亡者を追っていると報告してきた。

ゼータを診て、眉を寄せた。

刃物でできる傷ではないという診断だった。

それからは、嫌というほどの質問を浴びせかけられた。
二人だけの行動の理由は。
どうして応援を呼ばなかったのか。
なぜゼータだけ殺されたのか。

一つ目の質問には
逃走する人影を見たから、追跡した。

二つ目以降には
会話を求めてきたので、余計な行動を取ると殺されると判断した。

おおよそ、そういった質問と答えだった。


ゼータの胸部には、抉られた傷口があった。
殺すためにつけた傷だ。
うめき声も上げられずに、倒れた。

廃屋で発見された被害者の首には、ゼータとは違った傷が残されていた。
抉られる傷ではない。
小さな二つの穴だ。

信者だったら、人差し指で縦横に線を引いただろう。






視界がクリアになっていった。

フローリングの床と、延長線上に乗っている、冷蔵庫。

酒を。

ワインがあったか。
限定品ですので、と押し付けられて買ってしまった赤のワインが。

ブランケットを引きずって、木の床に足が触れた。
火照った体には、床が冷たく感じた。

キッチンに伏せてあったグラスを手に取り、冷蔵庫を開ける。
ワインが一本寝かせてある。
他には塩と砂糖が入っていた。
口の中に入れられるものはすべて、冷蔵庫の中に入れてある。

中でも一番面積を占めていたワインを抜き取ると、冷蔵庫の中は閑散としたものだ。
調味料を冷やすだけの箱なんて、電力の無駄だなと感じた。
明日か明後日には、コンセントが抜けた、ただの箱になっているだろう。

「お前の分だ。お陰で話ができた。礼を言う」

ボトルとはいかなかったが、グラス一杯のワイン。

「賭けは貰った。戦利品は、かのヴァンパイア殿との逢瀬」

十分すぎるほどだろう。
さて、お前にとっては大きすぎる代価だったかもしれないが。

「捕まえてやろう。お前の分もな」

露を吹き始めたグラスを手に取り、少し掲げてから飲み干した。











欲望があるとしたら、何だろう。




なぜ、追ってきた。

その答えとして「生きたいから」と、答えた。

追いかけて、追い詰めて、捕らえて、もしくは殺して。

その代価に金を貰う。

それで食べ物と寝る場所を手に入れて、命を保つ。


その繰り返し、繰り返し。


いつも来る、同じ朝のように。
変わらない、つまらない毎日のように。




そのサイクルが果たして、生きているといえるのだろうか。

今まで殺した、ヴァンパイアたち。

しかし、今度は今までとは違う感じがした。

もう一度、話がしたいと思うのはこちらのほうだ。


興味。


あいつと同じじゃないか。


自分が何のために生きているのかなんて、分からないけれど、ただ
今はまた、あいつに会いたいと思った。




















再び外に出たのは、やはり夜になってからだ。

どうも、昼間が苦手だ。
騒がしいのが、苦手だ。
人の話し声が、苦手だ。
シアワセだと主張してるかのような笑い声。



嫌いだ。




太陽の直射日光が嫌いなのも、心が相当捻くれて作られてしまってるからだろう。
純粋無垢な笑顔ほど、視線に困るものはない。

職業病だろうかと、最近思う。


華やかな表通りから一本奥に入るだけで、雰囲気は大きく変わる。
湿っているくせに、ぴりぴり締め上げてくる。
さらに、人二人分くらいの細い道に入ると、途端身の危険を感じるようになる。






行きつけの店は滞った空気中、看板も掲げずにあった。




「いらっしゃい」

厚い目蓋の下から、黒目だけ持ち上げて、聞こえるか聞こえないかの声を漏らした。
呟くのは、馴染みの客だけだ。
つまり、お金を落としていってくれる客のこと。

「ひとつ探し物」

カウンターに並んでるのには興味ない。
どうせ、モデルガンだろう。
見抜けない素人は来るな、という威嚇か。
それとも、これも趣味のうちかもしれない。

「ハンドガン」

「仕事用か?」

それ以外に使う趣味はない。

「使いやすいの。九mmでいい」

「いくつか出してやる。裏に回れ」

カウンターに立って、銃をばらしていた親父が大声で怒鳴る。

「ハリー! 客だ」

カウンターの横を通って、奥の部屋へ続く扉に手を掛ける。
木製だ。ぎしぎしと鈍い音を立てて開いた。
オレンジ色した電気の廊下に出る。
通路の右手に、扉がある。

「入れ」

緩んだ木の廊下が鳴く音で、分かったんだ。
ノックをする前に、しわがれた声がドアを挟んで聞こえてきた。

「この間はどうも。あれは、いい」

ハリーは扉の向こう、作業台の上に背中を丸めていた。

「今度は何が欲しい」

ハリーはようやっとこちらに目を向けた。
機嫌がいい証拠だ。
相変わらず手は止めていなかったが。

「軍支給のマシンガンでも不安か」

目を、手元の銃へ戻す。

「コレクションは今いくつある? そのうち胃に穴が開くぞ」

ハリーは髭を震わせて笑った。
慎重になって悪いことはないだろうに。
外側から穴が開かないように、気をつけるとしよう。

「近接戦になるかもしれない」

「支給品も悪くはない」

毛むくじゃらのハリーのいいところは、人で銃の評価を決めないところだ。
軍は好きじゃないが、選んだ武器はハリーの目に引っかかるものがあったらしい。

「悪くはないが、好みに合わない」

「そういうことなら、請け負おう」

ハリーは認めないが、彼なりの美学だ。
気に入ったものしか、握らない。
傍に置かない。

銃が恋人。
そう考えてるに、違いない。
見ているこっちの方が赤面ものだ。

だが、あながち外れてもいない。
手に馴染むもののほうが良く当たる。
愛して、手入れしないとご機嫌斜め。

恋人に、近いだろう。

銃を向け合ったら、一番信頼できるのは
自分の腕と、銃だけだ。

「今あるのを、見せてやる。気に入らなきゃ他へ行け」

ハリーが大きな尻を持ち上げて、熊のように床を軋ませて目の前を横切った。
部屋の奥にくっ付いている作業台の右手に、鉄の茶色い扉がある。
手を触れる度に、錆び臭さが染み付くみたいだ。
鍵は五重にしてある。

ここに、この店の商品が収まっている。
客は入れたことがない。
以前にそう言っていた。

ハリーに黙ってついていく。
奥は暗くて、今時あり得ない裸電球が、廊下に点々と一列に並んでいる。
囲まれている壁も天井もコンクリートだ。
ひんやりと湿った空気が、喉を出入りする。

突き当たりの扉で、三重の鍵を上から順に外した。

「好きなの選べ」

ハリーが扉を支えて、招き入れた。
すごい。

あらゆる火器が揃っている。
しかも、外れなし。
どれも一級品だ。
ハリーのコレクションルームだから。

マシンガン、ライフル、ショットガンも。

「ハンドガンだったな。左の棚だ」

眺めて回る。

手にとって、握っては棚に戻すを繰り返し、五つに絞った。

「こっちだ」

ハリーは二つを手に、先行する。

残り三つを両手に持って、ハリーを追いかけた。

「射撃場」

説明されずとも、見てすぐ分かる。
小さいながらも部屋にはブースが二つ並んでいた。
立派なもんだ。

「サービスだ」

九mmパラベラムの箱をブースの台に置いて、ハリーは後退した。


五つとも試射してみたが、三つ目のハンドガンが、興味を引いた。

「イタリア製だ。気に入ったか?」

九mmを装填して、正面を狙う。

「総弾数も申し分ない」

「これにする」

改めて、手元の銃を見下ろした。
手に馴染む。

「残りの弾は付けといてやるよ」

「ああ。ありがとう」

「戻るぞ」

二人が出るか出ないかの内に、ハリーは射撃場の明かりを消した。
流石にここは裸電球ではなく、影のかかった蛍光灯だった。
あと二、三日で切れてしまうだろう。




















    月に誘われて、私は街に出た

    私を呼ぶ声が、窓のガラスを通して

    私に届いたから



    月光に手を伸ばして、今度はあなたの名を呼ぶ

    光に乗せて、風に乗せて

    なのに、あなたは来ない



    遠くにいるの

    それとも近くに

    それも、わからない









タクシーのラジオからノイズ混じりで流れる歌声に、薄く目を開いた。
うとうととしていたらしい。
気分がいいのは、コートの下で温まっている銃のせいか、歌のせいか。

好きな人の名前を呼ぶ。
そんなこと、久しく経験していない。
肌寒く感じるのは、その寂しさのせいかもしれないと、自嘲した。

熱いコーヒーが飲みたくなった。
レストランで出されるようなものでなく、豆から挽いた香ばしいコーヒーが飲みたい。

「コーヒーの旨い店、行ってくれ」

「シーカー通りではなく?」

家に帰る気はしない。

「気が変わった」

「コーヒーの、旨い店ですね」

「まずかったら、訴えてやるからな」

ドライバーは声を立てて笑っていた。



今回は良い奴に当たったらしい。

滑らかに青い車は停車する。
テクニックは、中の上。
夜中の客だというのに、運転している男の笑顔は爽やかだった。
もみ上げと髭とが繋がってはいたが。

「ありがとう」

少しシワの寄った紙幣を、ドライバーに握らせた。
釣りを受け取らず、そのまま車を降りた。

深緑にペイントされた看板が、入り口の上に掛かっている。
電灯が当たらないのではっきりとは読み取れなかったが
「クレアズカフェ」とでも書いてあるんだろう。

「この時間でも空いてる店の中で、ここが一番だ」

中に入ると、テーブル席に何人か座っていて、意外だった。

カウンター席に座って話しかけられるのが嫌だったので、テーブル席に迷わず座る。

注文し終わってから、カップが来るまで、人間観察をする。
昼間だったら、外を見ることもできただろうが、残念ながら
窓は店内を反射していた。
代わりに窓に映る店内の様子を、ぼんやり眺めることにした。

「最近、多いよなぁ。夜中だぜ。しかも性別なんて関係ないってな」

「歩き回ってる奴が悪いんだよ」

「俺たちも」

「狙わねえよ、お前みたいな臭い奴」

「お前もだろ」

下卑た笑いが小さく交わされる。
耳をそばだてた。


「無差別殺人かよ。新聞見たか? 怪現象だとか騒いでやがる」

「信じてるのかよ。警察が幽霊課を作った、だったか?」

「違う、心霊課だっての」

「大して変わらねえじゃねえの」

想像を超越した事実は、ゴシップで終わるか。
今だって、信じられないんだからな。
現場の人間だって。

「おまたせしました」

かわいらしい声が降って来た。
小さく黒い波を立てて、カップがテーブルに置かれる。
十代だろう。
真面目そうな娘だ。
こんな夜中に仕事をしていて、大丈夫なのだろうかと下世話な心配をしてしまう。

白いカップに指を絡ませる。
温かい。
機嫌がいいんだ。
波が静まった黒い液体に、顔が映った。
招待状を貰ったからかな。
近いうちに、会える気がする。

まだ熱いカップに、口をつけた。
今度からは、タクシードライバーの戯言にも少しは耳を貸してもいいかな、思った。
























店を出たのは、一時を少し過ぎてからだった。
街はまだ、賑やかだった。

何となく、本当に何となくだったけれど、作戦が行われた廃墟に行ってみたくなった。
ここから歩いて二十分もかからない場所だったからだろう。
半時間かかるようなら、行かないでいた。
その程度の思い付きだ。
それに、散歩をしたくなったのも決意した原因の一つ。

何度も見た、地図と見取り図。
頭の中に、細部まで再現できる。

会える気がする。
犯人は、現場へ戻ってくると言うだろう。

街路樹が、風に揺れた。
葉のこすれる音を聞くのが好きだ。
この間は、それを聞く余裕すらなかった。
屋敷にはあんなに樹が生い茂っていたのに。

破壊され崩された石壁に、外された鉄門がもたれ掛かっている。
土道の向こうに、屋敷がある。
あのときの緊張は、風で流れてしまったようだ。
穏やかだった。
コーヒーの匂いに包まれて聞こえてきた、幽霊の話が浮かび上がった。
当たらずも遠からず。
幽霊課というのもありだな。

隠れてこそこそと、この世に認知されてないものを追いかけているんだ。


放っておけばいいと考えたことが何度もある。
いつだって、頭の隅では考えている。

人が殺されるから、奴らを追う。
だけど、増えすぎじゃないか。
人間のことだ。


逆説的に。

だから奴らに食われてるんじゃないか。

それでバランスが取れてるんじゃないか。

人間は、自分たちにすこしでも危険が降りかかると
干渉してくる存在に対して、病的に拒否したがる。

生物ってものは、食う代わりに食われる危険もある。
当然のサイクルなのに
事が人間に及ぶと途端に、それを異常だと認識する。







崩れかけた塀を飛び越えて来た風が、砂混じりだ。

考え事をしたりするのにちょうどいい散歩だった。

思いのままに生え茂る草を踏みつけて、門の残骸を通り抜ける。




玄関ホールを抜けて、かつてシャンデリアがあっただろう上を見上げた。
今は天井から垂れ下がったワイヤーだけが、名残を残している。

コンクリートがむき出しになって弧を描いて上る、階段。
二階の部屋が、エリアM。その手前の廊下がL。

ほんの二、三日前はあれだけ大掛かりな作戦がこの屋敷を賑わせたにも拘らず
嘘みたいに静かだった。

事前に頭へ刷り込んだ地図と重ね合わせて、一つ一つ確認していく。

そう。
一階、玄関フロア奥の部屋が、Dだった。
そこはかつての音楽室だったんだろう。
壁半分を、窓ガラスが占めている。
そこからは、裏庭が見えるはず。


引き込まれるように、足を進める。
階段の影にひっそりと口を閉ざした、木の大扉。
材質は何だろう。
硬く、重い。
一人で開くには、重労働だった。

室内は、電灯が無いのに明るい。

眩しい。

足がつい向いてしまったのも
引き寄せられたのも、月の魔力だろうか。

「また、月か」

あの夜も、そして今夜も。

先夜より光の濃度が濃いのは、満月だからだ。

大広間の中央に朽ちかけている、グランドピアノは白くにごっていた。
埃を取り払ったら、さぞかし美しく光るだろう。

「するとお前は、魔女か女神か」

どちらでもいい。
そう、今夜はとても気分がいいのだから。

「私が何者か、あなたの方がご存知でしょう」

「言うまでもないな」

蓋を閉じたままのピアノの椅子に、腰掛けていた。
ピアノを弾く趣味はないらしい。

黒と白の、モノクローム。

頭の中ではすでに、戦闘体制に入っていた。
相手の行動パターンをいくつかシミュレートする。

コートの中へ右手を差し入れた。
革のホルスターに収まる、ハリーから買い付けたばかりの銃へ手を掛ける。
抜き出して、正面に腕を伸ばした。
セイフティを外して、ゆっくりと照準を合わせる。

「十字架でも首から提げてくるのかと思った」

「この弾に聖水が仕込んであるのかもしれない」

「そんなものが効くと思う」

一発、二発、三発と連射する。
奴の背後にある、装飾された窓ガラスを粉砕した。

破片の中に、奴はいない。
どこだ、どこにいる。
目を巡らせるが、視界にはいない。

どこに、消えた。

「ここにいる」

耳のすぐ横から、声がした。
振り返って銃を構えようとした腕を、取られる。

「いい物をお持ちだ。この前のものより、ずっと良い」


腕は固定されて動かない。
なんて力だ。

「お前の求めるものは何だ」

「それも、答えを知っているはず」

渾身の力で、両腕を振り払った。
よろめきながらも、部屋の隅に転がり込む。

肩膝で安定を保ちながら銃を構えなおせたのも、訓練の成果だろう。

「質問を変える。人間の血を吸って生きる理由は何だ」

「あなただって、食物を食べて生きている」


生物は生物を糧として生きる。
自然のサイクルだ。
巡っている。
ならば、人間も食われてもおかしくはないと。

「何のために。あえて言うのなら、それは記憶」

記憶だと。

「長い生命のなか、たった一シーンだけのために、私は生きている」

何が言いたい。
「忘れた記憶でも呼び戻そうというのか」
「月の夜は、気分が良い」
両腕を広げた。
肩に掛かった銀の髪が、音を立てて肩から落ちた。

「月の光」

銃を両手で握り締めたまま、細められた目を見据える。

光で、すべてが銀に染まった世界だ。

「窓辺」

黙れ、黙れ。

トリガーに掛かる指へ、力を入れた。
ほんの些細な心の揺れが、鉄の塊を凶器に変える。

「手にしている本」

三発の銃弾は当たらない。

ただ、髪を数本切り裂いただけだった。
宙に舞った一房は、白光に溶けていく。

「ふと私が見上げると、蝋燭の光を背にしたあの人と目が合う」

立ち上がって、照準を改める。
実弾は有効のはずだ。

「光の中に、あの人はいる」

流弾が、ガラスを砕いた。
喜んで流れ入る風が、髪を泳がせた。
銀色が、煌く。

「逆光で顔は見えないけれど、胸に広がる温かさ」

更に、三連射。

銃弾に追われ、女神が壁を駆け上がる。
みごとな宙返りで、黒塗りのピアノに着地した。

猫のように、音は立てない。

「あなたにわかるか」

知らない。知りたくもない。

今一番重要なのは、生き残る、ただそれだけだ。

「それが人をむさぼる理由か」

「むさぼっているのは、あなたも同じだ」

お前が喰らい、殺してきた数には及ぶはずもない。

お前は、簡単に殺してきたじゃないか。

死を与えることなど容易いことだろうが。
ゼータを殺したように、今度は。

「あなたの目に映るのは、何」

「目の前にはお前しかいない。他に何を見ると」







「灰色の世界」







な…に…?


言われて、肩が震えた。

見透かされているようで、悔しく思うより、ただ言葉を失っていた。
見据えられる銀の瞳が冷たく、恐怖すら感じた。

色のない世界。

それは

「夢も、記憶も、未来も」

壊れる音がした。

何の音だろう。

これはきっと、心の音だ。

悲鳴だ。

聞きたくないと、叫んでいる。

考えたくないと、大声を上げている。



「やめろ!」


鼓膜が破れそうな、大音響。
手のひらが受ける衝撃。
反動で振れる両腕。
火薬の匂い。
汗。
跳ね回る薬莢。


部屋は乱射される銃声で満ちる。
引きつった絶叫で、満ちる。

なのにどうして、こんなに空しいんだ。
どうしてこんなに、満たされない。

「あなたの求めるものは何」

求めるものだと、そんなもの。

「必要ない。ただ、お前たちを殺せればそれで」

「私たちの死を喰らって、何を得ようとしている?」

何を、だと?

「気づいていない」

弾が尽きる。

分かっていた。
錯乱していてもちゃんと、カウントしてる。
そう、教え込まれていたから。
脳に、染み込んでいる。

「死を求めていることに」

腕が動かない。

目は見開いたまま、銀の瞳を映していた。

「他人を殺して、死を感じて、自分の死に重ね合わせようとしている。死を疑似体験しようとしている」

喉には冷たく硬いものを感じている。

「死にたいのでしょう」

殺されたいのでしょう。

違う。違う。違う。

死なないために銃を持つ。
殺されないために、技と知識を身につけた。
自分を守るため、相手を撃つために。
死にたいのであれば、銃を服の中に忍ばせたりはしない。





殺される。

「死なんて考えてもない」

密着しているのは、細く鋭い爪だ。

研ぎ澄まされた、刃物のように。

「死に場所を探しているくせに」

一定のリズム、冷ややかな声。

「生きるために戦っている」

死ぬためではない。

なんて白い腕だろう。
血が通っていない。
コーヒーの入っていた磁器のカップの方が、よほど温かみがある。
持ち上がって、こちらに迫ってくる。

避ける間もないまま、それは首に伸ばされた。
長く伸びた爪が、喉に食い込む。
皮膚を裂いて流れ出した鮮血が、奴の指を伝う。

「ならばなぜ、逃げなかった。殺されるかもしれなかったのに」

そう、隣でゼータが殺された。

「お前に、殺意がなかった」

「違うだろう?」

違わない。

「死にたかったんじゃないのか」


奴の体が浮き上がった。

ゆっくりと、ゆっくりと。

違う、こっちの体が沈み込んだんだ。

膝から力が抜けた。
いったい、何を。

脚を見た、視界に赤が混じる。
腹を、抉られていた。

痛みは、感じなかった。

「どうした。喰わないのか?」

目の前に立ちはだかる奴の、真っ赤に染まった右手がはっきりと見える。

ゼータのときと、重なった。

同じじゃないか。

殺されるんだ。

予感か。
直感か。
それとも、希望。

死にたいのか? こいつが言うように。








「世界は灰色か」

夢がどうした。
未来など、見る必要はないだろう。

「世界は醜いか」

お前には関係ないことだ。

「だれも自分を理解できないか」

して欲しいとも思わない。

生きていければそれでいい。

一番に考えるのは自分のこと。
一番信じられるのも自分自身だ。
そうしてきたし、これからもそれは揺るがない。

「変わろうとしないから、世界はいつまでも灰色だ」

白銀の女神か。

じわりじわりと熱く、痛みが波を打ち始めた腹に手をやった。
生温かい鉄の匂いが、立ち上ってくる。
薄目を開けて、見下ろしてくる奴を、見つめた。

「お前はどうして白でいられる。溺れるほどに人の血を吸ったというのに」

強さは、どこから湧き出る。

「求めるのはひとつだけ。他には何も望まない」

「こちらだって、同じだ!」

「違うな」

睨みあげても、引こうとしない。

その強さは何だ。

「私が求めているのは、たったひとつの記憶だけだ」

「違うだろうが。記憶とやらにこびり付いてる『あの人』って奴を探してるんじゃないのか」

ならば勝手に探すがいい。
人と話して、何が楽しい。

「顔も見えないというのに」

じゃあ何を探してるんだ。
求めるって、いったい。

「残っているのは胸に残る『失いたくない』という感情だけだ。たったひとつの」

何が言いたい。

「どこで生まれたかわからない。いつ生まれたのかも。自分のすべてが」

ヴァンパイアはみな、こいつのようなのばっかりなんだろうか。
知らないまま生まれ、人の血を吸い、生きて、いつの間にか死んでいく。

「目覚めて、真っ白の光の中、脳に残っていたのはたったひと欠片の記憶だけ」

記憶を、繋ぎ止めるだけに生きている。

「そのためならば、何百人の血を取り込もうと、構わない」

不確かなものに、どうしてこんなに強くなれる?

「何千という人間を、殺したって構わない」


少しだけ、見えた気がした。
こいつの中が。







女神の中は、空っぽだ。






一つだけの記憶を繋ぎとめ、もしかしたら再生できるかもしれない。
それだけのために生きている。
それしか、持っていない。
そして、そのためにすべてをかけている。

すべての生を呑み込み、食い尽くす覚悟。

なぜなら、奴にとって
たった一つの記憶は、存在の価値は、何物にも代えられないから。

それ以外は、無意味だから。

何も持たないから、あれだけ強くいられる。

逆か。

ゆるぎない、たった一つ守るものを抱えているから。

すべてを投げ打って、すべてを屠っても変えられない何かを。
譲れない、何かを。

「あなたは、だれかを愛したことがあるか」

それが、答えか。


























手の下で、脈打っている。
服の間から、赤が漏れ出してくる。

だれかを愛したこと、か。

目を閉じた。












こいつらは、いったい、何だ。
今までずっと追いかけてきた。

人を殺すから。
人を喰うから。

理由なんて、それだけで良かった。

いや、そもそも理由なんてものは、言い訳に過ぎないから。
あれば効率よく事が運べる。
それだけの存在意義しかない。

そうやって、理由を作りながら奴らを追いかけ、傷つけ、殺していく中で
いったい今まで何を見てきた。
こいつらの何を知っていたというんだろう。

何も知らなかった。

知ろうとすらしなかった。



見たくなかった世界。
見ようとしていなかった世界。
世界はあまりに広い。
そして、知れば知るほど、一人だと実感する。 あ
まりにそこが、孤独すぎて。
自分の小ささに、空しくなるから。
殻の中の世界は、灰色だった。



自分を見つめ。
いや
自分しか見ないで。




いつしか死を得るために生きることしか、考えていなかったのかもしれない。

そんな世界に、光は差さない。
そんな世界に、色は生まれない。

満たされない。

だから、誰かを殺すことで、満たされようとしていた。

その場所だけが、自分のすべてだと思っていた。

可能性を否定し
干渉を拒絶し
世界を悲観した。

そうした空間を作り出していたのは
自分自身の心だったというのに。

望んでいたのは、自分の心。


小さな世界を生み出していたのは
自分自身だったのに。

その心すら、生み出してきた世界に飲み込まれていった。
自分を、すでに殺していたんだ。





そう、灰色の世界に初めて
色が欲しいと願った。

変革のチャンスだ。

色を生み出す
光が欲しいと願った。

新しい世界を照らし出す
明かりが欲しいと願った。





















目を開いた。

そこに光があるだろう。
明るく照らす月が。

光はこんなにも近くにあるのだから。
こんなにもたくさんの光に
世界は満ちているのだから。

つかもうと、手を伸ばしたらつかむことができる世界だ。


色は、そこにある。

上半身を支えていた腕を、水平に伸ばした。
銃を握っていた右手に、左手を重ねる。
支えを失って、背中は床に打ち付けられる。
息が詰まったけれど、伸びた両腕の力は緩まない。


腹から下に、力が入らない。
上体が安定しないならこれで。


「残念だったな。まだ、死にたくはないんだ」

そう、生きてやるさ。

自分の小さな世界でも、暗い世界にも、光が差すと分かったから。

まだ、弾はある。
腹と脚に力は入らないが、両腕は生きている。

銃口は真っ直ぐに、白い額に狙いを定めた。

絡めた引き金に、力が入る。
指が重い。

空気を貫いて、銃弾が飛ぶ。
当たらない。

弾は、奴の顔の左に抜けた。



二発目。
当たらない。

飛び上がった。その下を通り抜けて壁にめり込んだ。





光が、女神の輪郭を作る。
月光は、こっちに味方している。
両目を見開いて、ポイントを絞った。
当たれ。



たった一発が、色素の薄い脚を撃ちぬく。
血が赤く散った。

ヴァンパイアといえど、血は赤いか。
腐りかけた木の床に、鈍い落下音と共に崩れ落ちた。

「正直、羨ましいと思った。そこまで一つのことを追いかけられるお前を」



立てるだろう。
立ってみろ。



「光の見つけ方を知っている、お前を」


見えなかったものが、見えた。
分からなかったことが、分かるようになった。

見ようとする意思が可能にした。




傷は浅いだろう。
骨までは達していない。
なにより、こいつらは人間と違って治癒能力が格段に高い。

「だが反面、哀れに思う」

一つだけしか持たないお前を。
空っぽなお前を。
消えそうな愛を繋ぎとめようと、必死に欲しているお前を。



「似ていると思った。会って、見て確かめたかった」

すらりと伸びた、シルエット。
傷を負っても、なお力強い。

「私も、死を求めていたのかもしれないと。生きるにはあまりにも長すぎる時間だから」

「その時も、もうすぐ終わらせてやる」

「さあ、どうだろう。私にはやらなければいけないことがあるからな」

こっちだって、見つけた。
やらなくてはならないことを。

「見届けてやる。お前たちがどこから来て、どこに行き着くのかを」


今までこいつたちを知ろうとしなかった人間たちだ。
それが、実際遭遇したら殺すか殺されるかの相手と言葉を交わして。
しかも、理解しようと思うなど。

あいつは、笑っただろうか。

残念ながら、逆光ではっきりとは見えなかった。




今回は、見逃してやろう。
だが、次は必ず捕まえてやる。

白銀のヴァンパイアは
月の中へと消えていった。


皮肉だ。
見てきて生きてきた世界は灰色だと、見透かしたあいつに
色を、与えられるなんて。



やっぱり、女神だったのかもしれない。




あぁ、腹が痛む。

持ち上げていた首を床に落とした。
銃ってやつは、重いんだ。
両腕を床の上に伸ばした。

疲れたな。

だが、妙にすっきりしてる。



お前たちを知ることで、何か得られるかもしれないと
思い始めている。

そうすることで、さらに新しい世界が見えるかもしれない。


そういう、希望。


自分自身が変わっていけるから。

そう、この世界は広いんだ。

途方も無く、広い。


そして自分次第で、広がり続けるものだと知ったから。

そこに色はあるんだから。
そこに光があるんだから。

もう、世界は灰色じゃない。

柔らかな月の光が、砂まじりの床に落ちる鮮血を
浮き上がらせていた。

「赤いな」
































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