Silent History 192





何も聞かない。
何もしない。
何もさせない。

何があったのか、何をすべきなのか、何のために。
それらが何も、なかった。
眠って、起きて、食事をして、窓から流れる川を眺めて、鳥の声を聞いて。
虫の音が黄昏時に流れてきて、緩やかに眠りに落ちる。

選択はすべてこちらに委ねられた。
きみは、きみたちはどうしたいのか、と尋ねられたら困ってしまう。


暖かな車の中で何度も目が覚め、再び眠り、目が覚めたときには緑が広がっていた。
昔々に、幼い頃に見たような気がする、記憶の底に沈んでいた風景だった。
緑の波の中に、白い人影がぽつりぽつりと浮かぶ。
田園風景というのだと、ラナーンが教えてくれた。

ここがどこなのか分からないまま、車を降りた。
木造の、小屋のような家が目の前に現れた。
ここでの生活はそうして始まった。

部屋は二人一緒がいいのか、別でも構わない、と小屋に住んでいるらしい女性に尋ねられた。
甘くて白くて温かい飲み物が空になった頃。
おかわりはいる? と聞いてきたのは女性の娘だった。

ここには無理に手首を掴んで引きずり回す男もいない。
痛みも恐怖もない。
それが逆に怖かった。
本当に心を安らげていいのか、真綿の上に乗せた足が沈み込むのが怖かった。
何日もかけて、綿の感触を確かめながら歩いた。

安心、信頼、そういうものがこの世にあるということを知らないで育ってきた。
与えられる愛情をそのまま受け取り、また愛情を返していいものなのか迷った。
踏み込んで裏切られるのが怖くてたまらない。
この優しい世界が好きで、身を浸したのに壊れてしまうのが恐ろしかった。

そのたびに、ここにいる女性たち、ラナーンたちは優しかった。
肩を抱かれるのも嫌じゃなかった。
丸めた背中を宥められるのが心地よかった。

幸せがなくなるのが怖いと零したら、女性は嬉しそうに礼を言う。
どうして、そこでありがとうという言葉が出たのか分からないでいると、ちゃんとあなたが今何を思っているのか言葉にして共有してくれたからよ、と抱き締めてくれた。

人と、人が繋がる。
愛情が繋がる。
愛し、愛される、幸せの瞬間を見た。

自分に向き合って、考えて、外を見た。
女性がいた、その娘がいた。
ラナーン、アレス、タリは、時折現れるおじさんもいた。
彼らは何を思い、どんな道を歩くのか、知りたくなった。

ラナーンはおじさんについて話してくれた。
アレスはこれまでどのような場所を旅してきたのか聞かせてくれた。
タリスはどれほどおもしろいものが溢れていたのかを教えてくれた。
押し付けるようには決して語らない。
こちらが聞かない限り、話し始めたりもしない。
どんどん聞いて、たくさん笑った。

三人の真似をして、食事の皿は下げるようになった。
洗濯物を干しているのを手伝えば、ありがとうといわれる。
体を動かし、誰かのために何かをする。
対価を期待してでの奉仕ではない。
ここではそれが当たり前だった。
感動して、嬉しくて。
どこでもみんなそうなのよ、と女主人は笑顔で肩を叩いた。
されて嫌なことはしない、されて嬉しいことはしてあげるの、ありがとうって一番のご褒美よ、と軽やかに笑う姿がきれいだった。

部屋数は多くあったけれど、こぢんまりとした暮らしやすい家だった。
廊下には窓が大きく並んでいて、太陽の光が木の床に差し込む。
窓はいつも、女主人の娘が綺麗に磨いていた。
手入れのされた庭の片隅には畑が慎ましく囲ってあり、赤や緑や黄色の色鮮やかな野菜は朝夕の食卓に上った。
前後の窓は開け放たれて風が通り抜けていく。
土の香り、緑の香り、ときどき雨の香りが流れ込み、それまで香水や香の人工的に甘い匂いしか知らなかった嗅覚を穏やかに刺激する。
ただ木々の作る影の波が、葉の擦れあう音が、虫の音が近くに遠くに聞こえる様が、これほど繊細で美しいもので、飽きないものだと初めて知った。
失いたくない、ずっとこのままであって欲しい。
庭で、土に汚れた手を引き上げて空を眺めた。
雲が、ごく僅かに身じろぎするように形を変えて動き流れていく。
何分も、何十分も眺めていた。
消えないで。
この時間が、どうか、どこかに流れていってしまわないで。
不意に顎に冷たいものを感じた。
痛みでしか流したことのない涙が、頬を伝っていた。
悲しいような、胸が痛むような、締め付けられる感覚の名を知らない。

「世界は分からないことばかりで、時々戸惑ってしまう」
その夜の食事の席で、昼間に手ずから収穫した野菜を口に運びながら言葉にしてみた。

「人と触れ合うこと、物と触れ合うこと、それからそうね、本を読むこと。そうすれば心は豊かになるわ」
女主人は新しい料理を運んできた娘に目を向けた。

「本なら私の本棚から好きなのを持っていって構わないわ。おもしろそうな本があれば、私も図書館から借りてくるし」
「今ある中から何か見繕ってあげてちょうだいな」
「だったら、そうね。私が読んであげるわ。寝物語に良さそうなお話を」
「ということらしいけど、どうかしら?」

その夜から、一冊の本に詰まった十二の話を、一話一夜で聞かせてくれた。
柔らかで静かな声色が、話の展開で抑揚に大きく波打ち、やがて収束して穏やかに結末を迎えると、眠気が緩やかにやってくる。
十話十日目を過ぎた頃から、自分で読んでみたいと思うようになっていた。
食事の後、本棚に詰まった背表紙を眺める習慣から一歩踏み出し、背表紙に指を引っ掛け中を開くようになった。
文字は読めるが、本を読むという習慣はなかった。
冒頭集中力が途切れがちだったが、半ばに近づくにつれて読む速度も集中力も増していった。

神徒が二人、同じように本を開いて午前も午後も過ごす。
読み終わったらこぞって娘に感想を述べに行く。
娘は、そういう見方はなかった、そういう感じ方は面白い、楽しんでくれて嬉しい、と褒めたり喜んでくれた。
神徒二人にとって、本を読む楽しみと同時に彼女の笑顔を見ることができる喜びもあった。

夕食の後、夜は二階のテラスで過ごすことが多かった。
ラナーンの両脇に神徒が二人、木の椅子が三つならんで、月と星を眺める。
昼間に読んだ本のことであったり、今日した失敗、楽しかったことなど話した。

「物語は好き?」
「好き。ラナーンとアレスとタリスの話を聞くのも」
「ラナーンたちの話って、本を読んでいるみたい」
「タリスの話もすごく楽しい」
それは、本人に言ってあげたら喜ぶ、とラナーンは小さく笑った。

「まだまだ知らないことがたくさんで、いろいろ歩いて、見て、聞いて、五感で知らなくては」
「物語は、一つだけ知ってる。竜の話」











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