Silent History 193
気付けば与えられるばかりだった。
何かを求めることはしなかった。
求めることは、罪で。
願うことは、苦しみだけ。
手に入らないものは夢に見ないこと。
夢など知らないでいること。
そうすれば、静かに心は死んでいった。
空っぽになることは、悪いことじゃないと。
そう思っていた。
今は、それが悲しいことなのだと教わった。
新しいことを知ること。
見たことないものを見ること。
鳥の声、草がさざめく、漏れ入る光、柔らかいお布団。
小さな感情の動きに、些細な振れに、お腹の底からじわりと熱いものが湧きあがってくる。
頬まで浮かび上がって来て、白い光があたったように弾ける。
心地いい感覚。
言葉にできなくて、黙りこんでいた。
うれしいの?
胸が少し苦しくて。
悲しいわけじゃないのに、目のあたりが熱くなる。
その時、タリスが言った。
「幸せっていうんだ、そういう感覚って」
誰も教えてくれなかったこと。
幸せの、感覚。
そこから知ることの楽しさ、嬉しさは増えていった。
「すべてを知ることが幸せじゃないんだ。時に不幸だって落ちている。でもね、知りたいと思うことだって幸せの一つなんだよ」
そう言っていたのはラナーン。
旅をすること、いろいろな人と知り合えたことが嬉しいと言っていた。
たくさん、話してくれた。
知りたくて、たくさん訊いた。
だから、今度は。
「竜の雲、ってあるんだって」
雲は西に向かって影を落とす。
見上げれば鳥の群れ。
それよりもっと大きな、竜の翼が空を覆っていた。
災いが起こると竜が立つという。
それは伝説で、最後に見たのは誰なのか知らない。
昔々、竜と人は共に棲んでいた。
「西に向かう、竜?」
「星の渦に向かうらしい。竜が立つと災いが起こるといわれていて。だから神の徴(しるし)といわれている」
「神?」
「竜は予兆を運んでくるから」
「神の使いのようなものか」
「きっと」
竜の雲、星の渦、神の徴。
ピースが散っている。
「災いって?」
「血が流れるって聞いた」
「星の渦というのもね。星は空にあるものだと思うけど」
地上にある星が渦のように巡る場所など想像がつかない。
「光が竜巻のように巻き上がる?」
「うん。そういう風に思ってた。竜の雲はそこに吸い込まれていく」
お話はそれだけ、と神徒は言った。
竜を見たら、それは災いの知らせ、そう教わった。
「お母さんと一緒にいられたのも少しだけだから」
もっといろいろ聞きたかった、話したかった。
神徒のことは何も知らない。
母親がどうしてここにいるのか、父親がどこにいるのか、一度も口にしなかった。
「聞くとお母さんが痛そうな顔をするから、それは聞いてはいけないこと」
聞かないでいた方が幸せなこともあるから。
「神さまや、竜の話をきいた。その話をしてくれるときの顔は本当に優しかった」
私たちは神さまと共にある。
土を、居場所を求め続ける。
髪を撫でてくれた母親も、あるとき、いつものように部屋を出たままそれっきり戻ってこなかった。
「自分が何であるか、考えたことがなかった。どこから来たのか、どうなっていくのか」
母親が語らなかったのは、過去も未来も見せるつもりがなかったからかもしれない。
助けてやりたくても、どうにもできない。
それでも何かを恨み、憎しみをぶつけたりできないのが神徒だった。
「竜を見たことは?」
「ない。お母さんも、聞いた話だって」
「見たいと思う? 災いをもたらす竜を」
「神さまの使いなのに、災いを招くなんて。恐いけど、ちょっと見てみたい」
木の椅子に寝転んだまま空を見上げていた。
星々が白く透き通った光を静かに放っている。
「黒い幕に、穴を空けたみたい」
そっと呟いて、神徒の子は目を閉じた。
目蓋の裏では竜が夜空を横切っている。
「それと違う話を聞いたことがあるよ」
少し高い声がラナーンの左側から響いた。
寝物語で夢の中に落ちていたと思っていたもう一人の神徒だ。
「ずっと遠い島にはね、お姫様がいるんだって。お姫様はね、竜と一緒に棲んでるんだ。そこでは誰も僕たちをいじめない。痛いことも恐いこともないんだ」
ずっとずっと遠くて、行けないけどと寂しそうに言った。
「たぶん、僕の土はそこにある。いつか、行けたらいいけど。本当にあるのかな」
小さな欠伸が言葉をかき消した。
自分が生きる場所、命紡ぐ場所、命が融ける場所。
彼らの願いはその土に出会えること。
ささやかで、切なく、強い願いだ。
「じゃあ、おれが探してきてあげる」
ラナーンが椅子から立ち上がり、テラスの先端へと進み出る。
そこから下を見下ろせば、薄暗い芝生の上に点々と暖色の灯りが点っていた。
海に浮かぶ夜釣りの舟のように、穏やかな光だ。
その灯りに囲まれながら、素振りが空を切る音が響いている。
力強く、重い、しかし切れのある音だ。
昔から変わりがない、いや、より研ぎ澄まされた音になった。
ずっと聞いてきた、心地のいい音だ。
テラスの手摺に寄り掛かり、右手の方に視線を流した。
芝生に布を広げ、ランプを四方に置いた中でタリスが寝そべっている。
手には酒杯、目の前に甘味がいくつか並び、用意したクッションを脇に挟んで談笑している。
どこにいてもタリスはタリスで、彼女がいるところがファラトネスの王宮となる。
話に付き合っている家人も実に楽しそうだった。
変わり続け、それでも過去は手放さず、一緒に歩いていける友人がいて幸せだとラナーンは心から思う。
二人を心の底から信頼し、愛しているし、それらは揺らぎない。
「土は土地というわけじゃない。おれがあるべき場所、それがおれの土。自分がいて安心できるところをゆっくりと探せばいい」
ラナーン自身も、まだはっきりとは見えていない。
「すぐに見つかるかもしれないし、何年も何年もかかるかも。でも、きっとその時は来るはず」
「探す、って?」
「いろんな人に会うこと、いろんなことを知ること、いろんな場所を見ること。でもそうだな、まずは」
ラナーンが振り返ったら、二人とも木の椅子から身を起して大きな目を四つ、ラナーンに向けていた。
「同じ仲間と一緒にいた方がいいかもね。知らないことがいっぱいあるから。そこで君たちの土の匂いがしなかったら、また探し歩けばいい」
「仲間? 同じ神徒ってこと?」
「神徒でしか教えられないことだってあるから。彼らは何でも受け入れ、また束縛もしない。時間はゆっくりあるから、そこでゆっくり考える」
「遠いの?」
「大丈夫。連れていってあげる。どうかな?」
ラナーンの提案に、二人は顔を一瞬突き合わせてすぐに答えは出た。
「行きたい」
「いいことだね。そうやって道を選ぶことこそ、生きること。そうだと思うから」
階下から声が上がってきた。
ラナーンの名を呼んでいる。
「そこで可愛い子たちを独り占めしないでこっちに降りてこい」
ほろ酔いのタリスの命令だ。
「どうしようか。 眠い?」
「行くよ」
「降りてもいい?」
二人も賑やかなのが好きなようだ。
「疲れたら途中で寝室に行っていいからね」
頷きながら、元気な足音が遠ざかっていった。
二人ともまだまだ子供だ。
「お前も降りてこいよ」
アレスの声にテラスの端から覗き込んだ。
剣は鞘に収まり、玄関の前を横切って右手に歩いていっている。
「姫君からの召集だ」
「すぐ行くよ」
こういう瞬間が好きだと、美しい星々の記憶とともに胸に刻んだ。
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