Silent History 155





まだ明けきらぬ朝靄の中で晴れやかな声と高らかに手を打つ音が弾けた。
周囲は鳥がようやく目覚め始めたばかりだ。

「それは、おめでとう」
屈託なく破顔して、形のいい胸の前に持ってきていた手を下ろした。
下げた手は傍らにある小瓶を掬い上げる。

「祝杯を」
朝靄の中でタリスが瓶を掲げた。

「おい、まさか」
「安心しろ。発酵前だ」
部屋に用意してあったのを持ち出してきた。

「流石の私も、早朝から引っ掛けるほど溺れてはいない。理性あってこそ、切れた頭と感覚あってこそ、その風味、味わいを五感で堪能できるものだろう。酒というのは」
薄明かりの中、目の前で小瓶を揺らす。

アレスは彼女の隣で、泉の畔に並んだベンチに背を付けた。
妙に落ち着くのが不思議だった。
先にタリスが傾けて空になったグラスがアレスへと突き出された。
大人しく受け取り、タリスが傾けた瓶の口を受ける。

「似てるからなど、早計過ぎるとは思う。だが、切っ掛けにはなった。そうだろう?」
グラス半分ほど注いで離すと、タリスは瓶を組んだ膝の上に乗せた。

「今はそれでいいんだ。私たちがあいつをどう思っているか、あのマイナス思考に分からせればそれでいい」
「自信が持てないのは、ずっと兄のユリオスに負い目を感じていたから」
「しょうがない、と言いたいのか。しがらみから解き放ちたかったからここまで引っ張ってきたんだろう? あいつ一人ならデュラーンを出るのさえ危うかっただろうに」
タリスは膝の上で瓶を揺らした。
靄の粒が彼女の目の前で流れている。
服はしっとりと濡れていたが、気にしなかった。

「目隠しを解いても、その目が先を見ないのであれば正しいものは目に映らない。歩きだす一歩を踏み締めなければ、前には進めない。ようやくあいつの目はお前を捉えたってわけだ。おめでとう」
依存でも寄生でもなく、共生。
ユリオスもラナーンが彼の足と目で彼の道を歩むのを望んでいた。

「実際のところ、あいつの生まれについて知っているのは、ディラス王と今は亡き王妃の二人、あるいはユリオス。それだけだろう。いずれにしろデュラーンに戻らなくては何も動かないさ」
ファラトネスから探らせる気にもならない。
ディラスがラナーンに告げなかったのには、それなりの理由があるようにも思う。

「神王派の子を、人の目を逃れてディラス王に預けたというのも隠す理由としては考えられなくもない。事実私たちははサロア神信仰とは異なる神を掲げているのだからな」
神王でもなくサロア神でもない。
デュラーンやファラトネス一帯は言わば宗教的、思想的に中立の立場にある。

「いずれあいつもデュラーンに戻る日が来る。ディラス王が何を考え、何を思ってラナーンを手放したのかは知らないが、あの親子がそう簡単に崩れるとは思わない」
靄が風で流れて薄くなってきた。

「もうしばらく、ここでいろいろ調べたいことがある」
「何しろ、生きた化石みたいなもんだからな」
書物に書かれていることはすべて、サロア神派の目から見た世界と歴史だ。
それは事実だったかもしれないが、それが真実のすべてとは限らない。

「それに、ラナーンも落ち着かせたい。このところ危ない目に合わせてばかりだったからな」
「まだ言うのか、この過保護が。あいつの剣の腕だって私に劣らないはずだろう? 交えるのを嫌っているだけで」
「俺が認めた腕ではあるが」
その隣でタリスが鼻を鳴らして、瓶に直接口を付けて煽った。
空になった瓶を振りながら、飛び跳ねるように立ち上がる。

「帰る。体も冷えたし朝風呂だ。靄も明ける中というのも悪くないだろうよ」
お互いに傷を持つ身だ。
湯治も兼ねてというのも悪くない。

「ラナーンはまだ寝てるんだろう」
「熟睡だ」
「起こすなよ」
「俺はこのあたりで素振りしてから戻るさ。腕が鈍る」
「切り傷だらけの体で勤勉なことだ」
タリスがアレスからグラスを引き取ると、神殿へと向かって歩いて行った。
まだ残る靄が彼女の背中を溶かしていった。






白く柔らかい布団の上に、投げ出した腕が横たわる。
その向うにあるアレスの寝台に彼の姿はなく、代わりにきちんと畳まれた布団が乗っていた。
昨日は二人揃って帰ってきたはず。
子供が母親に縋りつくように、アレスの腕の中で声を上げて泣いた。
不安で堪らない、嫌わないでと吐き出した。
あまりに子供じみた振る舞いに今更ながら赤面した。
外は日が昇っていたが、体の底でまだ眠気が残っているところをみると、
まだ昼は越えていないように思う。
時間感覚が鈍っているうえ、頭もまだすっきりしない。
見回して、名を呼んでみたがアレスの姿はない。
窓の外を見てみても誰もいない庭の一角が見えるばかりだ。
アレスがいない。
タリスは別室でまだ寝ているのだろうか。
置いて行かれた幼子のように、途端寂しさが襲い布団を掻き抱いた。
素足のまま掛け布団を片手に扉まで進む。
向こうで足音が微かにするのを耳にして、僅かに扉を開いて顔を出した。

「マリューファ」
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか」
何事もなかったかのような、さっぱりした顔で籠を抱えたまま振り返った。

「まだ眠そうですね」
「いや」
言いたいことはたくさんあるが、マリューファのあっけらかんとした顔を前にしていると、昨夜のことを掘り返すのが不毛に思えてくる。

「お腹が空いたのでしたら、もう少し我慢してください」
腕が回らないほど大きな籠の中は服や布団だった。

「汚れものがありましたら洗濯しますので、どうぞ」
「ああ、うん」
一瞬小さく首を傾けたマリューファが、籠を扉の横に置いた。
空になった手を扉と壁にかけて、亀のように扉の隙間から顔を覗かせていたラナーンに顔を寄せる。

「少し、すっきりした顔をしている」
「昨日は」
急接近した顔を避けて、ラナーンが横目でマリューファを見た。

「イライラしてたの?」
返事をする代わりに言葉を押さえて喉を小さく鳴らしたラナーンに、マリューファは声を上げて笑った。

「分かりやすいひと」
「昨日は嘘つきだとか、冷たい人間だとか」
「そうね。あなたが誰も信じてなかったから。あなた自信を含めて誰も。だから私も嫌いでした」
「何だ、それ」
「好きだから好き、嫌いだから嫌い。一緒にいたいから側にいる。それでいいじゃない。理由なんて後付けして、だからややこしくなるのよ」
「誰の話だよ」
「誰の話かしらね。どちらにしろ、そろそろ頭は回り始めましたか?」
「お陰さまで」
マリューファは満足そうに大きく頷き、膝を折って籠を抱えた。

「手伝おうか」
「これは私の仕事です。散歩なさるならご案内いたしましょう」
「仕事は?」
「これを洗濯部屋まで持っていけば手が空きます。その間にあなたが更衣を済ませれば」
そこで言葉が尻窄みになった。

「もしかして、お連れの方の手が要りますか」
「着替えに? まさか。すぐに終わる。マリューファが戻って来て扉を叩くころには済ませている」
「承知しました。では、後ほど」
顔が半分隠れるほど布団と衣服を大きな籠に詰め込み重くないはずがない。
それを軽々と抱えて軽快に運ぶマリューファの逞しさに、タリスに似たものを感じた。
絡め取られるばかりで勝てそうにない。
顔を洗って髪を整えて、服を着替えて。
アレスやタリスといても、あまり急き立てられたことがなかったラナーンの頭が動線を描き始める。
どこに案内してもらおう。
聞きたいことはたくさんある。

ドーム、天井から下がる美しい女神像。
ドームと同じ高さから階段状に広がる棚田。
水を引いている小川。
人々の風習。
市場のようなものはあるのだろうか。
あればタリスが喜ぶ。
祭りのような賑やかさが彼女は好きだ。
ラナーンも貨幣経済が衰退した、ここの物流には興味があった。
用意された綿の服を開いて頭から被ったとき、扉を叩く音がした。


「やっぱり、ここは朝に来るのが綺麗だ」
ドーム内には祈る人が床に膝を付き、両手で肩を抱くようにして仰いでいる。
床には鮮やかな蒼が描かれていた。

頭上には神王妃の像が、朝の光の中でもどこかもの哀しげに目を伏せていた。
彼女もまた、祈りの姿勢で天井に彫り抜かれていた。

「あまり、神王妃の話を聞かない。歴史書には黒の王、神王のことは記されているけれど、その妃の話は何も」
神が夫婦でいるなど知らなかった。

「神王妃は人の子だったのです」
「ひと?」
「人間」
「サロア神のようにか」
「さあ。それと同様なのかは分かりかねますけれど」
「封魔の書が神王妃の存在を書かなかったのは人間だったからか。でもだとしても裏切り者として」
「誰も知りませんでした。神殿で秘されていたことだったからと、伝え聞いております」
「じゃあ、神王妃はもしかしてサロア神のようにまだ」
「いいえ、サロア神派の手に落ちました。せめて身を弄られ穢されぬようにと、その遺体は樹霊姫の力によって森の深くに沈められたといいます」
ラナーンの目の前には一つの物語が流れていた。

神王の宮に攻め入る軍勢、手に掛かり切り倒されていく神官巫女たち。
業火に巻かれ、叫び声は止まない。
物語の舞台で、神王妃に象られた像が動く。
神殿で斬られる神王妃、倒れる体を光が包み込む。
光景はラナエを包んだ光と重なった。

「樹霊姫は、土と木の神。神王妃を包み込んだ枝は折り重なり大樹となり大樹は身を寄せ合い森となりました」
深い深い森。

「それじゃあ、その神殿は森に埋もれたのか」
「水が分かち孤島となったそうです」
誰も触れぬよう、誰も近づけぬよう、海は人と神とを隔てた。
後は木々とともに息を潜めたとも、水の中深くに沈んだとも言われているが、誰が確かめたのでもなく、確かめようもなかった。

「夫婦。だとしたら二人に子は」
「神は子を生せません。神王は妃と神殿と共に潰えました」
マリューファは両膝を床について、腰を伸ばしたまま祈りの姿勢で天を仰いだ。
神王も神王妃が滅びても、それに仕えたものたちはごく僅かながらに生き永らえている。
彼らはそれを神の導きと受け止め、命を紡いできた。











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