Silent History 156





日が差し、靄が上っていく。
空気に揺れる水粒を潜り抜け、アレスは剣を鞘から抜いた。
ソルジスで受けた傷はまだ完全に癒えてはおらず、気を散らした。
肩の強張りを緩め、剣を頭上に振ってから中段に構えた。
顎は引き、呼吸は静かに、視線はそこにはいない相手を見据える。
肩の力を抜き、左手を絞る。
前に踏み出した右足の下で砂が鳴る。
丹田に呼気を入れ、剣先を微かに浮かせながら踏み込んだ。
一瞬にして空気が縦に裂かれる。
目の高さで切先がぶれなく止まり、剣は次に横に裁ち鼻から冷えた朝の空気を吸い込む。
水平に固まった腕の延長線に切先が息を潜めていた。

浅く反った刀身、刃文は未だ血汐を吸ったことが無い。
柄に添えた右手の指先まで震えるほど、集中を高める。
周囲の空気に一瞬、冷える。
刃区から水膜が走る。
一瞬で切っ先まで覆い、雫を一滴流れる風に散らした。
刃先を写した片刃は良く斬れ、振ると飛沫が宙を舞った。
美しく、力強い演舞。
斬るたびに散る水滴を花弁に見て、デュラーンの人間はアレスの剣を水花と呼んだ。
厳ついアレスに愛らしい名称ときて、聞いて笑い転げたのはタリスだった。

重いはずの剣を切れよく操り、切っ先は残像で糸を宙に投げたように描く。
実際に動かしてみてわかる。
腕がいつものように伸びきらない、上がらない。
外から見ても気づかない程度の変化でも、筋力が劣化していると感じた悔しさが腹に溜まっていく。
しばらく動かして、体が温まってきたころ、体にようやく以前の感覚が蘇って来た。
泉の畔。
晴れたはずの靄がまた戻ってくる。
霧か。
アレスは周囲を見回した。
先が見えない中で剣を振るうのは危険だ。
切っ先を落として体を開いた。
タリスはもう神殿に着いているだろうが、ラナーンはまだ宿にいるだろうか。
ふらりと外に出て霧で道を失っていなければ良いが。
そこまで考え至って頭を振った。
いつまでも子供ではないのだ。
頭を切り替えて、濁った泉の水面を見た。
霧は濃度を増し、縁の境界が曖昧になっている。
迷い込み、近づきすぎれば足を滑らせかねない。
岸辺で波が立つ。
白波が目と耳で捉えられるほど大きく揺れる。

またか。
アレスは身構えた。
この妙な緊張感。
感覚も思考も鮮明にもかかわらず、夢中を彷徨うような現実感のなさ。

泉の中ほどで水中から腕が立った。
体を捻るようにゆっくりと回りながら指先から上腕へと水から捻り出される。
竜巻のように渦巻きながらも風のない水柱が水面から立ち上がっていく。
流れる水の壁の中に、アレスは人影を見る。
人。
女か。
体を捻り、オルゴールの人形のように回りながら舞うように水柱を昇っていく。
その根元から、行き過ぎた先の人影を追うように両手を掲げた新たな人影が姿を現した。
女の姿に、アレスは見覚えがある。

「揺れる、私の揺り篭」
両腕の間にある瞳は閉ざされたまま。

「開かれていく、眠りの帳」
口は引き結ばれたまま。

「またお前か」
水柱の中ほどで女は留まる。
水泡が彼女の体を包んでは昇る。

「千五百年の眠り。なぜ今目覚めようとする」
化石が蘇ってこの世に混乱を齎すのか。

「お前に、夜獣(ビースト)が鎮められるのか」
「おまえは、誰?」
言葉が絡み合い、意志疎通が成立したことに、アレスは驚くよりも警戒した。

「人間だ。お前に魔が鎮められると?」
「ガルファードはもう、いない」
「ああ」
人の命を全うし、彼は伝説となった。
サロア神が眠りについたのは彼女の力と意思によるものなのかすら、アレスには分からない。
知っているのは一つ。
神は、サロア神を神に列してはいない。
だが人は、眠れるサロア神を至高として仰ぐ。
目覚めはすなわち、世界の均衡の傾きを意味する。
それ以上、いかなる動乱が世界を包むのかアレスには見えない。

神を包む繭が解けようとしている。
それは彼女の意思か、聖都シエラ・マ・ドレスタが施したものか。

「今更、この世に目覚めて何とする」
「私は時に従うのみ」
目覚めはこの女の意思ではないのか?
歴史は人の手によって紡がれる。
歴史の種はサロアだっただろうが、歴史を育てたのは時代を生きてきた人間たちだ。
真実は分裂し、時に歪み、時に姿を変えて流れて行く。
川の流れのように。
歴史の創造主がここにいる。
物語の一頁がここにいる。

「お前は、神なのか」
「私は」
答えを残さない水柱は砕けた。
幻も飛沫と共に散った。
目覚めるのか、本当に。
アレスは奥歯を噛みしめる。
だとすれば、世界は変わる。

「あるいは遺物であったままの方がいいのかもしれない。いまこの瞬間が夢であった方がいいのかもしれない」
変化が救済であるとは限らない。
ある者にとっての希望は、ある者にとっての不幸の始まりかもしれない。
深い霧の中でアレスが呟いた。
泉の波が揺れる。
大きく揺らぐたびに、泉が霧を吸っていく。

いずれ、行かねばならない。
ルクシェリース、シエラ・マ・ドレスタ。
中枢にいる眠れるサロア神が目覚めの兆候があるとすれば、すでに動き始めているはずだ。
サロア神がいかほどの力を抱えているか知らないが、神王派の話を信じれば、再び神門(ゲート)を破壊すればまずいことになる。
ガス抜きをせずに溜めこんだ魔が、今度こそ神門(ゲート)を決壊させ溢れだす。

それに、ディグダ、ディグダクトル。
そちらはどう動くか。
規模が大きすぎる。
小国の一剣士が関わるべき問題ではないのだろう。
だが、巨大な世界の片隅に慎ましやかに生きているアレスやラナーン、タリスらがいる。
あいつらは守る。
霧が消えて晴れた朝の空を見上げる。






「何だ、あれは」
靄が崖を上り、薄れていく様を浴場で楽しんでいたタリスが立ち上がった。
白い裸体を覆うことも恥じることもせず、湯船から身を乗り出した。
長めの良い神殿の浴場からは集落が一望できる。
泉の畔で剣を振っていたアレスを、私も見習わなくては腕が回らなくなる、と眺めながら肩を回していた矢先のことだった。
晴れたはずの朝靄が再び泉の周りから湧きあがった。
霧の中央に水柱が立ち上った。
中は空洞、竜巻のように水を巻き上げている。
不可解な現象に、タリスは目を細めた。
霧が濃くなり、小さなアレスの姿は隠れてしまったが水柱に対峙していた。

「つくづく」
湯船の縁に肘を突いて現状を傍観した。
霧に呑まれたのがラナーンだったなら、人を呼んで見に行かせたか、自分が駆け付けるかしただろう。
そのあたり、自分でも過保護な気質はあるように思う。
だがあれはアレスだ。

「不可解な現象に立ち合う機会が多いことだ。誰だ、霊媒体質な奴は」
湯を蹴り蹴り、状況の回復を待つ。
案の定、数分後何事もなかったかのように霧は引き、アレスの背中が見えた。
剣に付いた水を払い、鞘に納める。

「何だ、憎らしいくらい平然として。あいつに狼狽って言葉は」
冷えてきた上半身を引っ込めて、湯の中に滑り込んだ。
品が無いと言われようが、今は見咎める人間はいない。
仰向けになって広い湯船を泳いで堪能した。

「ああ、あったな。ラナーン絡みのときだけは」
天井が高い。
声が無駄に響く。
装飾が美しい。

「何か、私が物凄く寂しいひとみたいじゃないか」
脚を動かして湯船の中を進む。
朝風呂は本当に気持ちがいい。
だがどこか胸の奥が冷たい。
レンはどうしているだろう。
会いたいと、思う暇もないくらい動きまわっていた。
あるいは思うことを避けていたのかもしれない。
郷里への思い、恋人への想いが足を止めぬように。

「アレスをからかうネタを探そう」
湯から長い脚を伸ばして空気を撹拌した。

「その前に、だ。一仕事」
そこらへんの巫女を捕まえて、神様とやらが降りる場所に案内してもらおう。
湯から温まった体で抜け、タイルの上で長い髪を絞った。
一糸纏わぬ姿のまま颯爽と脱衣室へと向かった。











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