Silent History 154





密閉されているかと思った神殿内は、黴臭さや滞留した空気の重さはなかった。
風が流れ、空気が清浄に保たれている。
窓の上には細やかな彫を施された欄間が神殿を一周している。
壁の向こうには巫女たちが寛いでいたテラスがある。
高台に建つドーム型の神殿は、森の上を滑ってきた風が緩やかに流れ込む。
浴場の前から眺めた神殿の幻想的なことと言ったらなかった。
淡い月光に白色の丸屋根が浮かび上がる。
異国のお伽噺に出てくるような、月のドームだった。

神殿内、白く柔らかな光を反射する床には、円い紋様が描かれていた。
藍色の線が複雑に絡み合い、上下左右対称の花のような美しい紋様を作っていた。
アレスはラナーンに並んで円の端を踏んだ。
近くに誰かがいれば、模様の意味や美しい蒼の染色について聞けるものだが、夜の大広間には人影がほとんどない。
皆、そこから放射状に連なる隣室に引きこんでいるか、テラスで会話を楽しんでいるかどちらかだった。

陽の光の下だったら、闇で色彩を落とした紋様は鮮明な蒼になる。
それは本当に美しいものなのだと巫女たちは嬉しそうに語っていた。
殻を閉ざし、深く森に沈んだ、訪問者のほとんどない集落。
居場所を失くし、追われて逃げて、辿り着いてようやく平穏な生活が訪れた。
それから何年、何十年、何百年。
彼らが生きてこられたのは、ただ神を信じたからだ。
いかに凄惨な目に合おうとも、仲間の数が減ろうとも、彼らは神を捨てなかった。
ラナーンは年月をかけ、細やかに細部まで壁に刻まれた芸術的な彫刻を目に焼き付けてきた。
上から順に視線を落としてきて、大きなガラス窓で止まった。
窓の両脇には炎が揺れ、音の無い清流のような月光の床とは異なった熱い光が一角を照らした。
黒い窓に映ったのは少年。
円からその窓へと紋様の一端が伸びる。
辿るようにラナーンは窓へと歩み寄り、冷たい窓へ手を伸ばした。
ゆっくりと自分の顔を鏡で眺めたのは久しぶりだ。
大きな黒の瞳は真っ直ぐに彼を見つめ返す。
湿ったような黒髪が艶やかに頬に落ちる。
デュラーンにいたころは、まだもう少し頬に柔らかい肉がついていたように思う。
少年から青年への過渡期。
これは誰の顔なのか。
デュラーンの母の子ではなく、デュラーンの父の子でもないとしたら。
この目は、口は、鼻は、髪は。
鏡のように映る自分の顔に指を触れていく。
何者か定まらない、足下が浮いた状態だった。
非現実の海に漂っているような、夢の続きを見ているような。
だがいくら祈っても、願っても、今ここに立っているのは現実のラナーンだった。
確かなものが欲しい。
血、その繋がりが切れて、ラナーンを繋ぎ止めていたすべてが切り離されたような感覚、孤独。
堅く目を閉じたラナーンの左肩を、固く温かい手が包んだ。
左に黙って立ったのはアレスだった。
彼は彼なりに、ラナーンを自分の元に繋ぎ止めていようとする。
それは忠誠心の名残なのだとラナーンは思っていた。
あるいはそれは同情なのだと思っていた。
そのどちらでもないとタリスはラナーンに言う。
だとした何のために。
地位も血も失った自分に、剣の腕も及ばない自分にどれほどの価値があると言うのか。
左耳が引っ張られる感触に目蓋を薄く持ち上げた。

「同じ色、だな」
耳朶を撫でられるくすぐったさに、顔を肩口に埋めた。
横髪を掻き上げて、アレスの手がラナーンの側頭部を引き上げる。
装飾細やかな耳飾りが揺れている。
ラナーンの顎に落ちる、闇に沈んだ藍色が美しい。
ガラスに触れたラナーンの指先が滑らかな表面を白く濁らせる。
しばらく見惚れていたアレスが思い立ったようにラナーンに背を向け、広間の中央へ進んでいく。
彼の背を追って、ラナーンも広間の中央に描かれた円の中ほどに並び、無表情のアレスの横顔を見上げた。
ラナーンより少し先を歩いているアレス。
元より大人びているように感じてはいたが、デュラーンを出たときよりも更に大人になり締まった顔をしている。
どんどん引き離されていく気がして時々不安になる。
タリスは無邪気さはそのままだが、着実に色香を纏う女性へと変わっていった。
旅を続ける中で出会う人々に、斯様な美女に惑わされることはないのかと度々聞かれた。
アレスもラナーンも、答えは揃って否だった。
タリスを女性として気遣うことはある。
だが、性差を超えて二人はこの女傑を敬愛していた。
タリスも戦術として色香を滲ませることはあったが、身の固さは岩のごとしだった。
タリスがいれば、月光の穏やかに差し、蒼の紋様が白地に映える冷たい床を目にしたら、すぐさま靴を脱ぎ捨てるはずだ。
体の疼きを押さえられず薄絹を手に素足で舞うだろう。
髪を結い上げながら、ラナーンに歌を命じる。
しなやかに、軽やかに手足は月光を浴びて伸びる。
妖精のように空気を渡り、女神のように穏やかで美しい表情、柔らかに曲がる間接。
溜息が出るような演舞に誰しも動きを止める。
彼女はそういう世界に生きるべきだった。

ラナーンは天井を振り仰いだ。
ドームの頂点から何かが下がっている。
ラナーンは目を瞠った。
首を反らしたまま凝視するラナーンの隣でアレスも視線の先を伝う。

「これが、神か」
「神王妃。そう、言ってた」
両肩を抱くように腕を前で組み合わせ、大きな像が天井から地上を見下ろしている。
だがその目は閉ざされていた。
美しい像だった。
丁寧に彫り込まれ、布のたわみも滑らかに、肌の柔らかさも見事に表現されている。
何よりも見入ってしまったのは、その表情だ。
哀しげな色を滲ませつつも、慈愛に満ちていた。
無機質なはずの石に魂が籠る。
冷たいはずの石が温かく思える。
祈りや信仰はここから生まれた。

「どうした」
アレスがラナーンを振り返った。
天を仰ぐ開いた目から涙が伝う。

「おい」
動揺し、目尻に親指を押し当てた。
温かい涙を指が掬った。

「おれは、誰に似ている」
「デュラーン王の穏やかさを受け継いだ。亡き王妃は清純で愛情深い方だったと聞く。その心根はお前に継がれている」
「ここで、おれは似ていると言われた」
アレスは相槌を打つこともなく黙り込んだ。
誰に。
問わずとも、アレスには見えた。

「ここを歩けばすぐに分かると」
それは真実だった。

「この像に。この像を造った手、その人たちに」
この里の人間に。

「だから、何だ。それは確定じゃない」
アレスはラナーンの両肩を強引に掴み、揺さ振った。

「分からないんだ。おれはどこに行くべきなのか。帰る場所はない。だとしたらどこに在るべきなのか」
ラナーンが声を絞って泣いていた。
ずっと不安で堪らなかった。
デュラーンでない自分を誰が愛すると言うのだと。

「だれも縛りたくない。アレスを繋ぎ留めておきたくない。タリスを巻き込みたくない。なのに、おれは一人が怖い」
アレスの両腕に縋りつき、額を胸に押しつけた。

「何の力にもなれない。役にも立たない。こんなおれを、誰が」
「どうして卑屈になる必要がある。お前はそこにいるだけでいい」
丸まって小さく震える背中を、子供をあやすように撫でた。
小さい子をあやしたことがないぎこちない手だったが、温かく優しかった。

「俺の覚悟なんて、お前がデュラーンの子だと知る前から固まってる。今更なんだよ。もう手遅れだ」
嫌がってでも側にいてやる、と背中に向かって囁いた。

「俺がお前と一緒にいる理由は何だと思っていた? 忠誠心か? 友情か? 同情か?」
答えを待つ間も与えず、アレスが言葉を継いだ。

「どれでもあって、どれでもない。一言で表せられるほど簡単なものじゃないんだ。それはタリスだって同じだ」
何年もかけて練り上げられてきた想い。
小さく笑った後に、もっともあいつは多分に好奇心が混じっているけどな、と続けた。

「お前と共にあること。それは俺の意思だ。タリスの意思でもある。その俺たちを否定するな。いいな」
アレスの胸元で、声を殺して何度も頷いた。
絶望されたくないと思っていた。
見限られたくないと思っていた。
見捨てられたくないと思っていた。
不要だと思われるのが怖くて堪らなかった。

「居場所がないなら、ここがお前の場所だ。俺と、タリスがいる場所がお前の居場所だ。デュラーンの血なんて関係ない。俺たちは、ラナーンだから側にいるんだ。忘れるな、絶対に」
いつになく雄弁なアレスだった。
勢いに飲まれることなく、言葉を噛みしめラナーンが頷いた。

「わかった」
我ながら恥ずかしいことを口にしている、とアレスは思う。
女性を口説くより愚直で恥じらい、幾分も真摯だった。
だが、大切なことは言葉にしなければ伝わらない。

「俺たちを、捨てるなよ」











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