Silent History 142





夢は覚めれば、あっという間に薄れていくのに。
彼女の声、彼女の言葉はずっと胸の中に熱と痛みを残した。

彼女は大切な人に出会えただろうか。



ラザフが本日予定していた領主への往診を終えて早めに帰宅した。
前もって今日は往診に出る旨を診療所の扉へと札を掛けておいたので、急患二件を措置したら時間が空いた。
いつもならば医学書を片手に妻の淹れた茶で自室に籠っているのだが、ふと散歩を思いついた。
午前の診療が終わって午後が始まるまで、または午後が終わって夕食が始まるまでの散歩は時間があれば好んでしていた。
しかし往診で外出した夜に散歩することは珍しい。
決まった口調で、ちょっと外を一回りしてくるからと振り返って声を上げた。
高めで長く伸びた妻の返事が調理場から聞こえてくる。
いつもと違うのは、今日は誘ったゲストがラザフの後に付いて外に出たことだ。
一時期に比べ随分と血色は元に戻ったにしても、時折ふと一点を見つめたまま固まって考えごとをしていることがあった。
自分の身に関わる大問題なのだから、当然の反応だったし、何よりちゃんと復帰できてよかったと喜ぶべきなのだろうが、痛々しい姿を見るにつけラザフの心も痛む。

「デュラーンのことはいいんだ。いや、良くはないんだろうけど、何ていうか」
裏口から外の小路に出た。
白く塗装された形ばかりの小さな鉄の扉はラザフの妻の趣味だ。
食器を持って入った調理場の棚も、同じように白いペンキで塗られていた。
汚れるじゃないかってラザフは反対だったのよと彼女は少女のように笑った。
白い食器棚にたくさんの香辛料を並べるの、デュラーンのものもあるのよ、そう言って彼女はガラスの嵌った扉を開いて見せた。
小瓶を取り出し鼻先で蓋を開ければ、懐かしい匂いが溢れ出た。

「今は、帰るべきじゃないって思うから」
「そうだな、きみはまだ若い。いろんなことを経験して、見て、感じるのも大切だ」
ラザフの言葉に深く頷いた。
彼は決して慰めだけでそう言ったわけではない。
二つの国を故郷に持つ彼だからこそ重みが出る。

「デュラーンのことだ。向うにいる友人伝に調べてはいるんだけど、なかなか堅くてね」
デュラーンの内に踏み込むような情報を手に入れるのは難しかった。

「きみが公に存在を知られていればもっといろんなことが分かったんだろうけど、あの掟が厄介でね」
王の子は誕生を告げども成人を迎えるまで姿を城の外に触れさせてはならない。
ファラトネスへは行くことができたが、その決めごとに従い簾を垂らした車で船へと乗り込んだ。
一体いつからこういう決めごとが始まったのか、どういう儀礼的意味合いを持つのか、疑問には思っていたものの、ファラトネスには物心ついたときから行き来があり、今更由来を聞き難かった。

「さしたる収穫は無かったけど、副産物として得られたものもあるからね」
「何かおもしろいことでも?」
「きみ自身に話すのは気が引けるけど。僕はね、例の掟について当然デュラーンにいるときから知ってたんだけど、それがどれくらい昔に遡るのか知らなかったんだ」
「それはおれも同じだ」
「本当に?」
「何となく、聞きそびれたんだと思う。それとも本当に幼いころに尋ねたのかもしれない。でもきっと」
「昔から続く古い決まりごとです、ってね」
「そう。たぶん小さかったから、そうとしか聞いていない。大きくなってからも、じゃあどれくらい昔なの、なんて聞いたこともなかった」
町の中心部から離れた小さな診療所の周囲は素晴らしい環境に恵まれていた。
木々は強風と強い日差しを遮り、小川は林の中を流れ、泉は低木に囲まれてひっそりと水を湛える。
素敵な散歩道だが、日も暮れようとしているこの時間に、ここまでやってきて静かな小路を歩く人は少ない。

「ちょうど封魔の頃からだそうだ。すごいな、化石みたいな掟だ」
「それは、知らなかった。でもなぜだろう」
「案外、魔物が子を食らうというような話でも流れたのかもしれない」
おそらくそれが起源なのだろうとラナーンも思う。

「最初は幽閉するみたいに我が子を城の奥に沈めていたんだろうけれど、都合のいいように崩れていったんだろうね」
国家間の行き来は許されている。

「あるいは、昔の王が若い時分に」
言いかけて言葉尻が窄む。

「どうしたんだ」
「いや、さすがに不敬罪だなって思ってね」
ラザフの手は焦りを紛らわすように小路に沿って並ぶ柵の上を跳ねながら進む。

「いいから。最後まで聞かないとすっきりしない」
「好き放題したから成人するまで落ち着けってことかな、なんて」
「つまりそれって」
「遊び過ぎ」
「ああー」
ラナーンは自分の足先を見ながら小さく何度か頷いた。

「なるほどね。あるかも」
「まあ、失礼極まりない想像だけどね」
「そうだったりしたら、迷惑な話だ。それから千年以上も窮屈な思いをしなきゃいけないんだから」
色狂い、それが本当だとしたならば相当なものだったのだろう。

「だけどそれはなさそうか。デュラーンはどちらかっていうとアットホームだけどスキャンダル的なものはなかったから」
「そうなのか」
「中にいてたら分からないだろうね。僕は主治医の助手という立場ではあったけれど、本当に良くしてもらった」
城の一室に住まいを与えられ、図書館や書庫には夜遅くまで籠っていた。
王妃への往診で師の後に付いて向かった先でも、王妃の居室まで通された。
幾重にも掛けられた帳の向うで医師と王妃の二人の声がする。
同席した侍女らの声も合間に挟みながら、問診が続いた。
週に一度だった問診も、王妃の病状が重くなっていくにつれ二日に一度、日に一度と回を重ねていった。
王はその間、執務の合間度々王妃の居室へと足を向けた。
執務室から離れ、人の流れも喧騒からも遠い居室。
窓は天井まで大きく取られ、木々で薄められた日の光は柔らかに部屋の床へと忍び入る。
窓を開ければ緩やかな風が流れ、閉ざせば木々のざわめきは遠退いた。
王は決まって部屋を入ってすぐに置かれた長椅子に腰を下ろして、王妃が招き入れるのを待っていた。
愛おしく大切に思っている王妃であっても、決して不躾に部屋へ踏み込んだりはしない。
逆に王妃が、そんなところで待たずとも入ってくればいいのにと毎度のように口にしても、ディラス王は翌日もまた同じように長椅子の上で許可を求めた。
王妃の言葉を伝えに、帳の内側からディラス王のもとまで歩く。
侍女に付いて帳の前までやってくると、王妃がちゃんと気配に気付いて帳の内へと呼び入れた。
儀式のようにすら思える毎回の行為も、手順を飛ばすことなく根気強くディラスは繰り返していた。

ディラスの王妃への深い愛をラザフは帳の外でずっと見てきた。
王妃との面会を済ませたディラスは医師に王妃をよくよく頼み、帳の外で控えるラザフにも温かい声をかけるのを忘れず、執務室へと戻って行った。

「ディラス王の動きだけは少し見えてきた」
「父上の」
「また凍牙に足しげく通っているらしい」
「また、ってことは」
「過去にもこういうことがあったようだよ」
「何でそんな危険な場所」
「昔は、伏せることのあった王妃の体にいい水が出るというので通っていた」
「一人で?」
「いや、王妃と二人だ。もちろん従者は連れて行っていたけれど」
「けどもう、あそこには何もないはず」
ラナーンは左の耳飾りに指で触れた。

民家は途切れ、道は林の狭間を割るように抜ける。
両側で騒ぐ木々の音が心地いい。
体中が音に包まれ、海原にいるように錯覚する。

「あそこはディラス王にとって特別な場所なんだ。ただ王妃との思い出を懐かしむ、それ以上の何かがあるはず」
「剣が祠の奥で凍りついていたんだ。抜けるはずないと思ったんだけど、もしかしたらと思って触ってみた」
「抜けたのか」
「抜ける前に光って消えてしまった」
「幻覚か?」
「どこからが夢でどこからが現実なのかわからない。ただ目が覚めたらこの石があった。アレスは神を見たって言ってる」
ラザフは俯いて考え込んだ。

間違っていたら指摘してくれと前置きしてから、デュラーンにおける
神との関わりについて話し始めた。
神とは流動的な、気流に近いもの、電波に近いものだと彼は認識していた。
デュラーン滞在中、深く踏み込んで宗教について聞いて回った訳ではないが、おおよそのイメージはそんなところだった。
デュラーン城内にも神殿を抱えていた。
内は水が湛えられ、水底に神体が沈んでいた。
それは電波を捉えるアンテナのような役割だ。
神体に神は寄せられる。

「デュラーンの神は水神(みかみ)とも呼ばれることもあるが、それらは流れとして三つの大神へと繋がって行く」
三つの神については聞き覚えがあった。
それもデュラーンを出てからの話だ。

「三女神か」
神のルーツ。
その流れで俯瞰してみるとデュラーンの立ち位置も見えてきた。
デュラーンはサロア神を信仰していないが、特に敵対関係にあったわけではない。
だが、神の地図で照らし合わせてみれば、サロア神教が敵や邪教として粛清したはずの神王派の流れを汲むことになる。

「三女神は神王の下にある。ということは」
「ちょっと待ってくれ『しんおう』って何だ」
「封魔の歴史でいうところの、魔の王、黒の王」
「何でそれと三つの大神が繋がっているんだ」
「おれたちが聞いてきた物語では黒の王が魔を統べていた。でも他の国では黒の王は姿を変えて神王となる。言葉通り、神々の王だ」
「神々」
ラナーンは目を細めて朱に染まっていく空を見上げた。

「神とともに生きる人がいた。おれたちが追っていたのはそうした人たちの足跡だった」
「それを追ってここまで来たのか? そういわれてもね、聞いたことがないよ、神王というのも何も」
「ここには追われて流れ着いただけ」
カリムナを殺害した罪人、ヘランの反逆者として命を狙われて逃れてきた。
散り散りになった側女はちゃんと逃れられただろうか、ラナウは森へと辿りつけただろうか。
黙り込んだラナーンの顔をラザフが心配そうに覗き込んだ。

「おれは、逃げながら何となく生きてきた。でももうデュラーンは逃げる理由にはならない。そうして初めて考えたんだ。何をすべきなのか、自分が何を欲しているのか」
「答えは出たのか」
「世界で何が起きていたのか、これから起きることを知りたいんだ。はっきりとした目標じゃないんだけどね」
「まだパーツが揃ってないだけだと思う」
小路に沿って並んでいた左の林が切れた。
奥に行けば茂みの向うに泉が広がる。

「行ってみようか。まだ少し時間があるし」
沈んでいたラナーンが良く寝転がっていた泉だった。
草を踏み分けるたびに青臭い匂いが上ってくる。

「神さまの棲む島に行ったんだ。彼らは皆、神さまを森に隠し信仰心を心の底に沈めた」
生きるためにはそうせざるを得なかった。
世界が、お前たちは誤りなのだと決めつけ、疎んだから彼らは小さな島へと逃れた。

「火が治まり、痛みを忘れるまで、我らは息を殺し、深く沈もう、神々と共に」
「それは?」
「島の人が言っていた言葉だ。それにこうも言っていた。先に牙を剥いたのは我ら人間の方だとも。真実だと思う?」
「牙を剥くも何も魔を薙ぎ払ってくれたありがたい存在だろう、勇者ガルファードとサロア神は」
「だから分からなくなったんだ」
斜めから差す日の光を反射して泉は鏡面のように光る。
ラナーンは泉の傍へと屈みこみ、滑らかな石の床に手を付くように水面へ手を乗せた。
鏡面は乱れ、波紋は泉の中ほどへと伝わって消えた。

「だって出会った神王派の人たちはすごくいい人だった。邪教だの忌むべき人間だの、そんな怖さも忌わしさもなくて澄んでいたんだ」
「だが、それが世界の真実だよ。魔は溢れ、魔を御していた王を倒したから世界は平和になった」
「世界って何だ。おれが見てきた世界はすべてがそれぞれが違っていた。それぞれの真実がそこにあった。絵柄が違う、でも組み合わさったら一つの大きな繋がった世界になる」
穏やかになったはずの水面が泡立ち始める。
彼の母であるデュラーンの王妃との光景を思い出した。
助手であるラザフが差し出した水盆を引き寄せ、寝台の上で上半身を起こし伸ばした脚の上に乗せると、水盆の上に手を翳した。
指先が水面に触れると糸で操っているかのように上下する手の動きに合わせて水滴が持ち上がる。
水は重力の縛りから離れ、王妃の指で踊っている。
驚き目を瞠るラザフへ、悪戯が成功した子供のように少し得意気に頬を染めて小さく笑った、愛らしい王妃の顔を忘れない。

「ラザフが言ったように、パーツが足りないんだ。だからまだ見えない。勇者が勇者となる前、人から転身した神が神となる前、魔が溢れだすそのとき、それがはじまりなんだと思う」
「世界は、勇者が魔を倒してから始まった訳じゃないって?」
「封魔の世界、封魔の歴史はそこから始まった。でももう一つの歴史がどこかにあるはずだ。神王派が見てきた歴史、神王をおれは見たい。夜獣(ビースト)はそこに繋がっていくから」
「けれど僕はあまり力になれそうもない」
「カリムナの国では、カリムナが地脈を引き出していた。地脈は神王の下、三女神の樹霊姫の大流なんだ」
「この国にも確かに水の神はいる」
「祠か神殿か何か、見てみたい。入れるかな」
「ああ。でももうこの時間だと見て回れない」
ラナーンの水遊びも終わり、大人しく散歩ルートへと二人は戻った。

「その神様の話もう少し聞かせてくれないかな」
「信じないんじゃないのか」
「興味はあるさ」
あと半時間もすれば日は完全に落ちる。
ラナーンは今まで歩いてきた道のり、出会って別れてきた友人たちのことを、長話にならないようにどう纏めるべきか考え始めた。











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