Silent History 141






新しい国が好きだ。
新しい町が好きだ。

国境を一歩越えると肌に感じる空気が違う。
体を包む匂いが違う。

広大な草原の世界。
広がる丘陵の世界。
砂と岩だけの世界。
灼熱の乾いた世界。
深遠なる森の世界。

それぞれの欠片が繋がっていく。
違った色のガラスが組み合わさって広い世界を作る。
踏みしめた分だけ、色ガラスの世界は広がって行く。



ガラスの上を踏み歩く。
薄氷に乗ったように素足の下で罅が入る脆い音がする。
壊れてしまう。
壊してしまう。
胸が苦しくなり息が詰まった。
助けて。
声は音にならず、手を頭上に伸ばした。
助けて、と。
救いを求めた手のひらは宙を掻く。

丸い目玉が恐ろしいほど抜けた青を映す。
ここは大地の上か、空の上か。
誰もここにはいない。

ただ白い光の中、青い天井を目を見開いて仰いでいた。
薄氷がとうとう割れる。
ああ。
胸がいっそう締め付けられる。
涙が目尻から漏れる熱さだけを感じた。

体が浮く感覚。
そのまま青い空を見ながら仰向けで手を広げながら落ちて行く。



背中から叩きつけられて体は地面で大きく波打った。
手足を動かそうともがくが、指一本たりとも動かせない。
涙だけは止めどなく溢れては流れる。
体は地面に張り付いて重い。
腕や背中の痛みはないのに、体の中枢、心臓だけが締め付けられるように痛んだ。
胸が冷えていく。
空を正面に捉えた目は瞬きすることもせず開いたままだった。
涙が目尻から米神に流れては落ちる。
救いを求める声は体の中で渦巻くが、舌先さえ自由にならない。

「ないているの」

囁くような細く澄んだ声が響いた。
一点から発せられるというよりも、小さな空間の端まで声が行き渡る。
滴が水面に落ちるような耳に染み込む声だった。

  だれだ。

青い空を背にして白く光る影。
煌めく髪は緩やかに波打ち、光に透けて金色に輝く。

「ひとりがこわいのね」

光る手が目の前に伸びる。
透き通った手のひらは輪郭から粒子空気に溶けていく。

  きみはたしか。

「からだがぜんぶとけてしまうまえに、あいにきたかった」

  これは、ゆめか。

「そう。ヒトのこのゆめ」

  ヒトのこ?

「たくさんはなしたいことがあるのに、ね」

  きみはしってるのか、おれのことを。

「あなたはとおく、わたしにつながっているから」

光で形作られた白い影は両手でそっと頬を包み込む。
視界には光の粒が舞い光る。

「ほんのいっしゅん。でもわたしはあなたに、であって」

それはすれ違う程度の出会いだった。
肩が微かに触れるか、視線が一瞬重なるかその程度のものだったはずだ。
今になってなぜ現れる。

「あなたにふれて、わたしはここまでこられた」

影の中に柔らかい唇と目が浮かぶ。
どこか懐かしい温かい瞳をしていた。

「これは、ひつぜんなのか。すべてはきまっていたことなのか」

  さあ、それはおれにもわからない。
  そもそも、どうしてきみがここにいるのかもしらない。

「なすべきことを、するために」

  それは、なに?

「あなたとつながること。こうしてふたたびであうこと」

  こんなかたちで、なんて。

「わたしはヒトだから。あなたのなかにはいってこられた。カギになれた」

  カギって?

「つないでいくの。あなたへと」

  おわったらきみは、きえるのか。

「おちゃにしずめた、さとうみたいに」

悲しみや嘆きなどないように軽やかな声は言う。
小さな冗談を口にするかのように明るい声が言う。

「からだはとけて、わたしはかぜになるの」

  かぜ。
  きみはいつまでここにいられるの?

「おわるまで」

  いつ、おわるの?

「あなたは、みたゆめに、どれだけのじかんをついやしたのか、おぼえている?」

時間と空間の狭間。
わたしたちはそこを漂っているのだと彼女は言った。

「あなたはひとりじゃないわ。いまはみえなくても」

柔らかい光と粒子を纏っている彼女の影が少しずつ小さくなっている気がした。

「あなたはたくさんのものとつながっている。たくさんのものにあいされている」

  それをいいにきたのか。

「あなたはわたしのさがしていた、こたえなのかもしれない」

粒子の腕が首に絡みつく。
視界が光の粒で埋まる。

「わすれないで。あのひ、であったこと」

  わすれない。
  きみのなまえも、きみのこえも。

彼女は最後に言った。
わたしの大切な人とあなたが出会えますように、と。
それは祈りなのか、願いなのか、未来なのか。
彼女が何を思い、真実願って、欲していたのは何なのか知り得ない。
もっと深く彼女を知りたかったと思う。
ほんの一瞬のすれ違いは、記憶に深く刻み込まれていた。
彼女の柔らかい手も、心配そうに顔を覗きこむ目も、忘れていはいない。

彼女の手が触れた首筋から温もりが染み入ってくる。
胸が苦しくなり、目の奥が熱くなっていく。
しかしそれは先ほどまでの寒さを感じる孤独ではない。
掠れていた記憶。
懐かしさ。
愛おしさ。
手を伸ばして触れたものを胸に抱き寄せたい。




夢が覚めていく。
微睡の水底から、無数の光の糸が体に絡みつき、現実へと意識が引き上げられていく。
目覚めた先に待っているのは真実の痛み。
それでもその先で、待っていてくれて、甘く抱き締めてくれる人がいるならば。

体は重くて、まだもうしばらく夢の中に留まっていたいと呟いていた。
それでも聴覚は鳥のさえずりと木々のざわめきを捉えた。
風は水面を渡り、涼やかで心地いい空気が左頬を撫でる。
左の耳飾りから冷気を感じて、そっと指先で触れた。
冷たい空気で石が冷えたのかもしれない。
石を指で包みながら目を開けた。
誰もいない畔は昼寝をするにはちょうどいい。
嫌なことを忘れたいときには、泉の側でよく眠っていた。
デュラーンでも。
その一言を思い出すと胸が詰まる。

寝返りを打って体を捻れば、胸の上に掛かっていた上着が体から滑り落ちた。
手に取って顔に引き寄せる。

「目が覚めたか、寝坊助」
少々乱暴な口調は彼女しかいない。
見覚えのある上着だと思えば、これは彼女の物だ。

「おはようラナーン」
「おはよう、タリス」
腰を曲げて地面の上のラナーンへ顔を寄せたタリに上着を押し出した。
タリスを見上げる目を捉えて、彼女の顔が一瞬曇る。
タリスの手のひらが頬に触れ、親指が乾き始めた涙の跡をなぞる。
顔は横に逸れ、首筋に埋めた。
頬にあった手は脇の下から背中に回り、抱きこまれた。

「あったかい」
柔らかい。
引っ込んだはずの涙がまた戻ってきそうになる。
タリスはラナーンの背中を優しくあやす様に撫で下ろした。
しばらく互いに無言で密着していた後、ラナーンを抱えたままタリスが立ち上がる。

「ごめんな」
「どうしてタリスが謝るんだ」
タリスは答えなかった。
泉を背にしていた彼女が先に気配を感じて顔を上げた。
茂みの間を抜ける小路で縦に長い人影が立っている。
タリスがラナーンを体から引き離し反転させると、近づいてきた人影に向けてラナーンの背中を押し出した。

寝起きでようやく立ち上がったばかりの脚はバランスを崩して膝が落ちる。
上半身を長い腕が掬い上げた。
彼もまた、黙ったままだった。
タリスと同じように腕を引きこんで体を寄せた。
タリスとは全然違う、堅く被さる体だった。
夢の中で現実に引き戻される前に感じた感覚が、生々しく蘇る。
胸を締め付けられる強い懐古の情が腹や胸から持ち上がってくる。
震える目蓋を隠すように肩口に額を押し当てた。
アレスの匂いがする。
匂いは記憶の糸を引く。

凍牙の祠で、氷の洞窟で気を失ったラナーンが目を覚ますまで抱えていてくれた。
デュラーンの泉を思い出す。
初めて出会った場所。
ずっと側にあった、大切なもの。

いつも出会いは泉だった。
いつも誰かが腕を引いてくれる。

胸も目も焼けるように熱い。

「帰りたいか」
耳に唇を寄せて低くアレスが囁いた。

「今は」
涙のせいか寝起きのせいか、掠れて空気が漏れるばかりの微かな声で返す。

「どんな顔をすればいいのか、わからないから」
聞きたいことはあるけれど、どれから聞けばいいのかわからない。

「兄上とエレーネを、裂きたくはないから」
了解した、とばかりにアレスは強くラナーンの背を抱いた。

「どんなことがあっても俺は離れない。俺を信頼しろ」
強い言葉と強い約束。
アレスは決して裏切らない。
タリスもずっと側にいる。
無条件で信頼できる二人に挟まれて、言える言葉はありがとうの一言だった。











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