Silent History 129





最初に調子が狂い始めたのはラナウだった。
片足の振りが遅れている。
肩で息をし始めるようになった。
少しペースを落とそう、とアレスがタリスに視線を合わせた。
体が軽く、筋肉の付きに無駄のないタリスは大所帯の中ではまだ体力に余裕があった。
遊び好きでファラトネスのあちこちを駆け回って鍛えた体は侮れない。
ヘランの側女たちは何とかついてきている。
ラナーンも問題はなさそうだ。

無理もない。
肉親を失った彼女を無理やり引っ張ってきたようなものだった。
砂混じりの風にラナーンが目蓋を下ろす。
奇妙な場所だと乾いた土を踏みしめながら思う。
町には人が住むものだ。
だが黄土色の町が抱えているのは逃亡者たちだけだった。
風の音だけが鳴っている。
ここはどこなのか、と誰もが思っていた疑問をフリアが口を切った。
人がいない。
ただ人が消えたのではなく、住居には朽ちた戸が片割れを失った蝶番でぶら下がる。
狭い町の道のどちら側を見ても窓が抜け、戸は外れ、風通しのいい家が連なっている。

「昔、この近くにバシス・ヘランがあったらしい。町はその残骸というべきか」
細い通りを抜ける風が強く、アレスは服を口元に引き上げた。
体の頭から足先まで包まれた六つの影は身を寄せられる場所を探って通りを進む。

バシス・ヘランはその柱であるカリムナを何らかの形で失った。
空っぽのバシス・ヘランはアミト・ヘランへと姿を変える。
バシス・ヘラン繁栄の恩恵を受けていた周囲の町たちを巻きこみ燈火を消したかつての都は、ここから三時間と離れていない。

「これがカリムナを失うということなのですか」
「カリムナの存在についてここで語ることもない」
風が石の壁をそぎ落として、雨が屋根を削り取って、人の手で造られたこの町が土に還るまでどれほどの時間が必要なのだろうか。
この町が収めるべき人を失ってどれほどの時間が過ぎたのだろう。
重く前に横たわる時間を思いアレスは目を閉じた。
獣が荒らせる食糧もなく、平たく美しい石畳には砂が埋まってしまっている。

「アレス、カリムナはアミト・ヘランを抑えていたんだよな。地下には夜獣(ビースト)が湧き出る。だとしたら」
ラナーンが早口で縋るようにアレスに問いかけた。

「いい質問だ。ということは?」
「夜獣(ビースト)は町や村にまで」
「そうだ。かつてここもそうだったのかもしれない」
アレスは壁際に転がる長細い石の欠片の前に爪先を置いた。
それはかつて人の肉に埋まっていたもの。

「今回もまた」
タリスが剣を抜く。
アレスが柄に手を掛ける。
ラナーンも遅れを取ることなく構えて皆、臨戦態勢に入った。
剣を持たない側女は壁にラナウを押しつけるように守りを固めた。

呼応するかのように、唸る影が二つ飛び出した。
歯を食い縛り、眼は鈍く光る。

「でもお前たちにくれてやる肉も骨もここにはない」
タリスが中段の構えを取り、片足を引いた。

アレスより一回り大きな体で地面に四つの脚を突き立てている。
間合いを測り、様子を窺う眼は殺意に満ちていたが、熱だけに侵されていない。
知の片鱗を感じる冷やかさも眼の奥から滲む。
知を隠し持つ冷たい怖さを感じた。

一匹がタリスに襲いかかる。
男女の区別すら瞬時に判別できる。
重い一撃をタリスが剣先で跳ねのける。
体の軸が傾き、よろめくタリスの腕をラナーンが引き戻し、夜獣(ビースト)へと斬りかかった。
もう一匹にはアレスが対峙している。
毛皮を薄く剥ぐようにしか剣が当てられず、致命傷で足を止められない。
俊敏なだけではない。
ラナーンの脇をすり抜け、廃墟の入口に飛び込んだ。
逃げたとしても袋小路、逃げ場はない。
振り返ったラナーンの目の前、窓枠の抜けた窓から飛び出し、タリスの顔へと爪を突き立てた。
タリスは体を捩じり地面に丸まったが、そのまま夜獣(ビースト)の巨体を受け止めれば骨が砕ける。
骨とタリスの絶叫を想像したと同時にラナーンは左脚に力を込めて疾走した。
頭突きする勢いで剣を握ったまま夜獣(ビースト)の脇腹に追突した。
肋骨を掠って剣の入りは鈍ったが、内臓深くへ押し込めた。
腹にラナーンの剣を突き立てながら夜獣(ビースト)は地面に転がり悶絶する。
タリスはすぐさま砂塗れの体を起こして剣を逆手に持って夜獣(ビースト)の爪を交わしながら、喉元一点に狙いを定めて剣先を落とした。
剣は夜獣(ビースト)の喉を裂き、骨を避け、刺し貫いて地面へと抜けた。
石畳の隙間と隙間に剣先が嵌り、夜獣(ビースト)は喉に打たれて動けない。

「ラナーン! 剣を抜け」
未だ息が絶えない夜獣(ビースト)が勇猛に牙をむき出し爪を振る。

「早く!」
止めを刺さなければ。
夜獣(ビースト)の脚の動きを読み、柄を手に。
今だと狙いを定めて飛び付いた。
腕に夜獣(ビースト)の爪が擦れる。

横倒しになった夜獣(ビースト)の上を飛び越えて剣を攫うつもりだった、しかし肋骨に引っ掛かり素直に抜けず一瞬遅れた。
その焦りを夜獣(ビースト)は逃さなかった。
返す前脚の甲でラナーンの脚を崩す。
転倒したラナーンの目先に夜獣(ビースト)の爪が振り落とされる。

タリスが悲鳴混じりで名を呼び、アレスが打ち倒したばかりの夜獣(ビースト)に背を向けて走り寄る。

ラナーンは地面を転がり、身を起こすと同時に横一閃に薙ぎ払った。
剣先は狙い通り、夜獣(ビースト)の眉間に入る。
見事、とタリスは声を上げることもできず息を呑んだ。

剣を水平に振り切ったラナーンも、片膝を崩さず夜獣(ビースト)の断末魔の叫びを見届ける。

弛緩した夜獣(ビースト)に掛けたアレスの左足が返り血で濡れていた。
体重を掛けて転がしてゆっくりとタリスの剣を抜くと、空を切って血を飛ばす。

「ここで二匹。他にも散ってるだろうな」
カリムナの恩恵で安穏と過ごしてきたソルジスの民にとって夜獣(ビースト)など初めて見る者もいるだろう。
彼らは戦う術など持たない。

目の前の血みどろの惨劇に側女たちは壁とラナウに張り付いて何とか立っているが、ぎりぎりの精神状態で膝を伸ばしているに過ぎない。
目は揺れている。
彼女たちは恐らく、夜獣(ビースト)はおろかこれ程大量の流血も目にしたことがないだろう。
戦ったり命を奪いあうことを目にしたことがない。
差し出したラナーンの手は、引きつった顔を背けられてしまった。
戸惑い、引き戻した自分の手を凝視するラナーンに、我に返ってフリアがごめんなさい、ごめんなさいと何度も細い声で鳴く。
悪気があったわけでも、ラナーンを疎ましく思ったわけでもない、ただ返り血の斑を恐れただけだった。
同じく怯えた目をしていた側女がラナーンの腕に手を触れた。

「フリア。水を」
「は、はい」
水袋を二度取り落して、側女に手渡した。

「かなり痛みますか」
傷口を上手く水で洗いながら、傷の状態を診る。
肉を深くは裂いていない。
街で手に入れた薬草を揉み、包帯に汁を染ませるとラナーンの上腕へ丁寧に巻きつけていく。

「腕でよかった。脚をやられてたらと思うとぞっとする」
「少し休みましょう。また歩かなくては」
アレスがラナウの腕を肩に乗せて立ち上がる。
休めそうな場所を見つけたようだ。
死臭の立ち込める場所にいるだけで体力も気力も削られる。
早くも蝿が臭いを嗅ぎつけた。
小さな町だ。
水も枯れた。
壁が残っている場所で身を寄せて、水を分け合った。

「あれが、異形というものなのですね」
「紛うことなき異形だ。俺たちは夜獣(ビースト)って呼んでいるがな」
大きな弦楽器のように深い静かなアレスの声は、湿り気を帯びた土のように温かで、血を目にして昂った心を落ち着かせてくれた。
身動ぎしたラナウにタリスが目を向けた。

「気分はどうだ」
「心配をかけてしまって、足を引っ張ってしまってごめんなさい。もう、歩けるわ」
顔色は相変わらずだが、立ち上がるだけの気力は残っている。 行程はほぼ消化した。
あと一息だ。
空には雲が掛かってきていた。
このまま雲が厚くなり、夜になってしまえば月の位置さえ失う。

背筋を伸ばしたラナウが一点を見つめて動きを止めていた。
風の音は相変わらず耳に叩きつけてくる。

「ラナウ様?」
「あれは、何です」
土色の壁が少しずつ移動している。

「砂嵐だ」
タリスは唇を噛み締め、ラナーンは目を見開いた。
アレスは切れ長の目を細めて砂の壁を見つめる。

「進行方向は」
「大丈夫、こっちには来ないわ」
ラナウの見定めに頷いたアレスが指揮を取り、皆を立たせると進路を指差した。
天頂にあった太陽は傾き始めている。











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