Silent History 99





西へ進む。
都会の圧迫感はすぐに薄れていった。
天気を知るのに、一々真上を見上げるようなこともない。
少し首都から離れるだけで、環境は驚くほど違う。

住んでいる人間は都会との利便性などに格差を感じるだろうが、訪れた者にとっては、穏やかな土地だとしばらく足を止めてしまいそうだ。

四人のうち女性は二名。
水場が川であろうと、宿が小さかろうと文句を垂れる女人ではなかった。
シーマは髪の毛に砂が絡むと気持ち悪いからと、ひとつに結んだ髪をまとめて布で頭を覆ってしまった。
服装も、清潔で臭わないのなればそれでいいという無頓着ぶりなので、少年なのだか少女なのだか分からない風体だ。

タリスも似たようなもので、土の匂いがすると言いながら無邪気に見慣れない低木や花を観賞している。
持って帰りたいなと漏らせばアレスがすかさず、検疫に引っ掛かるから止めろと口を出した。


エストナールを西へ西へ進んでいけば、山脈にぶつかる。
山を越えれば隣国に抜けられる。
エストナールはかつて、夜獣(ビースト)を従え世界を絶望と混沌で満たした黒の王を、神王(しんおう)として祀っていた信徒を抱えていた。
今では拭い去った過去でしかないが、事実は離島で静かに息づいていた。

隣国はその反対だ。
顔は、黒の王もとい神王(しんおう)を封じたサロア神へと向けられている。

眠れるサロア神の影響が濃い国に、興味を持った。

歴史の歪さを垣間見た。
知っていた千五百年前の話の裏に、隠された真実が少しずつ浮かび上がっていくような気がした。

黒の王が従えていた魔は、サロア神が黒の王とともに封じたはずではないのか。
魔が湧きだす扉たちは千五百年の昔に閉じられたはずではないのか。
魔が、夜獣(ビースト)が森から現れる理由。
壊れた神門(ゲート)。
そして黒の王は秩序の王と呼ばれていた。

「隣はソルジス。神殿がたくさんあるって街の人間は言ってたけど」
「隣の国と交流はないのか?」
シーマの無知を責めるでなく、純粋にタリスが尋ねた。
もちろんシーマもそれを承知している。

「私はイリアしか見てなかったし、隣と頻繁に交流してるわけでもなさそう」
「宗教的にもサロア神を信仰してるからか?」
「ごめん、私はよく知らないんだ」
まだ子供であるタリスやラナーンたちよりもさらに幼いシーマが、隣国との外交関係や宗教関係を知らないのも無理はない。

「山だ」
改めてラナーンが呟いた。
道は傾斜が掛かっている。
すでにその裾をラナーンらは踏んでいる。

「壁だな」
続けて呟いたアレスの声に、ラナーンはただ頷いた。

「水を含んだ風はこの山に遮られて、あちらには届かない」
乾燥地帯が広がっていると、シーマは聞いた。

「ルートは?」
数歩先を歩いていたタリスが腰に手を当てて、アレスへと振り返った。

「このまましばらく行けば村がある。そこから南へ流れる道がある」
手振りを交えながら、端的に説明していく。
山を正面から越えるのは無理だから、途中村をいくつか経由する。
最終的には汽車が出ているので、それに乗ればいい。

「今日はまだ日が高いが、この先の村で宿を取る」
異存はないなと目で確認した。
あるはずもない。
日が暮れてから動くのは危険だと全員が理解していた。
夜獣(ビースト)がいつ現れてもおかしくないからだ。






「誰も口にしないのは、きっと口にしてしまえば寂しいから」
地下水を引っ張り上げて噴き出している小さな噴水の広場で、シーマは隣に座るラナーンへ顔を向けた。
タリスは食料を買ってくると一人で行ってしまった。
アレスは調べ物をと一言だけ残して、どこへとなく消えた。

「シーマのことだよ」
「私は山を越えない。もうじき、さよならだ」
「覚悟はしてたけど、実感がない。実感にしたくないから、みんな話題に触れないんだ」
「シーマ、本当に」
「だめなんだ。ディールが待ってる。帰らなきゃ」
それ以上、ラナーンはシーマを引きとめることはできなかった。
何も、今すぐにさよならというわけじゃないんだからとシーマは笑ったが、どこか寂しさを拭えきれない笑みだった。

「シーマがいてくれて楽しかった。いろんなことを知ってるし。強いしね」
「私だって本当に楽しかった。ずっとタリスやラナーンや保護者みたいなアレスと一緒にいたかった」
「本当、アレスは保護者だ」
彼がいなければ、ラナーンはシーマと出会えていない。
一人で世界を回れもしない。
デュラーンから出ることさえ叶わなかったかもしれない。


「いつまで経っても一人前になりきれない。助けてもらってばっかりだ」
「ねえ、ラナーン」
腰かけている噴水の端に、膝を持ち上げて乗せた。
隣のラナーンに正面を向ける。

「助けてもらうのは悪いことじゃない。アレスが」
言葉を切ったシーマの動きも電池が切れたように止まった。

「どうかした? 虫でも潰したのか」
「いや、窪みが」
体を支えている、シーマとの間に置いていた右手をそっと退けた。
ラナーンも二人の間、噴水の石を覗きこむ。
削られた跡があった。
やすりで平らにならされたというのでも、物がぶつかって角を欠いたという風でもない。
人為的に、意図的に誰かが抉り取ったというような窪みだった。

「ほら、何か書いてあるのを消したみたいだ」
シーマの指が、薄くなった線をなぞる。
彼女の言う通り、浅く掘れている。

「いたずらじゃないか? 子どもの」
「ここだけに? 他はきれいなままだ。それに、この石。何の石か知らないけど硬いぞ」
シーマが目の端で周囲をうかがい、人気がほとんどないことを認めると、腰から常備しているナイフを抜き出した。
刃先を窪みの端に軽く振りおろしてみるが、鋭い音がするばかりで欠片が出る様子もない。

「子どもの力で彫れるかな」
「一日じゃなく、何日も掛けてなら」
疵が付いていたりすると、広げてしまう人間の心理。

「じゃあこの削り取られたような記号は?」
エストナールの文字ではないようだと、人目を気にし、ナイフを仕舞ってシーマは言う。

「他も調べてみようか」
先にシーマが立ち上がって、丹念に噴水を調査しつつ一周する。
特に発見もないようで、間もなく曇りがかった顔で戻ってきた。

「結構古そうな疵だったんだけどな」
「ならさ、あれとかは」
指さしたラナーンの先には灰色の石を彫り抜いた道標が立っている。
瞬く間にシーマが駆け寄り、石に張り付いた。

「ラナーン! すごいよ」
興奮して叫ぶので、ラナーンも道標に走り寄った。

「ここ、ここ。さっきみたいに削られてる。これは何かあるぞ!」
シーマの指先の痕へ、腰を屈めて顔を寄せた。
さっきと同じような文字か記号かが削られている。

「それは流れた者たちの足跡だよ」
二人が振り向いた前には、中年の女性が買い物籠を抱えて立っていた。
野菜がたくさん入っている。
夕食の買い出しを市場へと説明してくれた。
賑やかに噴水や道標の記号を探っているので、声をかけずにはいられなかったのだという。

邪教とされる黒の王の信仰でエストナールを追い出された信徒たち。
彼らは散り散りとなった。
ある流れは東の離島へ。
またある流れはここを通り、いずこへと流れていった。

「今では神王派が残した足跡を、なぜ消そうとしていたのかすら風化してしまいそうだけど」
「記号は何て書いてあるのか、読めますか?」
「残念だけど、坊や。読める人なんてもうこの村にいるかどうか」
ラナーンの肩に手を乗せて慰めた。

「じゃあ、これを刻んだ人たちはどこに?」
飛びつくようにシーマが女性に質問した。

「この先は隣国、ソルジスへ通じる道なのよ、お嬢ちゃん」
「でもあそこはサロア神を仰いでるって」
「ソルジスへ向かったのは確かのようよ。街のあちこちに、その痕が残ってるわ」
「探してみます! 何か、宝探しみたいだな、ラナーン」
「おもしろそうだ」
女性にお礼を言い、ラナーンの腕を引いて走り去る。
少年より一回り小柄な少女に引っ張られて行く黒髪の少年を、中年の女性は手を振りながら微笑ましく見送った。




三つ目の傷痕はすぐに見つかった。
やはり鋭利なもので削り取られた痛々しいものだった。

「何て書いてあるんだろう。どんな思いで残したんだろうな」
傷口を労わるようにシーマが手を寄せる。

「居場所なんてなかったんだ。サロア神に滅ぼされた悪の王。世界からは邪教扱い」
世界中が敵に回った。
世界を混沌へ落としたのは黒の王とそれが統べる魔という存在だったのだから、当然だ。

古い橋の袂からシーマが立ち上がって見回す。
彼女の視線が止まった先に、獣道がある。

「行ってみるつもり?」
「何かありそう」
彼女の好奇心を抑えられそうにない。
タリスと共有してきた時間で、わがまま王女の性格までも移ったのではないかと少し心配した。

「危ないと思う。いざとなったらラナーンがいる。私だってちゃんと自分の身は守れる」
腰のナイフ、上着の下の短剣、細身の体に仕込まれた武器を再確認した。
確かに、シーマは歩く凶器のようだ。
ナイフの投擲能力、命中率は目を見張る。

「だけどおれ宿に荷物預けて丸腰だ」
「じゃあこれ、預けとくね」
上着の背中に手を回して服の中を探って取り出した短剣を渡した。
どれだけ仕舞いこんであるのだか、一度すべて地面にでも並べてほしいくらいだ。
重さだけでも相当なものだろうと短剣を受け取った。

「軽い」
「だろう? 刃が特殊な鉱物で出来てるらしい。首都で見つけたんだ」
それで買い込んだ。
向こうが透けて見えそうな透過度、指で弾いて硬度も高いことが分かる。
色は鈍色ではなく、少し青味がかったガラスのようだ。

「お守り代わりだな。アレスはいないし」
「別に、アレスは」
「それにそんなに深くまで進まないよ。前みたいに怪我をするようなまねはしない」
エストナール離島、神の棲む島で、シーマはラナーンを無理やり連れ出した。
島の牧歌的な雰囲気に気を許し過ぎていた。
結果、ラナーンに傷を負わせたのは忘れられない事実だ。

「行こうか。奥の方、陽が射してきれいだ」
鳥の声がする。
人の歩いた細い跡を辿るようにゆっくりと進む。
シーマにとっては懐かしい風景だ。
林と細い道と木漏れ日、溢れそうな青々しい匂い、土の香り。
踏みしめる柔らかな青草と砂粒を潰す音がした。
触れる木の乾いた樹皮、木々をすり抜けて感じるか感じないかという繊細な風を頬に感じる。

ラナーンはシーマを呼び止めた。
彼女が顔を向けていた手の届かない木々で阻まれた林の奥ではなく、右手の岩へと彼女の注意を促した。

岩にまた何か刻まれている。
ただこれは、他の文字とは違う。
砂埃を被っていてはっきりとは見えないが、何か立体的に彫られている。
手で砂を払い、息を吹きかけて輪郭を明らかにした。

人の形が浮かび上がった。
頭から足先まで、細いシルエットが現れた。

「女の人みたいだ」
丸みを帯びた胸がある。

「ここだけは無事だったんだ。これもやっぱり神王の信徒たちがやったのかな」
「たぶん」
「じゃあこれは誰?」
彫られていて消えたのか、彫られる前に信徒は去ったのか、顔は消えてしまっていた。
両手を腰に沿わせてこちらに向けている。
指の一本一本細かく彫られてはいないが、包み込むような優しさがにじみ出ていた。

「信徒にとって、これは信仰の対象だったんだろうね。想像上の女性であっても、彼女がいたから生きていけた」
逃げても、抑圧に背を向けても、生き続けようとした。

シーマは自分の額を、創られた像へと寄せた。

「アレスも、ラナーンがいるから生きていけるんだ。一緒だ」
肌ですでにここにはいない信徒たちの、女性へ捧げた愛を感じようとした。

「アレスがラナーンの側で守ろうとするのは、王子様だからじゃないよ」
「友人としての情。でも違うんだ、それだけじゃない。それは、一緒なんかじゃない」
「アレスはラナーンがいなくちゃ、アレスでいられない」
「アレスは十分に強いよ」
「守るものがあるからだ。ラナーンたちを守りたいと思うから強くなれる」
その想いは、愛は人を強くする。


「アレスは死ぬつもりだ。命を捨てて守る。美しいことかもしれないけど、残された者はどうする」
アレスは分かっていない。
想いは嬉しい、だが本当の気持ちは分かっていない。

「役目のために、義務感や使命感のために、おれのために自分を犠牲にしてほしくない」
「ちゃんと、考えてるんだ。アレスのこと」
岩に米神をつけて小さく笑うシーマの隣に、同じように額をつけて並んだ。

「当たり前だ。ずっと、一緒にいるんだから」
彫られた彼女は、信徒たちが去ってもずっとここに残り続けた。
置いていかれても、砂を被っても。

「あーぁ。何だか私も帰りたくなった。ディールに会いたいなあ」
岩から離れて土の道へと飛び跳ねながら躍り出た。
ホームシックを我慢するように空を仰ぐ。
青い空が木の葉の間から見える。
ここはデュラーンからも、ファラトネスからも、シーマの故郷からもずっと遠い。

「道が続いてるってことはさ。ここにいるこの人も、案外まだ誰かの心の支えになってるのかもね」
置き去りにされた女性像に意味を見出すひとがいる。
彼女はまだ誰かを救っているのかもしれない。

隣に戻ってきたラナーンの額へ手を伸ばした。

「砂、ついてる」











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