Silent History 73





イリアの指がシーマの肩に食い込む。
痛覚など麻痺していた。
自分の痛みよりも、イリアの方がもっと苦しいはずだ。
彼女の見開いた瞳から涙が絶え間なく流れ続ける。

獣(ビースト)の精神が引き剥がされた痛み。
そして獣(ビースト)が受けた傷が伝わる痛み。

壮絶な苦痛に、イリアの身体は跳ね上がった。
掠れて濁った耳を塞ぎたくなる声が喉から絞り出される。
床に爪を立てた手は、青白い血管と骨が浮き出している。
酸素を求めて喘ぐ大きく開いた口。
虚空を見つめ、忙しなく微動する眼。
全身で苦痛に耐えている。

それも終わりを迎える。




痙攣していた身体は、獣(ビースト)の形が消えていくにつれ、やがて弛緩していった。
イリアの指からも力が消えていく。
シーマの腕の中の身体も、重くなっていった。

イリアの瞳に一瞬宿った光。
濡れたシーマの顔に眼球だけ動かした。
何かを言いたげに唇は震えるが思うようにいかない。

それも一度きりだった。
すぐに重い目蓋に遮られた。

シーマはイリアの名を呼び続けた。
イリアの息が止まってしまっても。
イリアの脈が弱くなっていっても。
やがてイリアの心臓の音は完全に消えた。
抱き続ける腕の中で、冷たくなっていく体温。
温もりが去っていくにつれ、イリアの身体がもう人間のものではなくなっていくのを実感した。

「嘘、だろう。嘘だって、夢だって」




何を呪えばいい。
何に願えばいい。
どうすれば取り戻せる。

しかし、呪う相手はもうおらず、神は願いを叶えられない。
何の罰だ、これは。
何の罪を犯したというのだ。
どこで道を誤った。

叫んで魂が戻るというのならば、いつまでも叫び続けよう。
声が嗄れても、喉が潰れても、血を吐こうとも。
何を犠牲にすれば、イリアは戻ってくるのだ。
捧げられるのならば、脚でも手でも奪って行くがいい。

こんな、惨い仕打ちを。
こんな残酷な、こんな。






イリアを抱きしめたまま放さないシーマを置いて、ディールが部屋を走り出た。

彼の後を追って、ラナーン、アレス、タリスらも表に出た。
すでにディールの姿はどこにも見当たらない。
三人に探す気はなかった。
今は誰とも会いたくないはずだ。



屋敷の壁伝いに歩き、誰ともなく足を止めた。
壁に背を押し当て、三人が並んでいた。

誰も、口を開かなかった。



タリスは、二度目だ。
生々しい死の記憶が甦る。
獣(ビースト)に殺されていった自国の兵士たち。
残された者たちは皆、獣(ビースト)を呪った。

なぜ殺されなければならない。
ファラトネスの民が何をしたと。
何の報いを受けねばならないのか。


だがその獣(ビースト)が、今度は逆にゼランという人間に利用された。




もう、考えたくない。
人の死など、もう十分だ。
頭を振って家の壁を背に、滑り落ちるようにそのまま地面に蹲った。
両手を顔に押し当てた。
視界に入るものすべてを覆い隠してしまうために。
血の匂いがする。
手に染み込んでしまった。
獣(ビースト)の血だ。

人間を虐殺した獣(ビースト)。
デュラーンの人間を。
ファラトネスの民を。

ゼランに捕らえられた獣(ビースト)。
ディグダの石に取り込まれた獣(ビースト)。

その獣(ビースト)を、自分は殺し続けている。
正しいのか。
正しいのだろう。
生きていかねばならないのだから。
きっと、これからも何体も殺め続けるだろう。
自分の道を阻むものを。

タリスは、押し殺した笑いを漏らした。
混乱している。
見えていたはずの道、信じていたはずの自分の信念を見失う。
いつもの私らしくない、そうした自嘲だ。

いや、本当の自分とは何だ。
今まで見えていなかっただけじゃないのか。
だから周りを取り囲む状況を楽観的に見、安易に判断して生きてきたんじゃないか。

浅はかだ。
何も知らないまま、獣(ビースト)を殺めてきた。
あれだって、城に残してきたイーヴァーと同じ。
イーヴァーも獣(ビースト)だ。

獣(ビースト)に同情などいらない。
分かっている。
死にたくないから殺してきた。
躊躇ったら最後、こちらが命を落とす。
分かっている。

しかし。
同じなんだ。

自分の底の浅さが疎ましくて堪らない。


ラナーンが隣に座り込み、黙ってタリスの肩に手を回す。
その温もりすら染みる。
ラナーンの方が辛いはずだ。
身近な人間を失う痛みは、母親を失った彼が一番良く知っている。
だがタリスの知る限り、その苦しさを表に出したことはない。
泣いて甘えれば、慰めを請えば楽になるのだろうに、彼はしない。
そうすることを自分に許さない。
そのラナーンが今、側にいないレンの代わりにタリスの肩を抱いている。

「イリアに、門を潜った不完全な獣(ビースト)を植え込んだ」
唐突に、アレスが切り出した。
不完全な、半透明の獣(ビースト)だ。
魔と呼ばれる存在と言ってもいい。
それをディグダの石に封じ込め、イリアへ解き放った。

「ゼランという男は、誰より愛しく誰より憎いイリアを獣化させ、暴走させようとした」
ラナーンは一人壁を背に立って話し続けるアレスを見上げ、聞き入った。
タリスは背中を丸め、覆った手の中に顔を埋めて耳だけをアレスに向ける。

「イリアが大切に思うものすべてを、その手で消させるために」
しかしイリアにとって、それはどうしても許せなかった。
消え去った感情と意識の深い深い奥底で、必死で魔を抑え込んでいたのだ。
その命が耐えるまで、ずっと。

「まさかゼランもこういう結果になるなんて思ってもみなかっただろうな」
イリアの周りへの思いが、これほど強く、これほど長く押さえ込めるなどと想像していなかっただろう。

「太陽の石は、本物だったんだろうな」
それっきり、口を閉ざした。

アレスの言う通り、あれは確かに魔に作用したのだろう。
ただ、魔を消し去るのではなく、魔を獣(ビースト)に還元する、一個の個体として分離する力が働いた。
イリア精神と癒着した獣(ビースト)の精神を引き剥がすことができたのだ。
今はラナーンにも納得できる。

「だってあれは、門(ゲート)の欠片だったんだから」
人の血で目覚めた、その門。
その石。
宝玉。

シーマは、正しかった。








酔香花が咲き乱れる。
ディールは白い花の中、脚を投げ出し座り込んでいた。
花の中に座っていると、イリアを近くに感じる。
いなくなったなんて、きっと嘘だ。
死んだなんて、信じられるわけがない。
涙は出てこなかった。
ただ呆然と、ただ酷く疲れている。

酔香花。
草の中に、背中から倒れこんだ。
両手を広げられるだけ広げて、果てない天井を仰いだ。
星が出始めている。

イリアも好きだった。
そうだ、よくこうしてみんなで星を眺めていた。
手に触れる酔香花を一輪、摘み取った。
鼻に近づける。
甘い香りだ。

みんなイリアが好きだった。
ディールも、シーマと同じくらい大好きだった。
彼女と一緒に過ごす時間が心地よかった。
イリアは良く笑い、話は飽きなかった。

仲間の話。
薬草の話。
季節で変わる鳥の声。
変わった花を見つけたから見に行く約束。
明日の遊びの相談。
他に何を話しただろう。

星を指差したり、握りこもうと宙で開いたり閉じたり。
子供染みたことばかりだった。
それでも毎日が本当に楽しかった。
幸せだと感じることも忘れるくらい。
変わらないものだと信じていた。
今日が終われば、日が落ちて月が昇り、また日が昇れば同じ日々が始まると。


失ってしまった時間。
シーマはイリアの笑顔を取り戻すため奔走した。
決して絶望に沈まなかった。
ディールにはできなかったことだ。
やろうとしなかった。
脚が竦んでしまった。
いつも逃げて。
逃げて。



「夢ならいいのに」
身体を捻り、うつ伏せになる。
酔香花に鼻先を埋めた。
視界が白になる。


イリアといた頃はこれほど群れてはいなかった。
変わってしまった。
これから先、想像もできないくらい状況は一転するだろう。
イリアがいない。
それだけで。


「このまま眠って、目が覚めたら」
どうなるのだろう。
眠りに吸い込まれていく。


「目覚めるのが、怖い」
シーマは、どうなってしまうんだろう。











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