Silent History 72





アレスたちが視界に入り、凶暴化した獣(ビースト)から逃げるように、洞窟へと走りこんだ。
放心状態のシーマの腕を強引に引っ張り、洞窟の中を駆ける。
幼く見えたディールを横目で見ながら、タリスは感心する。
小さく見えても肝が据わっている。

「洞窟さえ抜ければ獣(ビースト)は追ってこない」
アレスが叫びながら併走する獣(ビースト)を薙ぎ払っていく。
ただ走るだけでは到底獣(ビースト)の脚には適わない。
タリスも、振り返って獣(ビースト)を叩き切っては先に進む。
ラナーンはシーマとディールを隣で守りつつ、切り抜けた。

「抜けるぞ」
アレスの声に全員の速度が上がった。
光が全身を包む。
酔香花の微かな香り。
木々のざわめきが強くなる。

最後までラナーンに喰いかかろうとした獣(ビースト)が、血の帯を垂らしながら洞窟を這い出てくる。
体液が絶えることなく流れ出す。
もう立ち上がる力も残っていない。
間もなく息絶えるだろう。

「石は? 太陽の石!」
シーマが叫び全員の顔を見回した。
アレスが懐から布に包まれた石を取り出す。

「森から漏れ入る光を受けて輝く。ようやく手に入れた。これで、イリアが」
胸元に抱えながら、脚が崩れた。
時間を掛けて探り、追い求めた石が手の中にある。
堅く冷たい石に触れる指が震える。
イリアを救える唯一の希望だ。

「戻ろう。一刻も早くイリアにこれを」
後は事を成すのみだ。








それが本物の太陽の石なのか分からない。
誰も太陽の石を見たことがないからだ。
そう呼ばれている石が、実際に魔とやらを浄化する効力を秘めているのかすら明らかではない。
すべてが不透明で、ぼやけている。

ただ信じるしかない。
シーマが探り当てた唯一の方法に縋るしかなかった。

洞窟で、シーマは石を手に入れた。
アレスらもまた、大いに収穫があった。

獣(ビースト)の発生場所に出会えたのだ。
なるほど、見つからないわけだ。
クレアノール山脈にしろ、ファラトネスの大森林にしろ、獣(ビースト)の湧き出る裂け目は、極小さい。

アレスの足先から膝あたりほどしかない、空間の亀裂だ。
それがクレアノールでは山の中か、山脈を貫く洞窟の岩陰に今も隠れているのだろう。
ファラトネスは、かの大森林の木々の狭間に。
どちらも探り当てるには恐ろしいほどの時間が掛かるはずだ。

だが、それですべてとはいえない。
ほんの一角だ。
いまだ獣(ビースト)は何ものなのか想像すらできないでいる。

ゼランがその裂け目を抜け出そうとした獣(ビースト)を、ディグダの石に封じ込めたのは確かだ。
果たして石だけの力だったのか。
ゼランがいない今ではそれも闇に葬られた。

白とも黄色とも見える、不思議な柔らかい光を発する石を、シーマが握りこむ。
家具や雑貨で飾られて入るもののどこか寂しげな部屋の中、椅子に行儀良く腰掛けた人形のようなイリア。
彼女の前に、太陽の石を突き出した。

魔を祓うという石、イリアに宿った魔を祓え。
念じながら、イリアにかざすが変化は無い。

シーマの指に力がこもる。
シーマを側で見ていたラナーンが、シーマの腕に手を添えて
イリアの体に石を押し当てた。
驚いたように、イリアの体が微かに動いた。
何らかの変化を期待してシーマに力添えしたラナーンも、驚いて固まった。
椅子に腰を下ろしたまま、それまでわずかばかりも動かなかったイリアが、上半身を伸ばすように前に倒した。
体の動き始めたのを追って、掠れた弱々しい悲鳴のような苦しげな呼吸のような音が喉から漏れた。

瞳は相変わらずがらんどうだ。
光や物を追うことはない。

まるで見えない拘束帯の束縛から逃れようと体を捻っているようにも見えた。
あまりのイリアの変化に、シーマは全身の力が抜けた。
イリアが再び動いた。
しかしこれは、こんなイリアの苦しげな姿をシーマは望んではいない。
数分前に見ていた希望はどこに行ってしまった。
イリアを救うために求めた石は、何を与えた。
見開いた目で、シーマは声ならぬ声を上げながら悶えるイリアの膝を抱え込んだ。
アレスの目には、許しを請う姿にも見えた。
意識も定かではないイリアがラナーンに手を伸ばす。
震えながら持ち上げた指はラナーンの手の中に残っていた石に絡まった。
ラナーンの前に倒れこむように、椅子の上で体を半分に折り曲げ苦悶するイリアと、その脚に縋りつくシーマ。
ラナーンはイリアの顔に手を当てた。
父の、そして記憶が薄れ霞んでしまった母の微かな温もりがかつてラナーンの痛みを和らげたように。
イリアの左頬を右手で包み込んだ。

イリアの唇が開く。
瞳は瞬きを思い出す。
しかし、光は戻らない。
苦痛は去ることはなかった。

イリアのもう片方の手はシーマへと降りていく。
膝に掛かるシーマの手に重なった。

「イリア」
シーマの涙に湿った声に反応し、イリアの唇だけが息をするように上下に開いた。

「イリア」
ようやく聞くことができるイリアの声を拾おうと、力なく開いては閉じる彼女の口元に、シーマは耳を寄せた。
こぼれた声が耳に届くと、シーマの顔が引き攣った。
悲しみか、絶望か、あるいはその両方。
すぐ側にいるラナーンは表情の意味を読み取ることができなかった。
シーマに質す前に、イリアがよりはっきりした声を絞り出した。

「ころして」
全員が耳を疑った。

「ころして。おねがい」






イリアの肩が震える。
呻きは捻り出すような悲鳴へと変わっていった。
凍りついたシーマをラナーンが引き剥がした。

正気を失ったように自らの両肩を抱えて、椅子から転げ落ちた。
床の上でイリアは耳を塞ぎたくなるような悲痛な声を上げ続ける。
それを目にし、シーマもまた狂ったようにイリアの名を叫び続けた。
重苦しい悲しみと、息もできないほどの緊張感で部屋が満ちる。
恐ろしい光景だった。
そのとき全員が理解した。
ゼランの成したことが、禁忌だということを。

空気を裂くような悲痛な声での叫びは、人と獣(ビースト)との境を彷徨っているように思えた。

互いに相容れないもの。
異質なもの。
それが人間(ヒト)と獣(ビースト)だ。
目の前のイリアの姿が、物語っている。

二つの間にあった壊してはならない壁をたった一つの石と、一人の人間が崩した。
二色は交じり合わない。
反発しあい、やがては。






髪が額に降りかかったイリアの顔が、シーマへと向いた。


「ごめんね、シーマ。もう抑えられない」
イリアの背中から滲み出す黒煙は徐々に形を成していく。


これは、禁忌だ。


「獣(ビースト)、いや。その魂? 魔、なのか」
アレスに肩を押さえつけられたまま、ラナーンが床の上で声を凍りつかせた。

「あるいは、その存在すべてが」
アレスが剣を抜く。
タリスもその後ろで身構えた。

「切れるのか」
自嘲混じりのタリスの呟きを、アレスは聞き流した。
未だ形が定まらない、幻影のような獣(ビースト)だ。
そんなものにアレスは一度として遭遇することはおろか、話にも聞いたことがない。
ただ分かるのは、目の前の黒煙から生まれた獣(ビースト)は敵意を持ち、こちらは命を取られかねないという状況だ。

獣(ビースト)の眼を中心に黒煙が身体の形に凝縮されていく。
長い尾が揺れ、体毛は炎のように揺らめく。

アレスが動いた。
それに続いてラナーンも抜いた剣を手に獣(ビースト)を追った。
獣(ビースト)の敏捷性は失われていない。
いや、通常以上だ。
二人掛かりでも目で追うばかりで、体がついていかない。

「完全に実体化はしていない。中途半端な姿のままでいつまでもいられるとは思わないが」
消えるまで待っているうちに、こちらがやられてしまう。

「やっかいだな」
アレスの剣先が獣(ビースト)の脚を捕らえても、傷を負わせることなくすり抜けてしまう。
ラナーンの剣も、胴を抜けた。
ディールが短剣で頭部を狙うが、壁に刺さった。

「そうか」
タリスが獣(ビースト)の前へ回り込んだ。
研ぎ澄まされた剣を構え、狙い定めて薙ぎ払った。
しかし、獣(ビースト)は首を上へ反らし回避した。
タリスの横を抜け、重力を無視して壁を走る。

「アレス! 眼を狙え」
確信ではない。
だが、狙う価値はある。

タリスの声にアレスが振り向き目を合わせた。
すぐさま獣(ビースト)を見据えると、頭部目掛けて切り込んでいった。

一撃は逃した。
ラナーンが立ち塞がり、獣(ビースト)に剣を振り下ろした。
実体を持っていれば確実に仕留められたであろう、教え込んだアレスも頷きたくなるほど美しい太刀だった。
だが、剣は額の中心を抜け、左右前足の間へ落ちていった。
金属音が床で弾ける。
身を低くして身体を伏せたラナーンの上を飛びぬけた獣(ビースト)。
それを待ち構えていたアレスが、今度は獣(ビースト)を左から右へ一閃した。
眼が横に割れる。
体液は流れない。
しかし、咆哮が響き渡った。

目の前の獣(ビースト)は口を大きく開いている。
獣(ビースト)の四肢が霧散していく。
アレスは振り返った。
アレスだけではない。
その場にいた全員が、イリアを振り返った。
声はイリアから迸っていた。
仰向けで身体を反らし、高い天井に見開いた眼を向け、口を大きく開いていた。
乱れた薄い衣服の裾からは、細く白い脚が見える。
袖から露になった腕は、痛みに耐えるように床を掻き毟っていた。

シーマがイリアに飛びついた。
イリアを鎮めようと抱き締めた。











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