Silent History 63





途切れそうになった意識を繋ぐため、アレスが拳を地面に叩き付ける。
タリスも何もできないまま腰を落としたまま、アレスの丸まった背中を見つめていた。
二人ともが動けなかった。
体は痺れたように力が入らない。
緑清草と蒼漱石に浸した布は二人の口元を覆っている。
ラナーンが連れ去られる瞬間、酔香花の匂いは一際強さを増した。
空気が濁るほどに香りたつ。


なぜだと考えるまでもなく、明らかだった。
ラナーンを連れ去った何者かが答えを握っている。
意識を失ったラナーンは、アレスが嗅いだ酔香花の香りの何倍もの濃さを嗅がされたのだろう。

アレスは再び地面に拳を叩きつけた。
小さく唸り声を上げながら。
不甲斐無い自分への抑えきれない怒りと、連れ去った犯人への憎しみが爆発する。
体はラナーンを連れ去った犯人を追おうと草むらへ這っている。
タリスはそのアレスの肩を両手で力一杯引いて引き止める。
だが、アレスは屈強なばかりでなくその意志も強固だ。
体を止めるつもりが逆にタリスごと草むらに引きずられていく。

振り切られなかったのは、アレスがタリスよりも深く酔香花の香りを嗅いでいたからだ。
体は未だ自由にならない。
タリスが腹に力を込めてアレスの耳元で叫んだ。

「止めろ!」
動きが止まったアレスに更に畳み込む。

「まだ動けないだろうが! 闇雲に道を外れてどうする」
樹海とまではいかないが、遭難しても誰も助けは来ない。
こんな寂れた森で白骨化するつもりはない。

「しかしどうすればいい! ラナーンは!」
相当混乱している。
表情は堅いままで顔に血は上っていないように見えるが、明晰な頭脳は完全に回路を切断されている。

強く、冴えていた。
アレスの弱点があるとすればひとつ。
ラナーンこそがそれだった。
その存在が。

情けないだの、女々しいだのと笑うことはできない。
彼のラナーンへ対する思いが深く真摯だということは、幼い頃から痛いほど知っている。
失うことを最も怖れている。
今がまさにその時だ。
それでもまだ、目の前で突然消えた。
奪い去られた衝撃で、現実を認識できていない。
ラナーンに起こり得る危険のすべてに思い当たってはいない。
それが現状況では、タリスにとって幸いだった。

「地図を思い出せ。アレス。ラナーンを連れ去った奴らが消えた方角を」
「村が」
重なる。
逃げていった影の延長線には確かに消えたはずの村があったはずだ。
アレスが皺の寄った黄色く劣化した紙を取り出した。
地図をなぞる。
目標物がない山道で、歩いてきた速度と時間を換算し現在位置を割り出す。

「タリス、奴らと言ったな」
アレスが地図から視線を離した。
目には先ほどのように錯乱の色はない。
口を開きながらも頭の中では最善の手段を幾通りも組み上げている。

「私が見たのは二人」
「一人はラナーンを連れ去った奴だ」
「アレスがそっちに気を取られている間に、木の狭間からもう一体の影が見えた」
一瞬だったが、明らかに人の形をしていた。

「少なくとも二人か」
共に、村の方角へ消えた。

「動けるか」
「私よりアレスのほうだろう」
タリスの心配に反して、アレスの体は機敏さを取り戻している。

「アレス」
ため息を飲み込んだような声で低く、タリスがその名を呼んだ。

「今はラナーンを取り戻すことだけを考える」
「わかった」
森に興味を持ったのはタリスだ。
責任を感じずにはいられない。
だが、アレスとて同じことだった。
ラナーンを目の前で連れ去られたのだから。
守るべきものを守れず、その存在意義を失う。
ラナーンが傷つけられてでもしたら。
想像して恐ろしくなったのはタリスだった。
アレスは発狂するどころの話ではないだろう。

レンがタリスを守る誓いを立てたように、アレスもラナーンに対し同じ重さを抱えている。

草を掻き分ける腕にも焦りが見える。
突き進むアレスの後を追うにも息が切れた。
見失いそうになる背中を見つめてタリスは思う。
この男にとって、ラナーンの存在とはいったい何だろう。
幼い時からアレスとラナーンとタリスの三人でいた。
長い時を過ごしてきたというのに、いまだ計り知れない。

アレスが静止する。
顔は前に向けたままだ。
指先までが固まっている。
木々に厚く囲まれた村は、隙間から覗く限り酷く閑散としている。
地図から消えただけはある。
音を潜ませて朽ちている家の陰へと回った。
人の気配はない。
山賊が根城にしているのか。

「布は外すな」
押し殺した声で言うアレスに、タリスは黙って頷いた。
言葉よりも目が語る。
酔香花。
確かにその花は存在した。
香りはその名の通り眠りを誘う。
だが、アレスとタリスの動きを封じ、ラナーンの意識を奪った香りは周囲に群れる花のものではない。
より強烈な、睡魔に叩き落される香りがした。

切り捨てられた村は完全に廃墟となっている。
ラナーンを攫った犯人は遠くには行っていない。
ラナーンがいくら痩身だからといって、肩に担いだまま逃げ切れるはずはない。
隠れられる場所といったらこの村だけだ。
アレスは、犯人はここにいると確信していた。
だが、影すら見えない。

慎重に村に忍び込む。
相手が何人かなど全く分からない。
タリスが見た限りでは二人。
しかしここに潜んでいるとなるとそれ以上になるはずだ。

何が目的だ。
それ以前に目の前で黙って連れ去るのを許した自分がアレスは許せない。
胸を引き裂きそうな自己嫌悪と怒りに頭が白くなるのを抑える。
今この場で勢い余って判断を誤ると最悪の事態を招く。

「ラナーンは生きている。奴らの目的は分からないが、あいつは無事なはずだ」
消すのが目的ならば、その場で三人ともが息絶えていたはず。
それを酔香花を使ってまで意識を失わせ、ラナーンを奪った。
理由があるはずだ。

「だがラナーンはそいつらの手の内だ」
タリスとアレス、二人が下手に動くとラナーンを危険に晒すことになる。
状況を伺い、音を立てず忍び寄り、ラナーンを救出することにだけ専念する。
できる最善の方法はそれしかない。
いや、それ以外に方法は何もなかった。






黒い髪が濡れたように深い色をしている。
上質の墨を滑らかな筆に浸したように、細く柔らかい。
どうすればこのような色がでるのだろうか。
驚異と同時に、好奇に満たされる。
指先で触れてみた。
絡む黒糸は想像以上に軽く繊細だった。
形のいい眉毛も黒、睫毛も漆黒だった。
その目蓋の下は。
しかし、瞳は重く閉ざされている。
横たえた寝台は堅かったが、穏やかな表情だった。
髪に指を滑らせたせいで、白い頬が露になった。
顔をそっと寄せてみると細い寝息が聞こえる。



「早く済ませよう」
上のほうから声が降ってきた。
鋭さと軽い緊張を帯びた声で現実を直視した。

頬の下に覗く耳と蒼く妖しい光を秘めた耳飾。
狙っていた獲物が目の前にある。

「見せて」
横たわった体の隣に屈みこむ。
耳に顔を近づけて、耳飾を持ち上げて石を調べた。

「力は?」
「強い」
即答が返ってくる。

「これなら、もしかしたら」



「もしかしたら、何だ」
低い、しかし部屋の隅にまでよく通る声だ。
冷ややかだった。
抑揚はないというより、押し殺されている。
入口に向けた背中に冷たいものが走る。

「返してもらおう」
振り向くのが恐ろしかったが、肩越しに背後を窺った。
戸口には人影が二つ。
背中のすぐ側には立ちはだかった人影がひとつ。
戸口の二つに対峙している。

「石を奪って逃げるんだ。ここまで来て引けないだろ」
入口には届かない、二人だけに聞こえる掠れた小声だった。
動けない。
二つの影はこちらに迫ってくる。
逃げるわけにはいかない。
逃げ道はふさがれている。
覚悟を決めるか。

「それは渡すわけにはいかない」
「貴族のお子様って訳か」
背中を向けたまま、言葉を返す。
丸腰の無防備な背後を守る同志は、黙って立ちふさがっていた。

仕方がない。
最悪の方法ではあるが、今できる選択はこれしか浮かばない。

酔香花の効果に持続性はない。
眠りに叩き落とすことができなければそれまでだ。
なぜもっと強くに香りを放たなかった。
なぜ逃走経路を明らかにするような退去のルートを取ったのか。
すべては甘さが引き寄せた結果だ。
それを今悔いても仕方がない。
さまざまな思いが脳内を交錯する中、陰にした腹の前からゆっくり右の腰に左手を回した。
左手に当たった硬いものを抜き放ってからの動きは驚くほど早かった。
鮮やかな捌きで刃は人質の喉に付き立てられる。

「外にいた見張りは役に立たなかったというわけか」
「こちらの方が上手だったというだけだ」
数人配置していた。
どれもが腕に自信のあるものばかりだ。
それにこの場所。
目立たない場所に潜んでいたというにも拘らず、この短時間で暴かれた。
状況は最悪だ。
何もかもが。

「返すつもりはない、と」
「あまり好みの手法ではないが」
「こちらも、あまりこの手は好まないのだがな!」
空気を裂くように放たれた言葉は、男より二段ほど高い。
彼の隣から飛び出した。
影から一直線に放たれたものが小刀だと気付いたときには、頬を掠めた小刀は石壁に突き刺さっていた。
呻き声が背後から聞こえる。

「ディール!」
タリス・エメラルダ・リスティール・ファラトン。
一王女が男の喉を片手で締め上げている。

「離れてもらおう」
いつの間にか抜き放った剣先を、アレスがラナーンに小剣を突き立てていた誘拐犯の頬に背後から押し当てた。











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送