Silent History 50





アレスが乾いた紙を慎重に机へと広げていった。
細長く巻かれていて、内側に丸まろうとする四つの角と裾に重石を乗せた。
机は黄みを帯びた美しい一枚の絵で埋まる。

絵画ではない。
だが、芸術性は評価できる。



人のほとんどいない午前の図書館の更に奥に、アレスはラナーンを引き込んだ。
ラナーンは昨日タリスとの小旅行からファラトネスに戻ったばかりだ。
日が完全に昇りきったころ、ラナーンはようやく寝台の上で体を起こした。
すでに終わった朝食の間で、アレスと二人で遅い朝食を取る。
給仕にタリスの様子を聞いてみると、すでに朝食を済ませ執務に入っているという。
頑強にできた姫君だ。






机の空いたスペースには、腕が痺れそうになるくらい分厚い本が四冊重ねられている。
ラナーンは目の前に大きく広げられた世界地図に指を這わせた。
刷られたものだろうが、半島の棘も河口の割れ目も細かく描かれている。


「忘れてたわけじゃないんだ。ただ、あまりにここは居心地が良すぎて」
「焦らせるつもりはない。だが、これからもずっとここに留まっていられないのも事実だ」
そのつもりもないんだろう、とアレスの切れ長の目がラナーンを見つめた。
アレスはいつもラナーンの歩調に合わせてくれる。
デュラーンを離れたばかりのラナーンは、親鳥から離れて間もない雛も同じだ。
上手く飛ぶこともできない。
どうやれば上手く羽を動かせるのかも、はっきりとは分かっていない。

アレスは側にいて見守ることしかできない。

「とにかく今は、情報がほしい」
ラナーンの指先はファラトネスの中央で止まる。
人差し指を支点に、親指を母国の上に乗せた。
気持ちの良い去り方をしてこなかった思いが尾を引いている。
仕方の無いことだ。
刺さった棘は、デュラーンと和解するか捨て去るまでラナーンを苛み続けるだろう。
デュラーンを逃げ出してきたラナーンに和解はあり得ない。
かといって、生まれ育った故郷を捨てきることができるほど、ラナーンは強くない。

逃れようの無い狭間で、思いを引きずりながら前を向いて歩くしかない。
それが、現実だ。


「獣(ビースト)」
それが沈殿した思いから脱する突破口だった。
前に進むには目標物が必要だ。


獣(ビースト)を知るには獣(ビースト)の足跡を辿るしかない。
目撃報告がされる国。
増加、凶暴化が見られる地域を探る。

最終的には大陸を目指す。

「グラストリアーナ大陸、そしてディグダ」
ラナーンの言葉にアレスは頷く。
北に大きく広がるグラストリアーナ大陸。
ディグダ帝国が大半の土地を占める。
そのディグダに唯一対抗し得る国が、ルクシェリース。
ディグダの西を治める、神の国と呼ばれる大国だった。

機械の帝国ディグダ。
その中枢、帝都ディグダクトル。

神の国ルクシェリース。
その核、聖都シエラ・マ・ドレスタ。

ディグダの強みが圧倒的な軍事力だとすれば、ルクシェリースはそれに対抗するだけの力を備えている。
ディグダとは違う、力。

神の力だ。


「ディグダも軍事力の一端を獣(ビースト)討伐に裂くようにまでなったという」
「変わっていっているのは、デュラーンやファラトネスだけじゃないってことなのか」
ラナーンの眉が苦しげに寄る。
離れたラナーンの指に代わって、アレスが五つの指先でファラトネスの上を覆った。
隠されたファラトネスの近隣諸国が際立って見える。


「シャイル」
まるで呪文のように、一国ずつ低く通る声で読み上げていく。

「クレイテ」
どれも小さな国だ。
ファラトネスとも友好関係にある国々。

「ネフィル」
それらは、小さいながらも獣(ビースト)の変化が報告されている国でもある。





「オーグ」
声と共に、堅く小さなものがほぼ直線で飛んできた。
地図の一点を叩くと、高く跳ね上がった。
ラナーンは手を伸ばし、空中で見事に捕らえた。
握りこんだ両手をそっと開いてみる。

「飴?」
紙に包まれた丸い飴が手のひらに乗っていた。
両手をそのままに、首だけを投げ込まれた方向に向けた。
円形の部屋の内周を、円を描いて下っている木の階段をゆっくりとした足取りで下っている。
犯人はその人しかいない。

「タリス」
手を沿わせている手摺に寄り掛かり、地図を狙っていたのだろう。
その様子は容易に想像できる。

「オーグは都市の名前だが?」
国ではない。

「アレスに言われなくとも分かってる。わが愛しい姉君の国でもあるのだからな」
ファラトネス王、ラウティファータ。
末娘タリスを含む五人の娘の母でもある。

その次女エストラが嫁いだのが、リヒテル王国。
オーグはリヒテルの中の一都市だった。


「そのオーグがどうしたっていうんだ」
アレスが机の端に腰を持たせかけ、腕を組む。

「ファラトネスの大森林やデュラーンのクレアノール山脈のように、リヒテルでは目立った事件は起きてはいない」
これまでは、に限った話だ。
ファラトネス、デュラーンで獣(ビースト)の変異種が出没した。
いつリヒテルにも現れるとも知れない。
警戒はしているはずだ。
しかし、タリスがリヒテルの名を上げたのは他に理由があった。


「獣(ビースト)に詳しい人間がいる」
アレスの隣に並び、繊細で美しい地図を見下ろした。

「ちょっと変わった人間でね。一言でいうと偏屈なんだ」
「タリスの友人は変わった人間が多すぎる」
獣(ビースト)アレルギーだというアリューシア・ルーファ。
昨日対面した、ノイテとカナも変わっている。

「安心しろ。ラナーンも十分に面白い」
それは褒め言葉のうちに入るのだろうか、判断しかねているところにアレスの声が割って入った。

「話の行き着く先が読めないんだがな」
机から斜めに立てかけるように伸ばされた脚は長い。
交差された脚の爪先が、話のテンポを取ろうとしているのか、床を軽く叩く。

「オーグに向う姫様の護衛をするのか、それとも俺たちの進むべき道を示したのか」
タリスが行くのか、ラナーンとアレスに行かせたいのかという二択に、タリスはラナーンへと目を走らせた。

「言ってないのか?」
「何を?」
「何を、じゃないだろう。私がお前たちの旅路に同行してやるという話だ」
よもや忘れたわけではないだろう、とタリスが呆れ口調で肩を落とした。

「あ」
「変なところで抜けてるんだな」
「どういうことだ、お前ら」
ラナーンの保護者が、目を鈍く光らせている。

「怒るな、アレス。私は悪くない。矛先は説明し忘れていたラナーンに向けておけ」
「説明しろ。端的に速やかに」
「今動かなければいつ動く。私に何ができて何ができないのか。すべきことは何なのか。考えた結果だ」
「固まっている道筋を辿る旅ではない。安全でもない。いつ帰れるとも分からない。
何より、お前と俺たちとでは違いすぎる」
「ラナーンがデュラーンを捨て、アレスも同じくデュラーンを去ったからか」
「お前にはファラトネスと家族がいる。レンだっている」
置き去りにしていけるはずがない。

「焦ってるのは、ラナーンやアレスだけじゃない」
動じず、物怖じせず、先を見通す力がタリスにはある。
だがタリスといえど一人の少女だ。
不安がないはずがない。

「周りが動き始めている。私だけ留まっているわけにはいかなくなっただけだ」
大森林から流れ出た新種の獣(ビースト)たち。
それがタリスの心に深く爪を立てた。

「レンは心配しないでいい。話は終わっている」
「いつ?」
それにタリスは答えることはなく、どこか悲しげな顔に微笑を浮かべた。

ラモア、大森林から戻った直後だった。
日が昇り間もなく、朝の宴の間で一人舞っていた。
目の前で呆気なく無残に散っていった自国の兵士たち。
何もできなかった自分の無力さを噛み締めながら、タリスは踊った。
痛々しいタリスを引き止めたのが、レンだった。
そのときタリスはレンの耳に唇を寄せて囁いた。

「私は仕事に戻ろう。時間がないんだろう?」
「仕事、忙しそうだな。何をしてるんだ?」
地図とラナーンに背を向け、下りてきたゆるやかな螺旋階段へ歩いていく。

「超高速艇だ。ラフィエルタ級の」
「まだ、造るのか」
「今度は二隻。完成すれば、ファラトネスの強力な矛となるだろう」
軌道に乗せるまでがタリスの仕事だ。
後はレンと姉が引き継いでくれる。
タリスは階段を上っていき、やがて足音は消えた。






「あいつが一緒に来るだと?」
声は荒立てなかったが、浮かび上がる感情は複雑だった。

「賑やかになる」
口にした言葉とは裏腹に、ラナーンの口調は霞んでいる。
ラナーンとアレスがファラトネスに来て、タリスを巻き込む形になった。
アレスに言えば、大森林での一件とタリスの決意が結びついても、ラナーンがファラトネスに来たこととはまた別だと言うだろう。
ラナーンとアレスに同行するのがタリスの意思だったとしても、やはりラナーンはタリスへの罪悪感は拭えない。

「行動が飛躍してるのはもういい加減慣れた。悲しいことだがな」
「他に言いたいことは?」
「ない。あいつが決めたことだ。悩んだ末のことなんだろう」
もう十分なほどに、タリスは傷つき、無力さを痛感し、新たな一歩を踏み出そうと決意した。
先を思うと、頭が痛くなりそうだ。
だが、アレスはその決意を踏みにじるような真似はしない。

「ありがとう」
「なんでお前が礼を言うんだ」
「何となく」











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送