Silent History 51





月が冴えるほどに、空気は締まり音は音は澄み、鋭さを増す。
草木から落ちる影も、建物に沿う陰も、深く濃く漆黒だった。

細やかな装飾と無用なものを切り捨てられた外観は、陰影の絵の具で芸術的に描かれている。

目に入る景色が一つの作品のように完成品だった。
自然とはかくも美しく、人のわざから生み出されたものはかくも胸を掻く感動を生み出す。






すべてが寝静まった真夜中。
月と影を愛で、ラナーンはテラスの手摺に身を預けていた。
上着を肩から掛け、草の流れる音を聞きながらまどろむ時間が好きだった。
風の音は、デュラーンの風に似ている。
デュラーンが嫌いで捨てたわけではない。
やはりまだ、自分の故郷を愛していた。
繋がりを自ら断ち切った痛みは胸に刻まれていたが、誰も何も恨んではいない。

ただ寂しく、胸が苦しく、懐かしかった。
何年も離れているはずは無いのに悲しいのはきっと、ここまで長く国を離れたことがなかったからだ。

強くならなければならない。
変わらなければならない。
弱いラナーンではいられない。
守られるラナーンではいけない。
負担になるようなことはしない。

そう決意していた最中、タリスに言われた言葉が後になって心に響く。

「何も見えていない」

確かにそうだ。
返す言葉がなかった。

「どうありたいか、お前にはそれが欠落している」

なぜ、変わりたいと思ったのか。
なりたいものは何だったのか。
何のために。

目標。
それがなく、ただ漠然と曖昧に変わりたいのだと言葉にしていた。
中身のない空っぽで薄い決意を、タリスは見抜いていた。

指先が手摺に掘られた白い彫刻をなぞる。


「タリスもアレスも、それからレンも。おれが見えていない『何か』が見えていて。だから強くなれるのかな」

もし、見つからなかったら。

「そうしたらきっと、おれはずっと空っぽのままなのかもしれない」



どうすればよかったのかという過去。
これからどうしていけばいいのかという未来。
今、どうすればいいのかという今。

わからなくて、苦しさをため息で吐き出した。
手摺に乗せた両腕に、顔を埋める。



草と木と朝目覚める花だけが揺れている。
その中で、一つの影がラナーンから少し離れたテラスに滑り出てきた。
視界の端に捕らえ、しばらく観察しているともう一つ縦に長い影が後を追うように出てきた。

あまりに遠く、表情を判別することは適わなかったが仕草からそれが誰なのかすぐに分かった。

タリスだ。

比較して頭一つ半ほど高い影は、レンだろうと予測はついた。

タリスが庭を背にレンに向って真っ直ぐに立った。
踊りを誘う仕草で、たおやかな腕をレンの顔へと伸ばす。

レンはタリスの手を優しく受け取り、愛し気にに手の上へと唇を落とした。
卑屈さや媚びた嫌らしさは皆無。
ただ切なくなるほどの忠誠心だけだった。

レンとタリスとの絆とは何なのだろう。
彼らを結び付けているものは何と言い表すのだろう。
ただの主従関係にあらず、ただの恋と片付けるには深すぎる。
清らかで曇りのなく交わされる睦みは、神聖な契約の儀式を思わせた。

交わされる言葉は二人だけのもの。
溶け合う視線もまた二人だけのものだった。
やがて二つに分かれていた影が一つに重なる。


ラナーンは部屋のカーテンの陰に身を滑らせた。
肌が透けるカーテンは、海原のように風を孕んで波打つ。
高く巻き上がる薄絹を左手で手繰り寄せ、胸元に引き寄せた。
今ここにいる現実が、現実に思えなくて。
その現実感の軽さが不安でもある。

どれくらい薄絹を抱え込み、立ち尽くしていただろう。
気が付くと風の音は和らぎ、カーテンは小さくうねっていた。
滑らかに動くレールを走らせ、ラナーンは音に気をつけ窓を閉す。
空気の流れが止まった部屋で、ラナーンは天蓋の垂れる寝台に体を投げ出した。








彼はテーブルの上へ置かれたグラスを眺めていた。

二つの背の低いグラスの間には、高い塔のようなボトルが一本寂しげに佇んでいる。
半分程残っている酒は、傾けられることないまま一時間が経った。
男の前にあるグラスには、まだ薄く飲みかけの酒が溜まっている。

空になったグラスを置いていった話し相手は、愛しの姫君の元へ駆けつけたのだろう。
レン。
彼の想いはどこまで深く、彼女に絡みつき、そしてどこまで届いているのだろう。

主と従者の関係を超えて、二人の絆は引き剥がせば命すら削ぎ落とすほどに結びついている。
だが、矛盾していないか。

「なぜ、姫君の意思を受け入れられる? それがタリスの願いだからか」
アレスは深く身を沈めた椅子の肘掛を、堅く握りこんだ。


悲愴のタリスが舞った朝。
レンは最愛の姫君に別れを告げられたと言った。
レンはタリスに付き従うことを許されなかった。
タリスの決断を、レンは黙って聞いた。


「タリス様をお守りしてくれ。アレスだから頼めるのだ」
レンが代わりに彼女の側にいるアレスに託した言葉は、それだけだった。
なぜ、大切な人を預けられる。
どうして、同行しようと押し切らない。

理由を問いただしたアレスに、レンは答える。

「私にはやらなければならない役目がある」



「俺なら、お前のように離れたりはしない」
ラナーンを守れるのは自分だけだという自負もある。
だがそれ以上に、側にいなければいけないという焦りに似た感情が潜む。
幼い頃からほとんど離れることはなかった。
家族のようなものかもしれない。
レンがタリスに誓ったように、アレスもラナーンへ誓いを立てた。
側にいて守り続けると、出会った幼い日に誓った。

「側にいなければ、守れるものも守れない。そうだろう」
レンが空けた、グラスに低く言葉を投げつける。

レンとタリスの間には、アレスの理解できない絆がある。
互いに互いを必要としていて、何よりも大切に思っているはずなのに、なぜ離れて平気でいられる。

アレスはグラスを握りこむと、目を瞑り熱い琥珀の液体を喉に流し込んだ。








寝台の上に大きな翼のように、豊かな金の髪が広がる。
天井に向って灯りを掴むように突き出された左手は、淡い光に透かされ指の形を濃く映す。

少女のような仕草を見たら、部屋に入ってきた者は息を飲むだろう。
もちろん、彼女の私室に踏み込むような無粋な人間は、この城にはいない。


作られたイメージと、あるべき姿。
公と私。
本当の自分はどんな姿なのか、見失ってしまった。



「あなたが隣にいらしたときは、もっと私は私でいられたはずですのに」
愛しさ、寂しさ、悲しさ。
失ったその日から、胸を切りつけ苦しめた痛みは、時間と共に和らいだはずなのに。
未だ涸れ果てることなく滲み出てくる思いに、息を詰めた。


持ち上げていた左手を、胸へ引き寄せた。
丸めた体を優しく撫でてくれる温かい手は、遠くに行ってしまった。
温もりの記憶を残酷にも刻みつけたまま。


まだ幼いままファラトネス王に嫁いだラウティファータ。
遠い血の筋を辿り、不安のまま城に上ったラウティファータを迎えたのは、優しく若い王だった。
兄のように慕う心はすぐに、恋へと転じた。
子どもを宿したときには、体が震えるほど嬉しかった。

若い王妃が母になる。
ファラトネス王はラウティファータの身を案じたが、ラウティファータは喜びをそのまま夫に伝えた。

幸せだった。
恋人としての時間は過ぎ去り、夫婦として、親としての時間は急ぎ足で流れていった。


「タリス。あの子はあなたにとってもよく似ています」
美しいラウティファータ。
愛らしいラウティファータ。
ファラトネス王は妃を賛美した。
その容姿を濃く映したのは、末の娘タリスだった。
母譲りの金糸の髪。
瞳の色は空の蒼。
だが、内に秘める強さと意志は父のものだった。

「あの子はもう、大切なものが何か見えているのね。あの子の行く先が、私たちを守る道に繋がると信じている」
自らが病に侵されていても、最期まで最愛の妻と子を守ることだけを考えていた。
そして彼らがいる、この国を守り愛することを考えていた。

「あなたにそっくりなの。許すしかないでしょう? 寂しいけれど、私には止められないわ」

強いファラトネスの王、ラウティファータ。
強い国、ファラトネスを治めるラウティファータ王。
その反面、彼女は彼女だった。

「守ってください。タリスを。あなたと私の大切な娘を」
寝台に身を横たえながらラウティファータは祈った。










それぞれの思いを抱えながら。

それぞれの愛する人を想いながら。

夜が過ぎて、また。

朝が来る。








光の降る下で、彼女は脚を開き世界を見据えた。
そこは彼女の世界で一番高い場所。
気持ちがいいほど真っ直ぐに伸びた背筋こそ、彼女の姿だった。


その足元に、獣(ビースト)が滑らかな毛を流れる風に梳かせながら、身を絡めた。

「イーヴァー」

彼女の蒼い瞳も、身を寄せる獣(ビースト)の碧玉の瞳も、彼らの
世界を見つめ、更にその先に広がる世界を見据えていた。


「私は行く。だが必ず戻って来る。彼らと共に」

城の最高階層にある展望室。
開け放たれたガラス窓の後ろから、人の気配がした。
天を貫くかと思うほど長い階段を上り、現れたのはレンだった。

「タリス様、時間です」

腰を捻り、ゆっくり顔をレンに向けた。
微笑んでいる。

「お前はいつだって、私を見つける」
「見つけてみせます。どんなに距離を置いたとしても」
「レン」

髪をなびかせ、服の裾が風で持ち上げられながら、タリスは振り返った。
石組みの床を蹴り、軽やかにレンへと飛び寄った。
伸ばした白い腕を彼の首へと絡める。

「ラフィエルタとその姉妹艦、託したぞ」
言い終わらぬうちに爪先立ちで、レンの顔に自分の顔を寄せた。






超高速艇のラフィエルタは、今は船渠で眠っている。
用意された船は、砲を搭載した攻守ともに強固な船だった。
リヒテル王国までタリスとラナーン、アレスを無事に送り届けるための船だ。

甲板の縁から、タリスが手を振っている。
船の下には護衛官たちに取り囲まれたラウティファータ王とその娘や従者が船を見上げている。

残す言葉は城に置いてきた。
船が岸壁を離れていく。
ファラトネスと距離が開いていく。

ラナーンは見えない糸を辿るように、離れ行く岸辺へと手を伸ばした。
最後に言うべき言葉は、さようならではない。
また、戻ってくるのだから。

いつかは分からないが、その日はやってくる。











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