Silent History 43





連日、雨が続いていた。
昨日は、庭を歩こうにもまだ草は湿っていて、散歩に出れば裾が水気で重くなる程だった。
一夜のうちに乾いた芝生を確かめるように、広い庭への始めの一歩を踏み出した。



故郷であるデュラーンを逃げ出すように出てきて、長くなる。
今思い出しても、ずいぶんと無茶なことをしてきたと思う。
しかし後悔をしようにも、その時には他に選ぶ道はなかった。

目の前の現実から逃げ出す。
それ以外には。

「情けないよな」
ラナーン・グロスティア・ネルス・デュラーンは呟いた。
ラナーンの暗鬱な気分を吹き払うように、爽やかな風が抜ける。

外に出て、身に染みるほど分かった。
自分がどれ程無知か。
同時に無知で許されるほど、周りに守られて生きてきたことを。
一人でなど、生きていける程強くはなかった。

「そして結局、今だって」
強くなりたいと思う。
強くならなければ、守りたいものも守れない。
自分も、他人も。

握り締めた拳を、目の前で開いた。
手のひらに爪の形が残る。

微風に誘われるように顎を上げた。
宥めるように、滑らかな頬へ風が流れる。

耳へ、髪へ、優しい手のようにラナーンを包み込んだ。
ゆっくりと足を前に出した。
軽い草の音が、足元から小さく聞こえる。

「おれに流れるデュラーンの血は、おれの中の魔の力を目覚めさせてはくれなかったのかな」
開いて目の前に突き出した手の上を、留まることのない風が抜ける。

生まれ持って、魔力は強くなかった。
敵一体を焼ききる炎の力は持たない。
水の流れを手に集め、放って切り裂き、刻む力もない。
風は、手の内で操ることはできない。

エレーネの治癒術は見事なものだ。
師から皆伝の称号を受ける程に優れている。
彼女本来の才能と評価する以上の努力を、彼女は重ねてきた。

エレーネの叔母に当たる、亡きデュラーン王妃を救えなかった心残りが、彼女の努力を支えていたのだろう。
例え、どんな高度な治癒術を施しても、消え行く灯火を止めることができなかったと分かっていても。



小高い丘の上に、細い木が数本立っていた。
葉を透過して薄められた日の光は柔らかい。

今の状況、そしてこれからのこと、考えなければいけないのに。
木の根元に座り込み、頬を幹に当てた。


漣のような葉と葉が重なり合う音は、眠りを誘う。
何かに引きずられるように、溶ける意識に任せてラナーンは眠りの淵に落ちていく。






茂みを踏み分ける音がする。
ラナーンのすぐ側の低木が揺れている。
しかし、ラナーンの瞳は深く閉ざされたままだ。
なだらかな呼吸は、草木の音にかき乱されることはない。

草の間から、銀色が覗いた。
動くたびに、柔らかく揺れている。

長い鼻、鋭い目、引き締まった四本の足。
容貌は明らかに、獣(ビースト)だ。
ただ、近寄るも憚る気迫は、今は鞘に収めている。

聡明な瞳が木の根元に崩れ落ち、横になって眠っているラナーンを捕らえた。
地面を這うように忍び寄り、鼻を顔へと近寄せる。
ラナーンの反応はない。
白い横顔に、塗れたような黒髪が掛かる。


温かな体温に身を寄せて、イーヴァーがその場に横たわった。
体を伏せ、前足に顔を乗せた。
翡翠の双眸が目蓋に覆われていった。








太陽は天頂に掛かっている。
しかし、彼の主は未だ戻っては来ない。
腹が減る頃には部屋に帰って来るだろうと、彼は本を広げて待っていたが、一向に姿を現さない。

昼頃になると、必ず彼に声を掛け、食事に向っていた。
まさか慣れ親しんだ城内で迷うこともないだろうと思ってはいたが、本に集中していないことに気付く。
何だかんだ言っても、やはり気になるのだろう。

つくづく、自他共に認める過保護な従者だと、内心ため息をついて本を閉じた。
城が抱えている巨大図書館から発掘した本を机に置き去りにして、彼は主の捜索に腰を上げた。



重厚な木の扉が背後で閉まり、気が遠くなりそうな長い回廊を歩いた。
十年以上仕えてきた主の行動パターンは、記憶を探らずとも体が勝手に動く。

晴天の午前。
穏やかな陽気。
爽やかな風。
広い庭。
人の視線が貫き通せない、茂った林。
危険な物がない守られた、箱庭のような空間。

主の好む環境は揃っている。
条件は解答へと導く。

城内に主はいないと判断し、彼は外へ出た。
その背中を追う者が、一人。
気配を押し殺し、彼の背後に忍び寄る。
壁を影にし、角を曲がるたびに見失わないようにつけた。
右手を水平に保ち、彼の首筋に照準を絞る。

ひと一人分ほど間を詰めた瞬間、彼は勢いよく振り返る。
体を捻り繰り出された左手は、背後に詰め寄る人間へと突き出された。
真っ直ぐに伸ばされた指先には、追跡者の見開かれた目が恐慌に微動していた。
静止した彼の爪は、追跡者の眼球を捕らえている。
迂闊には動けず、固まったままだった。
内心の動揺を抑えることだけが、今できるすべてだ。

腕は下ろすこともできず、胸の前で固定されている。
手に武器は握られていない。
だが、彼の首筋を狙っていた爪はそれだけで十分な凶器となり得る。

呼吸を整え、奥歯を噛み締める。


「どういうつもりだ、タリス」
相手が帯刀していなくて本当によかったと、タリスは思った。
容赦なく突きつけられた指先から、相手の鋭い目へ視線を移動させた。

「試してみたくなってね」
静かに威嚇する目を、タリスは見据え返した。
右手で、目の前に突き出されている手を握り、肩口へと外した。

「アレスの実力というのを」
「何のために」
「まだ、終わっていない」
不敵な笑みを浮かべつつ、緊張の取れたタリスはアレスの横を通り過ぎた。

「こっちだ」
何をさせたいのか分からないまま、アレスはラナーンの捜索を断念し、彼女について行かざるを得なくなった。



しばらく歩くと、どこからか陶器を爪で弾いたような、高い音が響いてきた。
同時に、太い声も聞こえてくる。
アレスにとっては、懐かしい音だった。
状況は目にするまでもなく、思い描ける。

間もなく屋外の訓練場が近づいてきた。
芝生が削られるようにして作られたその空間には、数十の兵が剣を片手に打ち合っている。

タリスの姿を認めて、動きを止めた兵が敬礼の姿勢で固まる。
それを彼女は片手を挙げて解し、目の前にいた上級兵に視線を投げた。

「剣を」
差し出された剣を受け取り、それをアレスに押し付ける。
更に一本要求し、抜き身の剣はタリス自身の右手に収まった。

「中央へ」
タリスの一言で、訓練場に散っていた兵たちが一斉に場外へと退避した。
彼女に促され、アレスは渋々場内に踏み出した。
いつもならば、剣を手渡してその場で手合わせを命じられることが多いが、今回は例外だ。
訓練場とはいえ、試合用に整地されている。
わざわざそこを選んだタリスの心中も、いつもと違うのだろう。
だが、彼女の考えが読み取れないのは常のこと。
アレスは大人しく彼女の命ずるままに、彼女と向かい合い、剣先を重ね合わせた。

「本気で行く。アレスも手を抜くな」
声には重みがあった。
タリスの真剣な目を払いのけるほど、アレスとタリスとの友情は希薄ではない。
意図は分からなくとも、意思は伝わった。

彼らは互いに間合いを取り、次に動く瞬間へ息を詰めた。






イーヴァーが目蓋を上げた。
音もなく、人影もない。
何かしらの空気の動きを感じ取ったように、前足の上にあった顔を起こして、辺りを伺った。
耳は情報を探り、真っ直ぐに立っている。


イーヴァーの銀毛がラナーンの頬を撫で、彼が薄く目を開いた。
目の前にある柔らかな毛に顔を埋めたかったが、そこでラナーンはそれがイーヴァーだと気付いた。

「イーヴァー? どうしてこんなところに」
ラナーンの呼びかけにも答えない。

ラナーンはイーヴァーの毛を撫でながら、イーヴァーの見ている先を見た。
ただ木々が重なって、視界を塞いでいる光景しか目に入らない。
イーヴァーは何かを感じ取っている。
その感覚を信じ、ラナーンはイーヴァーが見据える方向へ林を歩き出した。
イーヴァーもラナーンの隣を歩く。
金属音が細く通る。
近い。

知らぬうちに、ラナーンの足も速度を上げていく。
早足で林を抜けると、芝生が広がっていた。
草原の奥には、芝生を削っただけの簡素な訓練場が、四角く切り取られている。
その中に、人影が二つ。
離れてはぶつかり合い、剣戟が繰り出されている。

ラナーンは駆け出した。
その隣をイーヴァーが走る。
息が切れる。
こんなに真剣に走ったのは久しぶりだった。

「ああ」
タリスとアレスだ。
いつもならば、庭の開けた場所で剣を交わらせているくらいのものだが、今日は気迫が違う。
訓練を中断し、周りを囲んでいる兵士たちも場内中央の剣技を、沈黙で見守っていた。

「タリス」
目は、真剣そのものだ。
近寄っただけで、体が痺れて動けない。
アレスの横顔を見た。
ラナーンには見せない、威圧感で場が占められている。

「一体、これは」
駆けつけたラナーンも見守る兵士と同様、ただ固唾を飲んで勝負の行方を見届けるしかなかった。











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