Silent History 40





乳白色の壁面の廊下に、薄絹の遮光カーテンを抜けて柔らかい光が漏れ入る。
爽やかな空気を招き入れるため、窓は開放されていた。
カーテンは舞姫の裾のように、微風で緩やかに波打っている。

廊下に人気はなかったが近くには小さな話し声が聞こえ、気配はする。
囁くような楽しげな笑い声。
それも耳に障るほど不快ではない。

城に仕える者たちが動き始めている音だ。
彼らの朝は太陽の起床よりも早い。

回廊へ等間隔に置かれた花瓶には、新しい花が愛らしく挿されていた。
目覚めの光を浴びた花を手折り活けるのは、年の若い侍女の仕事とされていた。
丸みを帯びた幼い指先で、丁寧に根元から摘み取られては底の浅い花籠に寝かされていく。

冷えて湿気を含む空気が、城内にゆっくりと満ちていく。
独特の、朝の匂いが澄みきった空気に混じる。
肌が引き締まるような空気の冷たさに、服の襟元をかき寄せながら、みな窓の外を忙しなく行き交う。

それぞれの朝、それぞれの仕事が始まる。
庭、大回廊、政の間、奥の宮、中央大階段。
あらゆるところを、使用人、侍女、掃除人たちが駆け回る。

一番賑やかなのは、調理場だった。
王族、使用人全員の食事を作り始める。
この場所ばかりは、耳に心地いい笑い声は時間に追われる怒号に代わる。

ファラトネスを統べる街、その中にある城。
ファラトネス城の、いつもと変わらない風景だった。








祭りを思い出させる賑わいから少し遠のくと、人の影は極端に疎らになる。
かすかな衣擦れの音すら、廊下に小さく響くほどだ。


忍び歩くように、素足が音を立てず廊下を渡っていった。
覚つかない足取りで、ファラトネスホワイトをした内装の筒を抜けていく。
細い肩に巻きつけられ、体を覆う布もまた、同じ白だった。
隠し切れない首筋や顔は、石膏で造られた彫刻のように滑らかで美しかった。
静脈が浮き出しそうに透き通った肌は、朝の光の中で白さを際立てている。

現のものとは思えないその姿を見れば、幽霊かと目蓋を擦ってしまうほどだ。
しかし肩に掛かる目映いほどに金色の髪が、そこに存在するのだと鮮やかに目へ焼き付ける。

長い睫毛に縁取られ半ば伏せられた目蓋の奥には、翡翠の瞳が静かに揺らいでいる。
訴えず、何かを求めることもせず、宝石のように沈黙したままだ。

誰も呼び止めはしない。
声を掛ける人間は、見回した限りどこにもいないのだから。
日が完全に昇りきったら、ここも賑わいが戻るだろう。
それまでここは、まだ眠ったままだ。


気が遠くなりそうな長く広い回廊を歩き、一つの大扉の前で足が止まった。
夢の中で見る扉のように、重く大きな扉は回廊と同じ、白い塗装がされてあった。

細い指を木の手に絡ませ、ゆっくりと腕に力を込める。
まるで機械仕掛けの玩具のように、肩、腕、手首、指先と、力が扉へと伝わっていく。
扉が三分の一ほど口を開くと、痩身を部屋の中に滑り込ませた。



広大な広間は、装飾が細部まで美しく、繊細に造られていた。

高価な照明器具が天井から下がっているわけではない。
骨董で名のある花瓶が、壁際に飾られているわけでもない。

しかしこの場所は、貴賓のためにあるといってもいい、城内でも誇れる部屋の一つ、宴の間だ。
宴の間それ自体が、すでに芸術品なのだという建築家の意志が滲み出る広間だった。
広間の奥にあるテラスからは、朝の光が流れてくる。

首が痛くなるほどに高い天井まで届く硝子窓は、すべて鍵を掛け閉ざされている。
部屋の中は、風の流れが止まっていた。

誰もいない。
何もない。
音も消えて、静止した空間。

まるで、時間さえも動きを止めてしまったかに思えた。



迷うことなく真っ直ぐに広間を横切り、探るように手を目の前に差し出した。
そこにあるものすべての流れを止めている窓へと、指を這わせる。

左の窓と右の窓を結ぶ鍵は、簡単に解けた。
天井に届きそうなほど背の高い窓を押し広げて、テラスに踏み入れた。
開いたままでいた入り口の大扉から、微風が流れ込んでは、窓の外へ消えていく。

大きく開いた窓に身を預けながら、テラスの下を行き来する人の流れを眺めた。
外は日の光を受け、目映く鮮やかに生きているのに、力なく窓へ寄りかかる姿は死んでいるようだ。
装飾品は一切なく、髪も上げられていない。
体は薄絹で作られたごく簡素な服に覆われ、化粧もしていない。
外と内。
まるで対照的だった。

目を細め、城壁の向こうに広がる街に視線を投げた。
朝の日に焼ける城下街が、眩しい。
広間を抜けて、窓から出て行く風に髪が流された。
風の流れを追って、テラスを背にして広間へと体を向ける。


止まっていた時間が動き始める。
止めていた感覚が蘇る。
感情が、心が、目を覚ましだす。



ファラトネスの宴の間。
高い天井の下。
顔が映るほど滑らかに磨かれた床の上。


風に髪を躍らせながら、タリス・エメラルダ・リスティール・ファラトンは、空気を掬い取るように長い腕を伸ばした。
肩から零れた薄絹が、床に小さく衣擦れの音を立て落ちた。





神の声が聞こえるのか。
もしくは、彼女の体内から沸きあがってくる音。
タリスにだけ聞こえる、天からの音楽が彼女の体を包み込んでいく。

窓際から、形の良い脚を広間へと伸ばした。




タリスが舞う。




静寂の朝、透き通った空気の中で溶け込むようにタリスの指先が風を撫でる。
繊細で、自由に動く手足は肉体の重みを忘れている。

祝いの舞姫たちの踊りとは違い、躍動感を一切取り払われていた。
言うなれば、清めの舞。
まどろむ朝に相応しい。

痛いほどに哀しげで儚く、美しい。





開いた扉を不思議に思い、侍女の一人が宴の広間へ顔を半分覗かせた。
いるはずのない人影に声を上げそうになるが、息を飲み込んだ。

それは、本当に人なのだろうか。
疑問が彼女の次の動きを止め、人影のあまりの美しさに言葉を奪われ硬直した。

広間で流れるように舞う彼女が、仕えている姫君であると気付き、人を呼ぶ。
扉の前に重なるようにして覗く従者らは、一桁、二桁と増えた。


無音の空間へ、糸のように歌が放たれる。
まるで形の朧げな天女を、地上へ手繰り寄せる細く張りのある声だ。

侍女が声の主へ顔を向けた。
ラウティファータ王の三女、アルスメラだ。

アルスメラが進み出るより早く、掃除用具や腕に提げた籠を持った侍女たちが道を空ける。
大きく開かれた深紅の唇からは、えも言われぬ美声が流れ出す。


人集りを耳にして、四女のシエラティータが駆けつけた。
上がる息を押し殺しながら、静謐なる宴の間に首を伸ばす。

目の前には姉のアルスメラがいた。
奥には、妹のタリスが。

歌姫を抱えても、舞姫を侍らせても、タリス自らが舞うことはほとんどなかった。
その妹が、言葉をかけられないほどに、見ていて胸が痛むような舞を踊っている。

「姉さま方と母さまを」
ともに駆けつけた侍女に耳打ちで命じた。

新たな姫君を招き入れるべく、再び人の壁が自ずと開かれる。
近くに寄れば、自然と口から歌が飛び出してきた。
アルスメラの声にシエラティータが重ねる。
姉妹二重奏の波の上を末女タリスが踊る。

侍女の一人が、弦楽器を持ち出してきた。
雑音を立てないよう静かに壁際の床に脚を組み座り込むと、違和感なく二重奏に溶け込んだ。

葉が木から舞い落ちるように、空気に逆らわず、風に流れてタリスが回る。


今一人、侍女が楽器を抱え扉を挟んで反対側の壁を背にして、腰を下ろした。
同時に、ラウティファータ始め、娘たちが広間の壁沿いに並んだ。
目覚めたばかりのファラトネスの王、ラウティファータは唇に指を押し当てたまま固まってしまった。



タリスから寵愛を受けた、かの舞姫ラフィエルタとは種類が違う。
彼女はまるで舞踏神が乗り移ったかのように、喜びや幸福が体の芯から湧き上がる、そんな踊りをしていた。
瑞々しく、烈しく、熱く、鮮烈だった。

だが、タリスは。
今目の前で舞う姿は研ぎ澄まされ、何と哀しくも優美なことか。




その心さえも、空気に溶け、風に弄られ、音に流れて舞う。
広げられた腕や、伸ばされた脚は、神に愛され技のすべてで造られた人形のよう。
完全に踊りに意識は溶けている。
神に魂を奪われている。

ラナーンとアレスと共に、レンが現れた。
タリスの姿を見て、レンは唇を噛み締める。

すぐ側にいた侍女の手から、花籠が滑り落ちた。
取り落としたことにすらすぐに気付かないようで、目はタリスに釘付けになっている。
花籠は音もなく転がると、中に入っていた花が床に散った。

回廊の窓から流れた風は、花籠の花を拾い、広間へと抜けていく。



小さな花と散った無数の花びらが風に押し流されて、舞うタリスの地面へと転がっていく。
太陽の白い光を受け、風で床を舞い散る淡い色の花びら。
その中で舞う、白い服をまとったタリス。
緑の瞳は未だ夢の中を漂っている。

その場所だけ、切り取られた幻想の世界だった。



タリスの腕が重力を思い出し、下に落ちる。
空気を求めて喘ぐこともせず、顔を僅かに上向けたまま静止している。



音楽も止んだ。



真っ白な世界。
瞬きをしたら、消えてしまいそうな幻のような世界に、タリスは立っていた。

焦点の定まらない目を人集りの入り口へと滑らせる。
頼りなげな足つきで扉に向うより早く、レンが大股でタリスに近づき、体ごと包み込んだ。
誰かが抱きとめてやらなければ、消えてしまいそうだった。



「もう、いいでしょう」
細い背中を抱き締め、回した腕に力を込めた。

「あなたの痛みは、十分伝わりました」
白い首筋に声を搾り囁いた。
これ以上、あなたが壊れる姿を見ていられないと懇願した。



「ずっと、考えたんだ」
レンの整った顔の輪郭を指でなぞりながら、タリスは腕をすこしずつレンの首に絡める。
背を伸ばし、踵を持ち上げて、レンの耳へと唇を近づけていく。

「聞いて、レン」
誰にも聞こえない、二人だけの会話。

二人以外の全員は、タリスの静かに動く唇だけを見つめていた。
そして、かすかに見開かれる、レンの瞳。


顔を離してレンの瞳を見つめるタリスの目は慈愛に満ち、消え入りそうな灯火はもう宿ってはいなかった。











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