Silent History 41





緑の海とはこのことだ。
背の短い若草は風に波打ち、光を反射して煌く。

穏やかだった。
風が草間を抜ける音は、波音にも似ていて、ぼんやりと幹に凭れて草原を眺めていれば、小船にでもなったように錯覚する。




ここは、飽きることがない。
敷地内では何度も道を見失い、巡っていない場所の方が遥かに多い。
牧草地かと思うほど、庭というには広大過ぎる丘や小山が城壁に囲まれていた。

隣国から技術士を招いて造ったという彫刻を中心とした装飾の数々は、それだけで美術的価値が高い。
埃を被ることなく、毎朝使用人の手で磨かれ、鈍ることなく細部まで現れている。


夕刻より雨が降り始めるらしい。
言われてみれば、僅かに灰色がかった雲が薄く空を流れている。

アリューシア・ルーファは一人、頭上に掛かる木の葉の向こうにある遠い空を見上げた。
太陽は雲の陰で見え隠れしている。
眩しくて目を細めた。
ファラトネス城に来てからというもの、広い客室に通され貴賓扱いだった。
王族の友人という立場なのだから、当然のことであり、喜ぶべきなのだろうが、アリューシアは半日と耐えられなかった。

一晩は通された客室で泊ったが、妙に居心地が悪かった。
頼み込んで翌朝には部屋を変えてもらった。
客人に気配りができず、一晩不快な思いをさせてしまったと、逆に侍女に謝られてしまった。
彼女には申し訳ないが、やはりベッドと小さな丸テーブルと鏡台だけといったごく簡素で小さな部屋の方が落ち着く。
体調が万全になるまでの二、三日だけ城に留まろうと、最初は思っていた。

異形の存在、人を襲う魔物、獣(ビースト)。
その気配に敏感に反応し拒絶反応を起こす、ある種の特殊体質者にとって、しばらく大森林には近寄りたくなかった。

突如、大森林の中央から湧き上がった霧によって、獣(ビースト)の気配は中和されているようだ、というのが最新の報告だった。
原因である、獣(ビースト)の姿自体も確認されていない。

正体不明の濃霧が、獣(ビースト)を大森林に封じ込めているらしい。



城に上がってくる報告はすべて不確定なものばかりだった。
そもそも、獣(ビースト)が何なのか。
どこから来るのか。
何のためにやってくるのかすら明確ではないのだ。
根本が分かっていないのに、それ以上のことが明らかになるはずもない。

獣(ビースト)の専門家が寄って集って議論し、研究を重ねても結論は出ない。
情報が足りないからだ。

そのような状況は、隣国デュラーンでも同じだった。
アリューシアはデュラーン関連の文献も探ってみたが、結果は同じだった。
明確な答えは見出せない。






「何を読んでいるの?」
後ろからいきなり声がして、アリューシアの肩が跳ね上がった。

「ごめんなさいね。本の時間を邪魔するつもりはなかったのだけど」
彼女は、エストラ。
アリューシアの友人であるタリスの姉である。
五人姉妹の次女だ。

エストラは膨らんだ腹部に左手を乗せて、ゆっくりと木の根元に腰を下ろした。
アリューシアは肩に掛けていた上着を、エストラの膝の上に乗せた。
嫁ぎ先であるリヒテル王国の王子となるべき子が、胎に宿っている。

「もうじき雨が降ります」
「ええ。散歩はもうお終い」
「体、冷えませんか?」
「寒くはないわ」
脚の上に伏せていた本を、アリューシアは表に返した。

「母様の図書館にあった本?」
「そうです」
「読みきれないでしょう。確か、もう少ししたら帰ってしまうと聞いたわ。あまりに急過ぎない?」
森から距離を置くと同時に、タリスの憔悴が気掛かりだった。
様子を見届けてから家に帰ろうと思っていた。
タリスの調子が上向いてきているのが分かった以上、後は側近のレンやデュラーンの友人に任せ、城を後にしてもよかったのだが。

「ゆっくりしていきなさいな」
「お言葉に甘えて、そうさせていただくことになりそうです」
アリューシアは側に積んである二冊の本に目を落とした。

「図書館を一巡りさせてもらって、気が変わったんです」
「タリスの部屋にも行ってみたらいいわ。あの子も大きな本棚を抱えてたはず」
「部屋に戻りましょう。お体に障ります」
「みんな気にし過ぎなのよ」
エストラは不満げに立ち上がった。

「気にもなるでしょう。必死で止める旦那様を振り切って里帰りですから」
草の上に置いていた本を回収し、アリューシアはエストラの腕を取る。

「分かったわ。城にいる間は大人しくしていましょう」
無意識に、エストラは腹部に手を当てた。

「みんなが等しく幸せを得る。それは不可能かもしれないけど、ファラトネスは平和であって欲しい」
どこであっても願いは同じ。

「ファラトネスだけじゃない。リヒテルも、デュラーンも」
争わず、飢えず、憎むことのない世界。

「この子が生きていく世界だもの」
二人は雲が影を落とす草むらを横切り、侍女が迎えて立っている小門まで歩いていく。

「私は図書館で本の続きを。エストラ様はどちらに?」
「そうね、私もご一緒しようかしら。ファラトネスの図書館は久しぶり」
気に入ったものがあれば、リヒテルへ借りて持ち帰ってもいい。
リヒテルに戻ったらまた、大人しくしていろと今以上に口が酸っぱくなるほど言われるに決まっているのだから。

最も、今度は大人しく城の中で過ごすつもりだ。
そうでなければ夫の心が持たない。





「レンだわ」
長いコートをまとった仕事着で、レンが廊下の向こうからやってくる。

「散歩に行かれていたのですか」
「ええ。でも雨が降りそうだったから、戻ってきたわ」
「賢明です」
「タリスの様子はどうかしら」
レンの頬が微かに緩む。

「顔色はよくなってきています。医師が案じて側に付くのも掃うほどに」
「そう。ラモアでのことは、今何ができるのか、今後どうすればいいのか私たちも考えてはいるのだけれど」
「今は、ラモアに人員を配置し、警備を厳重にしています」
「ええ。それ以上できることはないもの。原因がまったく分からないのだから」
「情報の収集と、分析を行っています。デュラーンの研究施設と共同で」
「リヒテルにも声を掛けてみるわ」
現状では、ファラトネスとデュラーンに比べ安定している。
獣(ビースト)は年間数体接触が確認されているが、魔石(ラピス)で追える程度だ。
人間は獣(ビースト)に接触しようとしないし、獣(ビースト)も積極的に攻撃を仕掛けてくるわけでもない。

「ファラトネスで突然凶暴な獣(ビースト)が現れたのだもの。リヒテルで目撃されない可能性は、少ないわ」
「警戒するに越したことはないでしょう」
「とにかく今は。あなたはタリスをお願い」
医師は追い払い侍女を付かせようとしなくても、レンだけはタリスの部屋に踏み入れることを許されている。

「あなたが一番、あの子に信頼されているのよ」
つまり。

エストラがレンに寄り添い、小さく踵を浮かせた。
耳元で、そっと囁く。

「愛されてる、ということなのよ」
悪戯好きの子どものように、いい終わらないうちにレンから離れ愛らしく歯を覗かせて笑った。

「行きましょう、アリューシア」
長く垂れる服の裾を翻し、軽やかな足取りで廊下を進む。

「ああ、それから。レン」
振り向き様に、真っ直ぐとレンを指差し、厳しい視線で貫く。

「タリスを泣かせるようなことがあれば、私とリヒテルが許しません」
他国に嫁ぎ、王妃となった。
そして次に母となる。
リヒテル王の妻は、輝ける美貌に相応しい慈愛と覇気を持っている。
やはり、ファラトネスの王族だと、レンは納得した。
彼女が、タリスの姉だ。

「タリス様を悲しませるような真似は、決してしません」
「決して?」
「ええ。私が守ります」
「誓う?」
「はい、誓って」
「何に対して誓うというの?」
「私の存在、すべてを掛けて」
「つまりそれは、あなたのすべてをタリスに捧げる、と」
「もうすでに、捧げています」
何も変わるはずはない。

「私のすべては、あの方のものだ」
ずっと側で従うと、出会ったときから決めていたのだから。

「レン、あなたそれちゃんとタリスに言いなさいね」
エストラは黙ったままのレンを廊下に置いて、図書館への道を急いだ。






城主の趣味の一つが読書だった。
今は亡き夫と蒐集した国内外各地の書物が、巨大な図書館に収められている。
夫亡き今も、足しげく図書館へ通っている。
時間を見つけては、夫の温もりが染み付いたかのような、水の中庭の亭で気に入った本を開く。

ファラトネス王ラウティファータお気に入りの図書館は、巨大ではあるが館内は整備清掃され、過ごしやすい。

エストラが大きな本を両手で抱えて机へ戻ってきたのに気付き、アリューシアは立ち上がった。
席に着き一息ついてから、エストラが重い表紙を開いた。

「聞いていて、こちらが赤面してしまいました」
「だって、はっきり言わなければ変わらないことだってあるでしょう」
エストラは、やはり妹のことが気になって仕方ないのだ。

「ねえ。タリスがレンに何て囁いたか、分かる?」
タリスの舞を、アリューシアは目の前で見た。
城に招かれたとき、自慢の舞姫と歌姫の技を披露してもらったことは少なくない。
タリスとの付き合いは長いものだが、その間一切タリス自身の舞を見たことはなかった。

「いいえ。聞こえませんでした」
「そう、私も。何を言っていたのか、まったく分からなかった」
「ただ、あのレンを驚かせるほどのことだってことは分かりますが」
「愛の告白、ではなさそうね」
エストラは、タリスとレンの主従関係の崩壊を望んでいるのだろうか。
本を挟んで向こう側にあるエストラの表情を盗み見てみるが、分からない。
何を考えているのか、検討がつかない。
このあたりもさすが姉妹。
似ている。

「獣(ビースト)」
突然の話題切り替わりに、アリューシアは不意を撃たれた。

「霧」
エストラの会話についていこうと頭の体制を立て直す。

「水神(みかみ)」
その話は、デュラーンからの客人より聞いたのだろう。
アリューシアはエストラに話していない。

「デュラーンの地下に流れる水路。水に守られた城の奥深くに眠る水神の像。見たことある?」
「いいえ」
「私は一度、デュラーンのお城に招かれたとき、あちらの王族の方に案内してもらったわ」
清らかな水に育まれると、あれほどにまで美しい人間が生まれるのだろうか。
見目麗しく、心清らかで、強く、優しい。

「エレーネという方。私よりも年下なのに、とても落ち着いているわ」
流れる銀の髪は、光に透けると薄く紫色に輝く。

「その彼女のように、繊細な像。それが、水の中で眠っているの」
神の像が、その清らかなる水で大森林を包み込んだ。

「その水神がラモアを守ってくれたと思ったのね」
「あれはただの霧、普通の水ではなかった。気配が消えていったんです」
「その正体を知りたいのね」
「獣(ビースト)を知ることは、自分を知ることでもありますから」
「落ち着いたら、デュラーンに行ってみたらどうかしら」
突飛な提案に、アリューシアは固まった。
数秒間凍結した頭のまま、切り返そうともがく唇だけが震えている。

「強制するつもりなんて毛頭ないけれど」
即答できない。

「援助は最大限保証するわ。母様に話したら快く賛同してくれるはず」
話し始めて、自分の提案が気に入ってきたらしい。
エストラの声は高くなっていく。

「あなたはファラトネスの獣(ビースト)を近くで見て感じて、謎の霧まで目撃した数少ない人間だもの」
提供する情報は、デュラーンにとっても重要な資料になるはず。

「アリューシア自身も、学べるわ。環境は整っている」
どこに行けばいいのだろう。
エストラはどこに行かせるつもりなのだろうか。

「イェリアス島にある研究施設。周辺諸国から高く評価された研究所。知識、技術、人材、すべてが揃っている」
「知っています。そこに、私が?」
「そこでは不満?」
「いえ、というより。そこは研究者、エキスパートたちがいるべき場所なのに、あまりに違いすぎます」
アリューシアは単なる村人に過ぎない。

「経験は知識に匹敵するわ。あなたが目で見てきたこと、肌で感じたことは知識を得て、芽吹くのよ」
ともすれば、獣(ビースト)問題における打開策が生まれるかもしれない。
可能性に掛けるのも、いいではないか。

「アルスメラはイェリアス島に行くつもりよ。今回の報告と、デュラーンの動きを視察しに」
「視察、って」
「デュラーンの客人。あなたはどこまで知っているの?」
「小柄な黒髪の男の子は、デュラーン王の子だということは」
名は、ラナーン・グロスティア・ネルス・デュラーン。

「デュラーンを追われるようにして出てきたというのは何となく」
「それだけ?」
「ええ。口に出そうとしたら、隣にいた絶壁に斬られそうになりました」
「アレス!」
エストラが奥歯で言葉を噛み締める。

「過保護だとは思わない?」
「まあ、ちょっとは」
「私も事情は直接聞いてはいないのだけど、デュラーンでごたごたがあったみたいね」
「そう」
「その事態の経過観察のためにも、アルスメラはデュラーンに行くみたい」
「つまり」
「簡潔に言ってしまえば、アルスメラに付いてデュラーンのイェリアス島に行ってしまえば一石二鳥」
またとない機会ではある。
何と、何を天秤に掛ける?
獣(ビースト)に怯える生活と、その原因を探るための研究。

「時間が欲しいわ」
「迷っているの?」
「私にも家族がいるんです。許可を貰わなくては」
「待っているわ。アルスメラも、ことが落ち着くまでは城にいるようだし」
「ありがとうございます。エストラ様」
末妹タリスの友人、アリューシアにエストラは子どものような無邪気な笑顔を浮かべた。











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送