Silent History 39





「タリス」
重そうな扉の前で、二度名を呼んだ。
返事は無い。
物音も聞こえなかった。


鍵の無い扉をゆっくりと押し開けると、窓際の壁に崩れるように背を預けたタリスが見えた。
ソファや椅子に寄る事もなく、床に直接座り込んでいる。
利発な目は光を失い、力なく視線は地に落ちている。
威圧感すら覚えたタリスの存在感は、今はどこにも見当たらない。

ラナーンが側に寄ると、タリスに抱えられていたイーヴァーは役目を終えたかのようにタリスから離れて床に伏せた。
あまりの変わりように、どう声を掛けていいのか躊躇った。


「ずっと、考えてるんだ」
「何を」
「私にできることを」
「誰か一人で解決できる問題じゃない」
タリス一人が抱え込む問題でもない。

目の前で兵士たちが惨殺された。
獣(ビースト)に引き裂かれ、食い殺されていった。
人が人の形でなくなる様を、目の当たりにした。

だが、だからといってタリスに何かできただろうか。
何も、できることなどなかった。

まったく力の格が違う。


「現段階では、有効な対抗手段がないんだ」
手段がない以上、動けない。
獣(ビースト)の力を抑え、対抗し得る力、結界石。
魔石(ラピス)の効果が認められないのは、事実だった。

「獣(ビースト)は、きっとまた現れる」
今までだって、徐々に人間との接触は増えてきていたと、レンはタリスに漏らした。
また、凶暴化しているという現実も。

「そしてまた、私は国の民を守ることができない」
獣(ビースト)はファラトネスだけの問題ではない。
故郷、デュラーンの問題でもある。
放置はできない。
ただ、どうすればいいのか分からないのは、タリスもラナーンも変わらなかった。

「民を守るために、兵士を死に向わせる。盾にして、守る。それももう嫌だ」
「タリス」
ラナーンがタリスの湿った頬に手を当てた。
温もりが、尖った心を丸くしていく。

「おれは、デュラーンから逃げるために国を出た」
それは、知っている。
タリスの目は、その先にある言葉を待っている。

「でも、今は探そうと思ってるんだ」
大きな目に宿る、静かな意志の炎。
タリスはラナーンの目から視線を反らせなかった。

「大陸にも、獣(ビースト)がいる。知らなきゃ、どうすればいいのかわからないだろ」
まず見て、知って、それから動く。

「遠回りかもしれない。時間は、限られてるのかもしれない。でも、おれは」
「行くんだな」
「ああ」
「デュラーンを守るために?」
「おれに守れるかどうかはわからない」
すべてを守るには余りに大きすぎる世界だから。

「守りたいものがある」
両手でタリスの小さな顔を包み込んだ。
溶けそうなほど、温かい。

「手を伸ばし、握れるくらい」
力の抜けた、タリスの肩を宥めるように抱きしめた。

「小さな世界だけど、おれの世界。周りのもの。大切な、もの」
タリスも、ラナーンの背中に手を回した。

「守りたいんだ」
「うん」
タリスは目を閉じた。
目蓋の裏で、幼かったラナーンがファラトネスの庭を飛び回っている。




小さなラナーン。
幼かったラナーン。


いつも兄のユリオスについて回っていた。
ユリオスも愛らしいラナーンが心配で仕方なくて。
どこに行くにも、手を引いて連れて行っていた。
ラナーンは優しい兄を慕っており、兄のすることには何でも興味津々で覗き込んでいた。

姉ばかりのタリスにとって、ラナーンは弟のように感じていた。
ユリオスとラナーン。
タリスがデュラーン城へ遊びに行くと、兄弟は必ず一番に出迎えてくれた。
その彼らの後ろには、エレーネが控えていた。


城に着くと、エレーネはタリスの小さな手を取って、自室へと伴う。
柔らかな絹のヴェール、装飾細やかな髪飾り、ため息が出るほど繊細な彫刻が施してある家具。
エレーネの部屋にあるすべてが、タリスの憧れる物ばかりだった。
タリスが部屋に入ると、決まってエレーネは綿毛のクッションにタリスを座らせた。
櫛で少女のタリスの髪を梳くと、手元に置いてあった髪飾りで髪を巻き上げてくれる。

「さあ、ラナーンとユリオスと遊んでいらっしゃいな」
タリスの肩を笑顔で優しく押し出した。
光の中で煌く、ごく淡い紫の髪が羨ましかった。

促されて、一端ラナーンとユリオスに合流するともう一人のタリスが表に出たいと疼きだした。
ラナーン、ユリオス、タリスの三人の内、タリスが一番賑やかで活発だったのは自覚している。


木登り、水遊び、かけっこ、砂遊び。
タリスの母、ラウティファータが着せた純白のドレスを汚れるのを構わずに、遊びに夢中になった。
短い足で駆け回っていたあの頃。

ひとしきり遊んで、疲れて城内に戻ったところでエレーネが三人を迎えに出てきた。
夕闇迫る中、砂と土とで汚れた体を清めた後、エレーネは髪結いを呼ばず自らの手でタリスの乱れた髪を結い直してくれた。

温かい時間だった。
新しい記憶に押し消され、断片だけしか拾い上げられないおぼろげな記憶の中、あの時間だけは微かに覚えている。



やがてアレスがデュラーンにやって来て、遊び仲間に加わった。
新たな出会い、しかし胸が引き裂かれそうな一つの別れ。

ラナーンの母。
デュラーン王国の母。
ディラス王最愛の妃。
彼女の死。

いろいろな出会いと、別れ。
積み重ねられてきた記憶。

それらすべてが、失いたくない大切なもの。
タリスにとっても、ラナーンにとっても掛け替えのないもの。

守らなければならない、手の中に握り込める世界。




「守らなくては、ならない。私だって同じ」
小さな小さな庇護すべき対象だったラナーンは、タリスと同じくらいにまで大きく育った。
その背中を、強く抱きしめる。

「同じなんだ」
生きていく。
その長さの分だけ、大切なものも増えていく。
守るべきものが。

今は、イーヴァー。
そして、レンもいる。

「みんなタリスが大切で、タリスもみんなが大切。側にいるんだ」
薄く開いたタリスの目に、温かいものが溢れ出す。
陶磁器の頬を滑り落ち、顎を伝うとラナーンの肩に滴は落ちた。

「おれだってもう、弱くない」
昔みたいに、タリスに守られなくては歩けない弱いラナーンではない。

「一人で抱え込まなくていいんだよ」
「ラナーン」
落ち着かない滴を押さえることなく、タリスはラナーンに身を預けたまま意識を溶かした。



タリスを長椅子に横たえ、上着を掛けたところで扉が擦れる音がした。

「大丈夫。眠ったところだから」
声を低くして、アレスを部屋から押し出した。
後ろ手で扉を閉ざし、柱のように目の前に立ちふさがるアレスを見上げた。

「城からの援軍は」
「後一時間ほどで到着する」
アレスの服を引いて、ラナーンは歩き出した。

「レンを呼ぼう」
「どうだった」
「うん」
完全復帰、とはいかないだろうと言い辛い。

「どうすればいいのか。おれもタリスも、アレスだって。みんなわからないんだ」
「とにかく情報が足りない。原因がまるで見えてこないんだからな」
突如現れた、凶暴な獣(ビースト)。
効かなかった魔石(ラピス)。
それに、大森林を包み込んだ霧。

「タリスは、不安なんだ」
いざというときに大切なものを守れない。
打開策が見つからない。
行き詰まり。

「獣(ビースト)、このまま放っては置けない」
「ああ。だから大陸に行くんだろ」
世界を回る。
半ば賭けだ。

凶暴化、暴走、増加する獣(ビースト)。
その答えが見つかる保証はない。

しかし、不思議と確信している。

「おれにできる、僅かなことのうちの一つだから」
「分かってる。ついて行く。どこまでもな」
信頼している、最高の従者。
一人ではないと、ラナーンを安心させてくれる。

「ここまで来たんだ。嫌がってでも連れて行く」




レンは、談話室で開かれた会議の輪の中にいた。
アレスが肩を叩き、耳打ちをして輪から外させた。

「ラナーン様」
「タリスの側についていてあげて」
「しかしアレスが、タリス様は」
「眠ってる。だからこそ、目が覚めたとき安心させてあげたいんだ」
レンは快諾した。
会議の中座を侘びに戻ると、すぐにタリスの眠る部屋へ向った。

「おれたちは、アリューシアのところに戻ろう」


獣(ビースト)アレルギーと呼ぶべきか。
獣(ビースト)の気配に敏感な特異体質の持ち主、アリューシア・ルーファは長椅子に横になっていた。
床が軋んだ人の気配で、ゆっくりと目蓋を持ち上げる。

「ごめん。起こしてしまって」
「ううん。平気」
上半身を起こそうとして、ラナーンがアリューシアを止めた。

「横になったままでいいよ」
よほど疲れているのだろう。
アリューシアは何とか目蓋は押し上げたものの、体を起こすほどには体力が戻っていないようだ。

「気分は」
「悪くないわ。頭も痛くない。ただ、とっても眠いの」
「獣(ビースト)の気、それだけ体に負担だったってことだよ」
「二人はこれからどうするつもり」
「タリスと一緒に城に戻るよ」
アリューシアの腕が、肺の動きに合わせて上下する。

「私も、ファラトネスに行くわ。タリスの様子も気になるし、それに調査の結果だって」
「うん。レンに伝えておく」
「お願いね」
アリューシアは混沌の海に沈んでいった。
長椅子はアリューシアが寝ているので、ラナーンとアレスは窓際にあるソファに腰を下ろした。
座り込んで、気付く。
疲れていた。

「眠っていていいんだぞ。動きがあれば起こしてやるから」
アレスはそう気遣ってくれたが、すぐに寝付けそうにない。
館の隅々にまで、ファラトネスとラモアの部隊の発する緊張感が染み渡っている。

「アレス」
ラナーンの頭越しに窓の向こうにある空を眺めていたアレスが、視線を部屋に戻した。

「何だ」
「デュラーンを出てから、いろんなことが変わってしまった」
「変わらないものだってあるだろう」
タリスは、デュラーンを捨てたラナーンを変わらず受け入れてくれた。
変わらないものもある。

「俺は変わらない」
「うん」
「眠れないなら、せめて目を閉じておけ。また忙しなくなるんだ」
今は、何も考えるな。
アレスはラナーンの目蓋の上に大きな手のひらを被せた。

その温もりは、デュラーンにいたときと、同じだった。











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