Silent History 31





ラナーン。


名を呼ぶ声が聞こえる。
何度も、何度も。

ラナーン。

記憶の奥底から、浮かび上がった泡沫のような、優しい声。
どこかで聞いたことのある声。
温かい、声。

ラナーン。






白いシーツの中、熱っぽい喘ぎを落とした。
まだ。

湿っぽいため息を吐いて、だるい体を少し愛おしく思う。

ラナーン。
声が、遠い。

お願いだから、もう少しだけ。
シーツを握り締める。

この溶けかかった意識のままで。


「ラナーン」
低い、穏やかな。
耳慣れた声がする。
火照った体を、安心できる場所、柔らかな寝台に横たえているその時間が心地いい。

デュラーンに戻ったようだ。
ここは、温かい。
肌に触れる寝具はどれも柔らかくて。
危険なものなど、何もない。

「ラナーン」
だから、もう少し。
もう少しだけでいいから。






「おい、蹴破ってもいいか」
不穏な空気が扉の向こうから流れ込んでくる。

「姫様方のお許しがあるのでしたら、どうぞご自由に」
返す方も、張りのある声をしている。

「ラナーン。いつまで寝てるんだ」
許可がなくとも、今にでも蹴破りそうな勢いだ。
装飾が美しい芸術作品とも言える扉を、潰されるわけにはいかない。

「開けるよ」
目を擦り、まだ完全に動いていない頭を引きずって扉まで歩いていった。
扉を開けるなり、アレスの顔が飛び出した。

「時間だ」
思わず、何の時間かと問おうとしてラナーンは言葉を呑んだ。
思い出した。
ここはファラトネス。
自国デュラーンの隣国。
そして彼らラナーンとアレスは逃亡者だということを。

「目が覚めたか」
「四割」
「用意をしている間に六割は目覚めましょう」
言い終わらないうちに、侍女の一人が室内に入ってきた。
先ほどアレスの暴挙を制した女性だ。

ここはタリスの領域。
タリスが用意した部屋。
そして彼女はこの場所、ファラトネス城の侍女。
出て行けと追い出す理由はない。

「さあ、お入りなさい」
年長者の彼女に率いられ、三人の侍女たちが室内に流れ込んでくる。

「ラナーン様はそちらの椅子へ。アレス様はあちらの鏡の前へ」
年上の女性に続いた二人目の侍女は、手に籠を持っている。
四角い籠の中からは、刷毛や手鏡などの化粧道具かと思われる物が詰まっていた。
彼女はそれを机の上に並べると、まずは布を取り出し椅子に収まるラナーンの肩に掛けた。

化粧係の彼女の後にやって来た三人目の女性は、二人分の服を手にしている。

「今のお召し物で城内を散策なさるには結構ですが、今夜は宴の宵。正装していただきましょう」
そう言い、一回り小さな服は寝台に広げ、アレスの服を手にとって両手を広げた。

「化粧箱の出番は後です。最初はわたくしから」
最少年と思われる彼女も、化粧係のような籠を持っていた。
ただ、こちらの籠は丸みを帯びている。

「化粧係じゃないのか」
衣装係の侍女の指示で、衣紋掛けよろしく服を掛けられ姿見の前で微動だにしないアレスが顔だけ向ける。

「わたくしは、髪結いです。アレス様」
少女は鮮やかに櫛を籠から抜き出した。

「結われる髪などないぞ」
力なく睨みつけるラナーンに、少女は愛らしく顎を上向けた。

「結うつもりなどありません。まあ、お望みというのであれば、結わせてもいただきますけれども」
「望まない!」
「ならば、結構。わたくし、結うだけしか能がないわけではございません。切りそろえたり、整えたり。それもお仕事です」
デュラーンを出て以降、放っていた髪。
伸びただろうし、痛んでもいるだろう。

「わかった。頼む」
少女は歳相応の笑顔を浮かべると、櫛を片手にラナーンの髪を手に取った。










城の奥深く。
閉ざされた扉の前に、彼は立った。

持ち上げた手を、扉に触れる寸前で止めた。
最初にここに来たときのことが、頭を過ぎったからだ。

いまでこそ、ようやく子供から大人に抜け切った少女。
その小さくも気丈な姫君は、小さな背丈で顎を持ち上げ、彼を見据えた。

聡明な目をしていた。
澄んだ蒼の目が見上げていた。
子供だ。
まだ幼い少女だ。
だが、彼女は美しかった。

小さな唇は動く。
名を求められた。

彼女はそのとき宣言したのだ。


「私には、まだ力が足りない。権限も足りない」
彼女の付き人として重用された。
姫君の身辺警護及びお守りがその役目だと思っていた。
それだけが、自分に与えられた仕事だと思っていた。
それが大きな誤りだと知る。

「私は遠からぬ将来、ファラトネスを動かす力になる。そのために他者の力がいる」
彼女は自分自身でなく、すでに外にまで目が向いている。
自己とそれが与える周囲の影響力を考慮し始めている。
自分が周りの環境の中で、どの立ち位置にいるのかを知っている。

「レン、私の力になってほしい」
今の彼女ですら、畏怖に似たものを感じていた。
その存在感に押されている。
彼女が、ファラトネスを動かすと。
この小さな姫君が。
幼い彼女が。

「私が、タリス・エメラルダ・リスティール・ファラトン。返事を教えてほしい。レン」
その契約が行われたのが、この扉の向こう。
変わらない、タリスの私室。

「返事は、言うまでもない」
レンは扉に手を掛けた。

「ずっとお側に。あなたに従います」
扉をゆっくりと押し開ける。

「そしてそれは今でも、変わることなどない」
この先も、ずっと。

広間の椅子に、白い姫君が腰を下ろしている。
薄布を何枚も重ね、広がった裾は円く花弁のように広がる。
側で髪を梳いていた髪結いが、レンを見て目礼し後退した。

「宴の間はどうなっている」
華美ではない。
艶かしく肌を露出させ過ぎてもいない。
だが、彼女からは女性の色香が微かに漂う。
それは、幼かった少女とは違う、何か。

「整っています。エメルとフォーネも、デュラーンからのお二方をお迎えに参りました」
「では私も」
椅子から立ち上がろうと上体の重心を前へ倒す。
髪が肩に掛かり、絹糸のように流れ落ちる。

レンが歩み寄り、タリスの腕を取った。
そのままゆっくりと引き寄せ、立ち上がらせる。
髪の上へ巻き上げていたヴェールを、タリスの顔に下ろした。

「参りましょう」
先導するのではなく、タリスの手を引き歩き始めた。









「ご準備は整いましたか」
扉を叩く音に、フォーネの声が重なる。
目の前で扉が開かれる。

「エメル、フォーネお入りなさい」
薄く開いた扉の奥から、二人が顔を出した。

「まあ、これは」
毛先を整えられ、ファラトネスの正装に身を包んでいる。
アレスもラナーンも回廊に飾っておきたくなるほどに目を奪われる。

「早く姫様方にお見せしたいです」
エメルが声高く、手を合わせて喜んだ。

年長の侍女が、アレスとラナーンの背を押し立ち上がらせる。
髪結いと化粧係がそれぞれの道具を手に、二人から離れる。

「それでは、エメルとフォーネ。宴の間へ」
「ご案内させていただきます。ラナーン様、アレス様」
緩やかに頭を垂れ、髪結いと化粧係が開いた扉を抜けた。



その回廊を更に先に進み、角を幾つか曲がり、扉を幾つか隔てた先に宴の間はあった。

おもむろに巨大な扉が開かれる。
両側に控えていた侍女や従者がファラトネス式の最敬礼で迎える。

ファラトネス王国、永久の花。
強く気高い王。
そして、五女とファラトネス王国の母。
ラウティファータ王が、悠然と広間の奥へ進み出た。
側仕えはラウティファータの後から背筋を伸ばし、滑るように堂々と入場する。


麗しのラウティファータ王。
想いを掛けるには余りに荘厳で、余りに美しく、そして余りに遠い。

威厳を放つフェリウス。
衣の裾をなびかせ、揺るやかな歩調で母に一歩下がって続く。
亡きファラトネス王を思わせる威光が周囲を沈黙させる。

穏やかなアルスメラ。
薄い布地に細やかな刺繍が豊かに施された衣装で、姉の隣を歩く。
アルスメラ付きの侍女が、彼女の地面に垂れる裾を手に後ろを行く。

明朗で聡明なシエラティータ。
その目は細部まで見通し、人を纏め上げることについては姉をも凌ぐ。
艦隊を背負わせたらどれ程能力を活かせるか分からない。
しかしその機会は、平和なファラトネスではあり得ないことだが。

最後にタリスが、レンに導かれ現れた。
最年少ながら、息の詰まる緊張感が周囲に走る。
大きな瞳、白い肌。
人形のような整った顔立ちの下は、燃えるような情動で溢れている。
一族の中で最も行動力と情熱に満ちている。

ファラトネスの主たちから少し離れてラナーン、その従者のアレスが広間に入ってきた。


王族、貴賓が揃ったところで宴が始まる。
宴の衣装に着替えた侍女たちが酒杯を盆の上に乗せ、入場しては散っていく。

エメルとフォーネは一族より少し離れた端の方へ座っていた。
いつでも王と姫君たちの命に反応できるように、気を張っている。

重臣たちの軽い挨拶が終わると、レンがエメルに小さく指示を出した。

「ラフィエルタをここへ」
唇は、そう動いていた。
エメルは小走りに出口の一つへ向っていく。

「ここからは月がよく見える」
ラナーンのすぐ側の窓はテラスの入り口だ。
ラナーンが首を伸ばして外を見た。
風が抜ける。
月がまだ低く浮いていた。











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