Ventus  188










組織に属するというのは、現実に足をつけて生きていくことだと思っていた。
学生は夢の国、社会は現実世界。
閉鎖と開放。
より広い世界に触れ、多くの情報に触れる。
だが現実は、知れば知るほど現実離れしているのに気づく。

逆説。
自分が現実だと思い込んでいた幻想を打ち砕かれる。

ここは、現実か?
何度自問したか知れない。






「風呂は、同じなんだな」
湯気に巻かれ、髪から滴る雫が生み出す波紋を見つめていた。
どうやって電気が生み出されるのか、淡い電灯が光を落とし、水面に暗くクレイの顔を映す。
静かだった。
窓の外から虫の音がする。
森の遠くから獣の声もする。
水蒸気が立ち上る音がする。
水面からふわりと飛び上がった無数の水の粒たちは、空気に巻かれて飛び去っていく。

ここには整った顔が並んでいた。
確かに、ディグダの人間とは少し違う顔つきだ。
穏やかで線が細い。
神徒といった、この村の人間たち。

信仰なのだろうが、閉鎖的というか、隔絶されている。
人種とほぼ同義だ。
現存している彼らは、神徒という種族なのだろう。
神徒は神と神殿とによって形成されていたという。
神王派でありながら、神殿には属さない渚の者たちもいただろうが、消失している。
弾圧と迫害の手が、それら渚の者たちを消し取ったのだ。

「神に近づけば、ああなるのか」
神徒という種族の生まれは知らず、先天的か後天的かも不明だが、彼らの性質は総じて大人しく闘争を嫌う。

「ゆえの、悲劇か」
神を失った彼らは弱かった。
反抗も抵抗もないまま、無造作に毟り取られた。

しかし分からないのが、彩(ツァイ)の動機だ。
彼らをなぜ保護しようと動くのか。
神王を討伐したサロア神を抱えるルクシェリース、その天敵であった神王派。
神王派の神徒たちを胎に取り込むことは対外的リスクを孕む。
当のディグダでさえ、神王派の擁護には動いていない。
国益や政策とは乖離した動きを彩は見せている。
しかも、それだけのリスクを抱え込んだ、彩のメリットが見えてこない。
リヴ・ローズワース、彼女が何年彩とともにいたかは知らないが、
彼女ですら彩の目的を見抜けないのだから、新入りのクレイが知れるはずもない。

世界中に散らばり、神門(ゲート)や神とともに在った神徒たち。
弾圧によって彼らは削られ、残った者たちは密集し、息を潜めた。
クレイに知ることができるのはそこまでだ。
神徒という外殻しか見て取れない。
彼らがどういう歴史を生きてきたのかはまだ知らない。
彼らはクレイが触れた神門(ゲート)について詳しく知っているのか。
あるいは獣(ビースト)について。

おもむろに湯船で立ち上がり、ガラスの嵌らない窓へ寄り添った。
深い闇だ。
だが恐怖はない。
静謐で神聖な空気に満ちている。
その暗黒を灯りで慎ましく切り崩して、彼らは生きている。
波立てないことが彼らの生き様だ。

日が昇れば花々は朝日を受けて煌く。
夜露が洗い流した新鮮な風が木々を抜ける。
閉ざされて作られた楽園だ。
一歩外に出、神徒と知れればたちまちに彼らは捕らえられ、商品として値踏みされる。
神徒に人権はない。

獣(ビースト)が悪魔ならば、神徒は悪魔との契約者。
それが世界の現実だ。
神徒が獣(ビースト)の発生と世界の混乱に加担していない、という考えの方が異端なのだ。

冷えかかった体を再び湯に沈めた。
答えを求めようとすると行き詰る。
自分の頭で何かを考えるには時期尚早な気がした。
彩も、今はクレイに情報を取り込ませようと、吸収する土壌を与えた。
あらゆることをインプットすることが今のクレイに課せられた任務だ。
アウトプットはその後でいい。

クレイは湯から上がり、風呂の出口に引っ掛けてあったタオルを頭から被った。
部屋に戻ろうと廊下を進んでいたところで声をかけられた。
風呂でゆっくりできたかとの挨拶代わりの雑談を一言二言だったが、ここの人間の人の良さが伺えた。
警戒心がない。
リヴ・ローズワースの同行者だというにしても、あまりに屈託がない。
あどけなさがそのままに残っている。
目の前の女性も、クレイよりは十ほど上だろうが、実に少女のように軽やかだ。
そっと微笑み、喉も渇いたでしょうから、と談話室へと誘った。

「ここで生まれて?」
「私? いいえ。生まれたのは外、育ったのもそう。ここへ来たのは七年前です」
外のどこで生まれて育ったのかは彼女は言わなかった。
クレイも聞かなかったが、彼女の襟の下にそっと覗く刺青が目に入った。

温かい談話室のソファに身を沈めると、彼女は廊下に引き返していった。
片手に抱えられた荷物、何かの用事の途中だったのだろう。
談話室には夜も更けたともあって、人がいない。
ソファの傍らにあるテーブルには、冊子が置いてあった。
村の新聞だ。
誰の畑で、どういう作物が育ったとか、収穫した野菜の交換を持ち出していたりもした。
事件についての記載はなかった。

「今週はファサのところに男の子が生まれました。昨日、作物を持ち寄って祝ったばかりです」
青年が手に持っていた飲み物を、クレイの目の前のテーブルに載せた。

「新聞に興味がおありで?」
「新聞だけじゃないけれど」
「星が見える風呂は堪能していただけましたか?」
先ほどの女性から聞いたのだろう。

「公衆浴場、なのか。ここは」
クレイらのゲストハウスに隣接している。

「日が暮れ始めると、湯と談話を求めてみなここに集まります。湯の中で、湯を上がって談話室で暮れ行く村の時間を愉しみながら語るのです」
公共サービスの一環だと思っていたが、話を聞くうちにその概念自体が存在しないことに気づいた。

「通貨がない?」
「基本的に、我々は外部と貨幣での交易はしません」
実に原始的な物々交換制度だった。

「幸いにして、この土壌は肥沃で飢餓も貧困もありません」
故に大量な備蓄や貯蓄の必要性は薄くなる。
あるものを消費する。
貧富の差はない。

ならば労働量の公平性や、怠惰が問われるのではないかと危惧した。
しかし、実直で勤勉な神徒の性質に、現行の制度は適当らしい。
根底にあるのは損得勘定ではなかった。
他人への奉仕は自分の幸福へ還元するという観念に基づく。

「狭いコミュニティですから、物資輸送での重労働もありませんから」
貨幣に変換して物流の効率化を図る理由もないわけだ。

「あなたは外を知っているのか?」
外を知らなければ、こうして内情を分析したりはできない。

「隣、よろしいですか」
クレイの左にあるソファへ視線を落とした。
構わない、とクレイは首を縦に振った。
神徒から直接話を聞ける機会など滅多にないのだから願ってもないことだ。

「僕が生まれたのはルクシェリース領です」
「ルクシェリースって。そこは」
敵国だ。
神徒たちにとって、虐殺の首謀者たちの国だ。

「もちろん眠れる女神が祀られているシエラ・マ・ドレスタではありませんが」
だが、それにしてもおよそ生きていける場所ではないように思える。

「ルクシェリースの領土で僕たちの家族は生まれ、僕は僕の意思でディグダに来ました」
「他の、家族は?」
「母はルクシェリースに。店を構えています」
「神徒だろう? そんな人と触れるような」
「大丈夫です。僕たちは神徒の血が薄い方ですから。それに、そうして外に融け込んでいる神徒も結構いるものですよ」
小奇麗な作りをした顔だ。
透き通った綺麗な目をしている。
だが、鼻が細いだの、目が細いだのといった特徴は持ち合わせていない。
ディグダにいても分からないだろう。

なぜディグダに、と。
当然の質問をした。
彼は知りたかったからだと答えた。

「こちらこそ、なぜって思ったからです。あえて僕たちを保護しようと考えた人の思想が不思議だった」
いまだ根強い差別。
獣(ビースト)の出没が問題視される今、再燃してすらいる。

「我々はヒトではない。ヒトの敵である。自覚しています。だからこそ、この目で見たかった」
「ここは保護区だ。他と隔絶した場所だ」
異物が混じらぬように砂の壁で閉じ込めた。

「今まで不自由はあれど、比較的自由な生活を送れていたのではないのか」
「いずれ、僕はここも去ります。僕は、旅をしようと思うんです」
「旅だと?」
「以前、ここに来た神徒がいました。彼は囚われた神徒を救い、村へと連れて来たのです」
「あなたも、そうなるつもりか」
黙ったままだった。

「私にはまだ、神徒がどういうものか分からない。周りの世界のことも。知っているのは狭い、酷く狭いディグダクトルの一部だけ。それでも」
それでも外の世界は神徒を疎ましく思い、あるいは神徒を商品としか考えない人間に溢れていることは、リヴから学んだ。

「危険だ」
「そうですね、知識も何もない今は。僕は以前現れた彼を訪ねてみようと思う。彼の旅の続きをしようと思う」
神徒を救う旅だ。

「神を見たことはあるか」
「神は森の底にいます。神門(ゲート)とともに」
「ならば神門(ゲート)は」
「神門(ゲート)へ触れることはなりません。木々に守られて存在する清らかなものです」
「私は腕を神門(ゲート)に突っ込んだ」
砂と岩の中にひっそりと建っていた施設、乾いた堅い低木がちらちらと岩に健気に噛り付いていた。
森と呼べるような鬱蒼とした木々は見渡す限りどこにもない。
施設は冷たい人工の石の棺。
そのなかに空間の裂け目が保管されていた。

「ヒトが壊した神門(ゲート)です。神も、もうそこにはいない」
「ひとが神を殺す。神も死ぬのか」
「死という概念が神に適用されるのかは分かりません」
人間の肉体が壊れ、機能を停止し、意識が消失した状態を死と表現するとするならば。

「神の肉体は我々と同じような組成ではありません。神聖な形象は研究対象にはなっておりません」
ただ人よりはるかに長命で、意識を共有できるネットワークを保持しているという。

「神は消えた、そう我々は考えております」
「森を削られ、神門(ゲート)が剥き出しになり、その神門(ゲート)を人が破壊し、神は消滅した」
それは象徴でなく、思想の先端にあるものでもなく、具現化され存在する。
天から見下ろされ、見守られているものでなく、己の目の高さに存在する。

「現実とは、もはや」
形而下の神にクレイは混乱する。
空間の裂け目に手を突き入れ、こちらではない空間に接触したときに逆流した己の記憶。
どろどろとした過去の感情が体内から引きずり出され、目の前に真っ黒な醜いものとして現れたような不自然な感覚。
説明しきれない現実を体感した。

「お疲れでしょう。今日はどうぞお休みください」
心を落ち着かせるような、ハーブの飲み物を入れなおしますのでとカップを手に青年は立ち上がった。

「明日、もしまだあなたがここに滞在なさるというのであれば、望むお話をいたします」
「私の、知りたいことを? そうだな、いろいろと頭を整理したい」
椅子の背に首を預けてクレイは目を閉じた。
複雑な色の光が目蓋の中を飛び回って騒がしい。
知りたいことが何か、知るべき情報はどれか見出せていない。

「老(ラオ)が成そうとする道を、知ることで少しでも見ることができるのか」
今はこの目で見て、この耳で聞き、固定観念を打破し、現実離れしたこの現実に歩み寄らねばならない。
物理的ではない距離の遠さに、眩暈がした。












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