Ventus  180










体を余すところなく光が明らかにした。
濃く影が石に染みつけられる。

水を抜いたプールのように簡素なコンクリート打ちの広場の中ほどに、パイプ椅子が二つ並んでいる。
白く塗装された屋上の柵と、パイプの直線、平行に伸びる影、それらの形状と陰影と明暗が美しかった。

クレイ・カーティナーに芸術的感性と官能は磨かれてはいなかったが、単純な線と、意図されていないが計算の枠に嵌った一瞬の美にちょっとした感動を見た。

写真に映しこんだ奇跡の一瞬に、ごてごてと着飾った異物が侵入し、均整を壊すのを躊躇ったがオーダーは彼女の召喚だった。
だが肝心の彼女のボスの姿はない。

午後の日差しの照りつけて輝くコンクリートの上をクレイが渡っていく。
眩しくはあったが涼季の風が吹き抜ける心地よさがあった。
耳の真横を過ぎる風の音は屋上の空間を外界と隔絶する。
風が巻き上がり、包み込み、壁になっているようだ。
パイプ椅子まで辿りつき周りを見回した。
平たい屋上に階段室としてひとつ飛び出ている塔屋の裏側に彼の上司の背中が見えた。
欄干に肘を乗せて軽く丸めた背中は丸みを帯びた柔らかいフォルムをしている。
温もりのある立ち姿は人のいい中年のおじさんといった風体だった。
紳士的であり、品位もあるが人好きのしそうな穏やかな空気を纏っている。
個性と実力の際立った朱連の集団を統括するのは並大抵の努力と統率力ではない。
だが緊張感を他人に感じさせない。
むしろ話しているうちにいつの間にかこちらは外装を剥がされ本音が溶け出している。

彼との距離を縮めたクレイの気配を察し、ゆっくりと振り返りながら彼は労いの言葉をかけた。
彼が向き合っていた先には建物が密集している。
味気ないドミノ板のような建物ではなく、どれもが変わったデザイン性を含んでいる。
しかしそれぞれに個性を放ちながら統一感のある様はオーケストラのようにも思えた。
よく無事に帰ってきたくれたと言われ、こそばゆさを覚えた。

「腕の傷は」
キースは椅子を勧め、自らもその隣に腰を下ろした。
同じ方向を向いた二人の目の前には広場が広がる。
右手には訓練場があり、模擬戦闘を行えるよう建造物が配置されている。
その奥には運動場があり今も赤褐色をしたゴム状のレーンの上を走っている人間の姿がある。
あれは朱連か、あるいは別の部隊か。

「痛みはありますが、それほど深くは負っていません。皮を切った程度ですのですぐに治ります」
クレイはちらりと目を右腕に落とした。
借りた薄絹は血が移ってはいけないと敷地内に入って早々に肩から下ろした。
服は裂けて大きく口を開いている。
肩口にゆとりのある服で良かったと思う。

「早めに医務室に行きなさい。服を返すのはそれからでも大丈夫だから」
報告することは特にない。
無事に書簡は依頼者から受領者へと手渡すことができた。
それは報告済みだ。
負傷とイレギュラーな処置も端的に盛り込んだ。

「詳細なレポートは、後ほど提出します」
「仕事は緊張したかな。想定外のことにも的確に即座に対策を考えねばならない。指示してくれる人間はいない。頼れるものは一つ、自分だけだ。どうだった?」
「適切な対処には相応の経験と知識と技能が必要です。自分の中に辞書を抱えているようなもの。私にはまだ空白の頁が多い。ゆえに不安も多い。そう感じました」
「一言でいうなれば、未熟の自覚、ということかな」
その通りだった。
シーンに応じた選択、カードが無ければ茫然と立ち尽くすだけだ。
機転だけでは対応できない。
経験と知識と技能、その拡がりがあって初めて突破口が見いだせる。
可能性が拡がる。

「不足しているものがあまりにも多いのに気付きました」
「それはいい傾向だ。探究心は人間を育てる。どんどん知識に対して貪欲になりなさい」
任務を終えたばかりで気が張っているせいもあるが、どうもクレイは腰の据わりが良くなかった。
表情と仕草には出していないつもりだが、それに気付いたキースは流石だとクレイは内心驚いた。

「大丈夫、盗聴器など仕込まれていないかは確認済みだ。階段室にはちゃんと警護も立ててあるから心配ない」
ここは私の砦だ。
土足で踏み入るような無礼な輩は叩き出す前に近づけさせない。
そう一瞬光った強い目でいい切ると、苦笑混じりに続けた。

「もっとも、名高き朱連の塔に踏み込もうなんて猛者はそうそういないけどね」
カイン・ゲルフが心配していた朱連の姿を思い出し、クレイも口元を緩めた。

「君は昔ここにいた朱連の子に似ている。あの子も真っ直ぐで、とてもいい子だった」
堅すぎるほどストイックで、たまに漏れるように零れる笑みが印象的だった。

「彼女も綺麗な子だったよ」
キースが口にするといやらしさが感じられない。
風貌の美醜ではなく彼はその人間の生き様や人格を形容している。
その言葉は洗練された美を賛美していた。

「我を押し通すのではない、合理的で論理的、それで計算した自分の筋を貫く子だったんだ」
融通の利かない性格はクレイも似たようなものだ。
愛想も素っ気もない。
興味のあることには黙って食いついていくが、興味のないものは見向きもしない。

「協調性がない、と撥ねられもする。加えて類稀なる実力があればこそ、疎ましく絡みつく目もある。でもそういう子ほど味があるものなんだ」
キースは学生から上がった彼女を引き取り育てた。
ちょうどクレイのように。

「でも大切に育てた子もすぐに取られてしまう。哀しいことにね」
建物の頭が並んだ地平線に目を細めた。

「あの子は強かった。英断できる頭脳と断行できる行動力、孤高の精神力を持ち合わせていたからね」
どんな鉄の人間なのだろうかとクレイは思った。
そんな完璧な人間でも、キースにとっては可愛い子どものようなものだった。
年が親子ほど離れているというだけではない、上司と部下という間柄でもない、温もりと愛情を感じた。

「クレイ・カーティナーも強い。だけどあの子とは違う強さだ」
「別に、強くはない」
「ああ。痛みを知っている、守る物を知っている強さだ」
「私が守れるものなんて、もう」
「セラ・エルファトーンはまだ君の中にいるんだろう」
クレイは痺れた。
セラは聖域のようなものだ。
誰とも分かち合うことのない、触れることのできない宝玉のようなものだった。

「セラ・エルファトーンが君の友人だったことは知っている。愛嬌のある心根の優しい、人に好かれる人間だったことも知っている」
クレイはキースの思考についていけなかった。
突如湧いて出たセラの名に戸惑ったせいもある。

「しかしそれはエルファトーンらしきもの、に過ぎない。彼女のことをほとんど知らない人間が断片を組み合わせた継ぎ接ぎに過ぎない」
「どうしてセラのことなど」
「君のことを大切に思い、興味を抱いたのと同じに、君が心の奥底で大切にしている彼女のことを知りたいと思った。好奇心だよ」
「私を呼んだのはセラの話を聞きたいためですか」
「それもある。下では邪魔されてゆっくりと話しなんて聞けないし、何より気分がオフィシャルで用件だけ済ませて終わって味気ないからな」
「それも、あると。先に本題をお聞きしたい」
「急いでいるのかね」
キースの皮肉ではないが、彼女たちの時間を管理している上司の立場を鑑みれば皮肉にも聞こえる。

「いいさ。夕刻まで時間がある。そうか、昼食はまだだったね」
昼はとっくに過ぎている。
クレイはまだ体の芯まで解れておらず、胃は重いままだった。
セラのことを整理しきれていないので時間を稼ぎたい。
加えて、用件を先に片付けて少しでもストレスを緩和したかった。

「せっかく慣れたと思ったのだけどね。君を引き取りたいという声があってね。立場上、拒否するわけにもいかなかった」
「異動、ですか」
朱連配属から一年も経っていない。
これから実力をつけて、朱連の先鋒に立って部隊に貢献していく段だというのに。

「実力が」
「勘違いをしないでほしい。言葉は正確だ。先方からの要望だ」
「でしたらなおさら、私ではなく先輩たちの方が実績があります」
「君を選択するに至るさまざまな要素は、手の届かないところに在る。君を欲しいと申し入れられれば従うしかない。残念ではあるけどね」
また、環境が変わるのかとクレイは軽く頭痛がした。
適応するには体力がいる。
他人と触れあうには時間と努力がいる。

「それもすべて君の強さゆえに。言っただろう、君には君の強さがある。孤高ではない、守るべきものを守る強さが」
「セラの何を知りたいと言うのです」
「君にとっての彼女とは」
「神でしたよ。信仰心など私にはない。何も信じず、何も見ず、温度も感じない、痛みも感じない。無痛で無関心の世界に痛みをくれたひと」
クレイは空を仰いだ。
まだ風の唸る音が聞こえる。
天井を回るように晴天で巡っている。

「光でしたよ。闇の中では何も見えない。漆黒の世界に光を落とし色を与えてくれた」
枯れていた心に、乾いてひび割れていた心に温かさが宿る。
セラを想う気持ちはいつも生々しく熱いままだ。

「母でした。温かかった。ひどく安心した。愛おしかった」
キースは黙って聞いていた。

「広い世界への扉を開く鍵でした。世界の始まりでもありました。世界のすべてでした」
生きる意味でした。

「時間が経って傷は埋まり、痛みは和らぐかと思っていた。でも違う、思い出すたびに胸は変わらず痛い」
ふとした瞬間。
それは香りや、過去と同じ仕草。
それによって一瞬、手繰り寄せられた思い出というまで明確に形状にならない感覚。
靄を握りこむように頼りなく儚い、記憶の糸くずのような感覚が過るとき、そこにカタチとしてのセラが存在しない哀しさが込み上げる。
彼女はもう、隣にはいない。

「セラも言っていた。私は脆い人間なのです。強くなどない。いつまでもセラを繋ぎ止めていたい。忘れることなどできないのです」
クレイに打ち込まれた楔。
セラの思い出さえ奪われてしまったら、クレイの精神は砕けてしまう。

「捨てることで、何かを失うことで、私は強くなどなれない。大切な、絶対なものができてしまって、痛みを知ってしまって、私は昔の私ではなくなった」
周囲の人間を自分と隔絶し、完全な外界として興味すら持っていなかった。
周りの環境などどうでもよかった。
痛覚のないクレイは、体の芯まで冷え切っていた。

ひとはここまで他人に干渉できるのか。
交感し、影響し、精神構造まで変えてしまえるのか。
たった一人の少女が。
しかもレポートにはどこにでもいそうな、没個性の物腰の柔らかい少女とあった。

「話せることなどありません。いくら言葉で語ったとしても、それはカタチや記号での装飾に過ぎないのですから」
「それでもちゃんと、伝わったよ。それがセラ・エルファトーンのすべてではなくとも。ちゃんと、彼女の一部は受け止めた」
キースはクレイに感化されたように胸の奥が震えていた。
この少女は、クレイ・カーティナーの純度に心の底で涙していた。
彼女こそ混じり気のない純水のような人間だった。
嘘も偽りもない、ただ清らかで真っ直ぐな人間だった。
その手が人を殺めたとしても、彼女の心は濁らない。
精神や信念は貫かれている。

「君は愛されていた。それに今もみんなに愛されている。いずれ気付くときが来るはずだ。必ず」
必ず、だ。
キースはクレイの冷たい手を取った。
クレイは拒まなかった。
礼節を守れば、彼女は過度に拒絶はしない。
クレイはキースの手を取って立ち上がる。
美しく伸びた背筋、滑らかな所作、軽やかな足の運び。
彼女は作法の訓練を受けている。
入学してから学生生活も私生活もすべて敷地内で完結していた。
いつ、どこで教育された。
疑問はいくつか残ったが、彼女を知るには時間が足りない。

「新しい環境が心配かね」
「あまり人と交わるのは得意ではないので」
「世間ではそれを人見知りというんだよ。大丈夫だ、次の場所もすぐに馴染むよ」
表情は変わらず固かったが、何度か直接クレイと会って話すようになり、彼女の不器用な性格も愛おしく思えるようになった。
セラ・エルファトーンもそんな彼女に何より思い入れがあったのだろうことが想像できた。
二人を裂いてしまった現実と、彼女たちを巻き込んでしまった争いをキースは憎んだ。
彼らはもっと温かな場所で生きるべきだった。
決して血に塗れることのない場所こそ、彼女たちの居場所だったはずだ。

「戦争をなくすための戦争をしたくはない。血で血を洗っても虚しいだけだ。流した血だけ人は他の大切なものを失う」
君たちは穢れないでいてほしいとキースは切に願う。
その世界を守るのは大人の役目だ。

「それでも立ち向かわなければならないものがある。私はそれに覚悟を以て対峙するつもりだ。私には君たち子どもを巻き込んでしまった責任がある」
クレイはキースの目を見つめていた。
その言葉の真意と誠意を見定めている。
漆黒の目は真実を映す鏡のようだ。
やましい心があれば耐えきれずに目を反らしてしまう。
キースは吸い込まれそうな瞳を見下ろしていた。

「君に謝りたい」
「私はあなたに謝ってもらうことなどされていません」
「君たちを守り切れなかった。だが、今度こそ」
クレイの顔が陰る。
だとしても世界は変わらない。
膨れ上がってしまった巨大な帝国を、このディグダを人ひとりの力でどうできるわけでもない。

「長く引きとめてしまった。済まないね。体は冷えていないか」
「大丈夫です。話ができてよかった」
異動の詳細については別途連絡が来ると言う。
キースと会うのもこれが最後だ。

「まず医務室へ行きなさい。食事も、あまり空腹ではないかもしれないが取るように」
最後まで世話好きな、親のような上司だった。
親らしい親のいなかったクレイの、話に聞いた物語にでてくるような親という存在を見た気がした。

「話せてよかった。またいずれ会うことになるだろう」
階段室へ送りだしたクレイの背中を扉の向うに消えるまで見送った。












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