Ventus  177










扉を抜けると硬質な路地裏が目の前に伸びていた。
背中には古びた鉄門が固く閉ざされている。
灰色の道と煤がついたコンクリートに同化した鉄の扉の向うに、丁寧に作りこまれた芸術作品の箱庭が広がっているなど、誰ひとりとして気付きはしない。

「それから」
最後に女性は少し頬を緩めながらそっとクレイに囁いた。

「家に帰ったら歩き方を少し勉強なさい。きっと、役に立つことだから」
いきなり着慣れない服を着ても、中身は伴わない。
取り繕いが見抜かれてしまう。

確かに、な。
クレイは脇を締めて鞄を固めた。
それもまた、任務には大切なことだ。
必要であれば受けよう。
そういう課程は受講できただろうか。
カテゴリーは何になる。
そのあたりは第四部隊長か、あるいは朱連を統括しているキースに尋ねてもいい。

さて、集中だ。
顎を引き、人通りの戻る道に踏み入れた。
目だけではない。
耳にも集中しろ。
近づく気配はないか。
衣擦れ、砂利を踏む音は近接にないか。
小さな商店のショーウインドウに首を振った。
何気なく興味を引かれる風に窓を流し見ながらも、ガラスに映る背後と周辺を探る。

目が強すぎるわ。

言葉が脳を過った。
そうだ、目を反らせ。
何も見ていない風を装い、かつ注意をあらゆる方向に張り巡らせる。
喧騒の中に異物は見当たらず、クレイは予定通りバスに乗ることができた。

そういえば。
新鮮で刺激的な雰囲気に多少高揚しながら、その理由を思い出した。
公共機関の乗り物に乗るのは久々だ。
街に出たのも久々だ。
真昼の暖かい空気は嫌いじゃない。
ぼんやり眺める車窓も、流れていく景色を追うのも好きだった。
ビジネスマンがスーツに身を固めて忙しなく行き交っている。
腕時計に目を落として足早に駅に流れ込む男性、道の脇で立ち止まり書類を探りながら電話している女性。
授業が早く終わった女子学生が二人、アイスクリームの店の前で寄っていこうか相談中だった。
クレイは、それらいずれにも属さなかった。
世界はこんなにも広いものだと、気づいたのも最近だった。
クレイの生きてきた場所は、学校の中だけだった。
鉢に入った金魚のようだ。

ガラス鉢の向こうの世界は絶えず動いている。
クレイはその世界の水面にわずか爪先を浸したに過ぎない。
何も、恐れるものはないのだと、恐怖は消えたのだと教えてくれた人がいた。
進むべき道など引かれてはいない。
自分で選び、切り開いていくのが、生きる道なのだと知った。

私に、何ができるだろうか。
私に、何が守れるだろうか。
セラを守るために強くなることを願い、強くなるために軍に入った。
でももう、彼女はいない。
何を選べばいいのか、道に迷ったとき、導を与えてくれる少女はもういない。

降車駅が近づく。
耳をそばだてる。
二人が降りたその後ろに付いて降車した。
事前に定められたルートを歩く。
停車駅で散り散りになり、人の数は減った。
このあたりは子どもが多いようだ。
石畳の歩道を歩き、たまに横を抜ける車に気をつけながら目の前に迫った角を左に折れた。
車が一台通れる道だ。
頭上には両側の石壁の家を繋ぐ橋が渡してある。
川の中を歩いている気分で、不思議な景観だった。
都会の雑然と密集した圧迫感とは違う、セピアがかった温かみのある街並みが美しい。

角を曲がりきったところで、軽く鳥肌が立つような違和感を覚えた。
人の目は、あらゆるところにあると知りなさい。
託けとして、書簡とともに庭の女性は言っていた。

それは確定ではなく疑惑。
彼女が言った意味を、背後に注意しながら噛み砕く。
つまり、特定されたら終わりということか。
緊張と警戒で、脇の鞄を締め上げないよう、体の力を抜く努力をした。
五分歩き、角を曲がったところで距離を離し、まだ追いつかない瞬間に路地裏に大股で飛び込んだ。
ペースを戻してしばらく歩くが、背後の気配は消えた。
人気のない道を行く中、男がドラム缶に手を突っ込んで漁っている。
少なからず見る光景だったが、クレイは違和感を感じた。
その光景がそこにある状況にではない。
その男がその状況にあることについて、だ。

目を合わせず、通り過ぎ際に光景を目に焼き付けた。
画像として記憶した情報を歩きながら解析する。
何が違う、何の違和感だ。
時間はない、直感を言葉に、形に。

綺麗過ぎる。
男の衣類だ。
古物だが、まるで衣装のようだ。
それに臭いだ。
ゴミの臭いはするが、男からはアンモニア臭のような独特の人間の臭いがしない。

クレイの首筋が熱くなる。
嫌な予感というのは首の後ろからやってくる。

銀色のゴミ箱に目をやった。
あちらこちらにぶつけられて歪んでくすんだ表面が黒い影で濁る。
クレイは壁際に身を寄せ、しゃがみこんだ。
頭上すれすれを拳が飛ぶ。

これは、確定していいか。
事故ではないよな。
屈みこんだ姿勢から前へと蛙のように跳躍した。
クレイがいた場所に太い脚が抜ける。
あんなもので脇腹を蹴られたら肋骨も内臓も無事では済まない。
クレイはスカート裾を払って体を起こした。
その立ち位置に、銀色のゴミ箱が飛んでくる。

今は背後にしている、クレイの進行方向に人影はない。
今、対峙している男の背中越しにも人はいない。

融け込むことこそが今回の任務の主眼だ。
目立つ行動は避けること。
ただし、任務遂行を明確に妨げられた場合にはこの限りではない。

涼季でもないのにロングコートを厚く、擦れた服を重ね着て、油に浸したような固まった髪をしている。
下から舐め上げるように睨み付けるそのどす黒い顔と見開いた眼。
刺すような鋭い眼は、クレイが今まで見てきた貧民街の男たちの目とは違った。
あいつらからは酒の臭いがした。
体臭と悪臭がした。
薬の臭いがした。
反吐が出そうな声で子どもだろうと何だろうと、いや、子どもだからこそ弄り殺そうとした。
鼻も歪みそうな口臭を耳や首に擦り付けてきた。
あいつらにあったのは、無差別で無気力な暴力だ。
だが目の前のこいつが発しているのは一方向に向かう明確な殺意だった。

男が上着の後ろに手を突き入れたまま前傾姿勢になる。
瞬く間にクレイとの距離を詰め、クレイの目の前にナイフを突き出した。
クレイは左に避けた。
壁に両手を付き、伸ばして壁から跳び下がった勢いを振り上げた脚の軌道に乗せる。
クレイの靴を男の左手が受け止めた。
靴底にはナイフの柄が押しつけられている。

「両刀、仕込み武器」
草を刈るように、クレイの首を刈りにかかる。
闇雲に左右の手を内に振りながらクレイを追い詰めるのではなく、的確にクレイを狙いナイフは振り下ろされる。
両手使いなのでクレイも息を吐く暇がない。
左右に避けつつ後退し、男を追い抜いて路地を脱することも、また背を向けて戦闘状態から離脱する隙もない。
クレイが大きく後ろに仰け反り、バランスを崩した。
その隙を男のナイフは透かさず追う。
クレイは咄嗟に両手を地面に付き、体を捻って大きく足払いをかけた。
クレイ追撃に上半身の神経を集中させていた男の足元は思った以上に攻撃の効果があった。
伐採した大木のように体が倒れる。
クレイは大木の伐倒から間一髪逃れる、その瞬間視線の端に男の腰のバックルへと目が吸い寄せられた。
剣を腰に仕込んである。
男が転倒する直前に、腰にあった剣へ手を伸ばして引いた。
まさかうまく剣を抜きされるとは思っていなかった。
剣は短く、しかし手の中に重く沈んだ。

壁にナイフを握りこんだ拳を突き立てて男は立ち上がる。
目は憤怒に燃えていたが、クレイ消去の任務と殺意は真っ直ぐにクレイに突き刺さる。 スタミナも腕力も桁違いだ。
掴まれたら最後、壁に頭を叩きつけられて割られる。
そんな死に方は嫌だ。

あるいは鈍く光るナイフで心臓を抉られるのも勘弁願いたい。
クレイから書簡を奪うのではなく、正体を明らかにしているのはクレイを返すつもりがないからだ。
男の選択は、クレイの殺害以外存在しない。

男が壁に寄り掛かっている隙にとクレイが体を横にし駆け出しかけたその時に、男がクレイの背中に飛びかかった。
クレイは斜め前に前転した。
回転の勢いで立ち上がり体を起こした男の左手を蹴り上げた。
不意打ちを受けた男の左腕が跳ね上がる。
華奢な人間なら拳からナイフを飛ばせたが、生憎手の中に握りこまれたままだ。
放った左脚を引き付け一回転し、逆手に持った短刀を蹴りの軌道上に乗せた。
正面から突くには力もスピードも足りない。
体重を乗せて後ろ手に男の腕を狙う。
クレイの軌道計算は誤差なく、狙い通り男の手首に刺さった。
肉が一番薄い箇所、腕の内側で皮が一番薄い場所だ。
貫通はしなかったものの、男は声にならない咆哮を上げる。

クレイは右手に左を添えて短剣を一気に引きぬくと、次に右手を抑えにかかった。
脚を高く振り上げ、踵の高い靴で男の右手を捉えると壁へと踏みつけた。
鋭利なヒールが男の拳を抉る。
スカートの裾がはだけ、白い太腿が露わになるがクレイの足は容赦なく男の拳を潰して解していく。
左手が死んだ男が図太い脚を振り上げ、上半身を振りながらクレイに襲いかかる。
クレイは男の右拳を已む無く解放した。
しっかりと、最後に壁へと踵を押しこんで、だ。
壁を蹴ってクレイが男から距離を取る。
飛び道具の名手ならば、手にしている剣を投げつけるなり、肉弾戦を得手としているなら人体の急所各所へ拳を入れているところだが。
勉強不足で繰り出せる技に限りがある。
締め技の一つでも覚えておくべきだった。
多少、男の動きは鈍っているが動きに切れがある。
まともに腕で受けたら折れそうな力だ。
男の右手に握られたナイフがクレイの肩と首を狙う。
寸でのところで避けるが、何度か肩の皮を破った。
圧倒され、足を取られて地面に転がった。
手から短剣が零れ落ちる。

まずい、上を取られる。
クレイは身構え、しかし右手には壁、左手には男の影が迫る。
背中には転がった銀のゴミ箱が妨げになっている。
ゴミが散らばり悪臭が湧きあがる。

クレイは頭上に手を伸ばした。
手に冷たい金属の感触が伝わった。












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