Ventus  169










「女性です。研究員です。右足を負傷。歩行は、困難なようです」
先輩兵が女性研究員に距離を縮め、肩に手を乗せて体を引き起こした。
彼女の周りには菓子の袋が散乱し、微かに水が残ったボトルが腰の横に立ててあった。

「外傷へ止血は、してあります。応急処置も適切で腫れもひどくはありません。ただ衰弱はしています」
腰に下げていた救急キットから、食糧と水を取り出し彼女の手に握らせた。

「どうなってるの」
引き攣った喉は久しぶりの声を送りだした。
枯れた声だった。
緊急通信が入ってから四十八時間余りが経過している。

「調査中です。おそらく、ここは安全です」
「他は? 逃げられたの?」
「生存者は今のところあなただけです。他に逃げた人の心当たりはありますか」
「嘘でしょ?」
絶望と驚異が入り混じった悲痛な叫びが、固まった喉から絞り出される。

「緊急時には防壁が作動するはず。なのに、動かなくって、でもそんな」
「管制室には別の班が向かっています。あなたが見たり感じたこと、状況の説明をお願いしたいのですが」
廊下の東側から、悲鳴が聞こえてきた。
獣の唸り声も同時に聞こえた。
階下の階段のある方角だった。

「ケージが壊れたのかと。でもあれが? わからない、でも獣(ビースト)は確かにこっちに向かって」
発作のように彼女は顔を膝頭に埋めた。
嗚咽が漏れる。

「ねえ、他にいるんでしょ? 助かったんでしょ?」
「あなたの情報を頼りに動きます。何か、見たり聞こえたりしたことは」
「わかんないわよ!」
泣き叫ぶ彼女の肩を撫でて、宥めた。
助けが来ない間、眠るに眠れず、手元にあった僅かな菓子で飢えを凌いだ。
たった一人で。
その不安は幾何か知れない。

「眼が」
「目?」
「眼が見えたわ。立ってた私を、真っ直ぐ見てたわ」
涙が絶え間なく流れる瞳を見開いて彼女は顔を上げた。
思い出した光景を目の当たりにしたように、宙一点を見つめながら小刻みに肩を震わせていた。

「真っ直ぐ、正面から、真っ直ぐ」
「それは、どこに?」
「恐くなって、ここに閉じこもった。獣の形態の獣(ビースト)が飛び出して来たから」
足をやられたのはその時だった。
運良く中に転がり込んだ。
壁伝いに立ち上がり、扉を閉ざして鍵を掛けた。
幸いに、彼女が常駐していた仕事場の引き出しには菓子が詰め込んであった。
上にある浄水タンクにはまだ水が溜まっている。
非常用の電力で水は供給されていた。
菓子と、ボトルに詰めた水とで飢えを凌いだ。
ふくろはぎを水で洗浄し、止血した。
友人から以前おそわった簡易処置が良かったのか、酷く膿むことはなかった。

「誰か来たら開けるつもりだった。ずっと待ってたわ。でも誰も扉を叩かない」
結局ここには彼女が一人きり。
混乱し、泣き、やがて彼女は脱力した。
ここを出ないこと、救助部隊は別で後でやってくること、階上の獣(ビースト)は駆逐したことを説明した。
疲れ切った彼女は、頷いているのか聞き流しているのか、壁に頭を凭せ掛けて黙っていた。

「動くのは辛いと思いますが、我々が外に出たら必ず施錠してください。直ちに、いいですね」
「また、一人なのね」
「救援は来ます。あなたの場所は伝えました。だから、信じて」
ようやく彼女の体に力が入った。
獣(ビースト)から受けた傷は酷く痛む。
二人の兵士に両脇を支えられながら扉の脇へと体を寄せた。
一人がアームブレードを構える。

「解錠」
新人兵が先輩の指示に従い操作盤を叩く。
鍵が開く音がした。

「開放」
扉の隙間から様子を伺い、すぐさま二人は飛び出した。
背後で堅く、扉が閉ざされた。
錠が降ろされる重い音がした。
廊下は静まり返っている。

「状況を報告なさい」
隊長の声だ。

「十七区画のケージが破損しているようです。おそらく、獣(ビースト)は外部からではなく、ここで飼われていた」
侵入口なんてない。

「道理でね。そんな穴なんてどこにも空いてないもの」
イヤフォンを通じて返ってくる。

「私たちに命じられたのは、『侵入した』獣(ビースト)の駆除とは言われなかった。漏洩した獣(ビースト)ってわけね」
そのイヤフォンから咆哮と鈍い音が流れてくる。
荒い息遣いと重い何かが倒れる音。

「管制室は壊滅的だわ。一体何をどうしたらこんなに。非常電源が生きてたことだけは幸いね」
声は入れ替わる。

「これで、粗方この階層は片付いた。奥に行きましょう。こちらの生存者は合わせて三名。道々で確認したわ。とりあえず一時退避してもらってる。後で救助部隊が拾ってくれるわ。飼育エリアへ」
ノイズ混じりのその声に尻を叩かれて、新人を引き連れて彼女は走った。




「全員無事ね」
久々のご対面に、隊長殿は満足そうに微笑んだ。
周囲は人を引き摺ったのか、人が引き摺ったのか、どちらの血とも知れない血が、ペンキで殴り画いたように床と壁に尾を引いている。
非常灯の赤みを帯びた光と、彼女の血濡れた半身が表情とアンバランスで酷く恐ろしく感じた。

「新人二名、ついてきてるわね」
「何とか」
「吐いたら水分が出ちゃうから我慢なさいね」
さて、と彼女はアームブレードを体の横に垂らして前へ向き直った。

「どう思う?」
「袋に穴が空いていた。あるいは、そもそも穴なんてものはなく、中から零れただけだった」
「最初は前者だと思ってた」
「袋の中には何匹いる?」
「袋を開けなきゃわからない。だってこれは、秘密の袋のようだから」
生臭い臭いがした。
その先に、蠢く物があった。

「周囲を警戒しつつ、前進」




酷い有り様だ。
檻がぬらぬらと光って異臭を放っている。
空気の淀みが濃くなった。
非常電源の排気では間に合っていない。
腐敗臭は吐き出されず、生温かい塊となってそこに居座っている。
光が当たれば、その筋が明らかになりそうな濁り具合だ。
檻に濡れているのは油ではない。
血、体液だ。

気持ちのいいものじゃないな。
一人が檻の中で暴れている獣(ビースト)を見下ろした。

「飼えるものなのか」
「さあ。でも実際こいつらを檻の中に入れてんだからそうなんだろうね」
空いている檻を検分した。
鍵が壊れている。

「劣化? まさかね」
「解錠方法は?」
強固なはずの鉄格子と鍵が壊れている。

「単純に鍵を差し込む?」
鍵穴はついていた。

「もしくは、電子制御か」
隊長の班にいた女が制御盤を叩いた。

「そんなの悠長にいじらずに、叩き壊したみたいだけど」
懐中電灯で手元を照らした。

「つまり」
「何者かが外から開けたのよ。獣(ビースト)を開放した。制御盤ではなく、物理的に」
「研究員の誰か? としたら生存者の中に混乱を引き起こした犯人がいるって?」
「普通の檻じゃないの、これは。そんな力の人間がどこにいるっていうの」
「人間じゃないのなら、それって」
獣(ビースト)しかいないじゃないか。
獣(ビースト)が驚異的な知能の高さを有しているのは確認されている。

「ただ奴らに仲間意識なんてものが」
続く言葉は離れた位置にいたクレイの耳に届かなかった。
気配を感じ、クレイがケージの上へ視線を持ち上げた。
水滴の音がする。
水まで漏れだしたか。
ケージと壁との隙間に荷が乗せてある。
非常灯の明かりでは影を確認するには薄過ぎた。
クレイはケージに近寄り顎を上げる。
荷、ではない。
横に長いそれは、黒っぽく見えたそれは、湿った白衣だった。
丸まった背中だった。
その脇で、何かが動いた。
クレイの黒曜の目は、何かの鈍色の眼と重なった。

声を上げる間も無かった。
クレイの顔目がけてその爪はケージを掻いて跳んだ。

クレイが動くのを視界の端に捉えた回りの人間が一斉にアームブレードを振り上げた。
クレイが咄嗟にブレードを翳し直撃は避けたが、獣(ビースト)は戦闘態勢に移った彼らの足下を抜ける。

「外に出すな!」
誰かの声と同時に、入口を固めていた新人がブレードを払う。
剣先が獣(ビースト)の鼻先を掠めた。
一瞬怯んで身を引いた獣(ビースト)が後ろに返した首を、ブレードの刃が綺麗に捉えた。
さすがに太い骨と巻き付いた筋肉は引き斬ることができず、ブレードは獣(ビースト)の気管に達するに留まった。
指示を掛けるまでもない阿吽の呼吸で、他のブレードが獣(ビースト)の胸へと突き入れられる。

「これも、飼われていたのか」
「だとしたらタグは?」
足で事切れた獣(ビースト)の腹を転がした。

「インプラントチップだとしたらすぐには判別できない」
飛び交う言葉の川の中で、ふとクレイの頭を掠めた考えがあった。

「獣(ビースト)の泉」
「どうかした?」
覗き込むように、隊長がクレイの隣で顔を向けた。

「いや」
「泉?」
「あ、獣(ビースト)が」
どんな場面でも、隊長の色は失われない。
クレイが言い淀むのを、急かすことなく耳を傾ける。
他の人間は獣(ビースト)の検分と制御盤の損傷確認とケージ内の獣(ビースト)の確認で忙しい。

「地下から湧いているとしたら、と」
馬鹿馬鹿しいと一蹴されると思った。

「地下にもきっとケージはあるわ」
「さっき青い薬剤を見ました。あれは獣(ビースト)と魔石とを癒着させる、定着剤だった」
「素材として獣(ビースト)を飼っているというのね」
「数が多過ぎる。それに、種別も。ケージは外から開けられたと言った」
「いずれにしろ、ここには潜らなくてはいけない。あなたの仮説にも答えをださなくては」
クレイは己の根拠の乏しい仮設に彼女が正面から向き合うとは思わなかった。

「私たちは獣(ビースト)を狩ってきたわ。でもそれが何なのか分からないでいた。でも、分からないのは、知らないでいたのは私たちだけだったのね」
知らないでいい人間たちだった。

「でもここに私たちが今在る、その意味を考えたいわ」
彼女の言葉の先を求めようと、彼女の言葉が意味することをイメージしようとクレイは貪欲に耳をそばだて、鼓動が高鳴っていく。

「見ること、知ること、そして始まるの。誰かの糸が、私たちを導き、事の扉を開こうとしている。何かを始めようとしている、それは」
「私は誰にも動かされない。私を動かしていいのは一人だけだ。だから私は私のために知る」
「いい意志だわ。答えを、開きましょう」












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